糸穂の章 21
糸穂は赤い着物に袖を通した。およそ二か月ぶりだろうか。
うっすらと汗が肌からにじんでいる。指先が細かくふるえた。糸穂は心を落ち着けるため、なんどか大きく息を吸って吐いた。
「ほんとにいいのかい、猿ぐつわなしで」
トキが心配そうに声をかけた。糸穂はうなずいた。午前中に夫人の部屋を訪ねたが、面会は断られた。夫人の怒りからすれば、もっともなことだろう。
糸穂の思いは、ひとつだけだ。
また御囲部屋へ入ること。黒羽織は嘘をつくかも知れない。いや、つくのが当たり前と考えなければ。
これから糸穂は黒羽織に真剣勝負を挑むのだ。万が一、声を発せないようにはめている、猿ぐつわを糸穂はつけないことにした。
もしも、応えてしまったなら、糸穂は現世には帰れない。異界へ飲み込まれる、それがどういうことなのか、実際は謎だ。一度飲まれて帰って来た者がいないから確かめようがない。
「トキ、わたしが帰らなくても泣かないでね」
糸穂はトキの細く乾いた指を握った。トキは無言で糸穂の手を握り返した。
「気をつけて行っておいで」
トキが御囲部屋の板襖を開けた。糸穂は部屋へ一歩踏み込む。トキの声がした。待っていると。
糸穂は口をぐっと堅く閉じ、暗闇を進んだ。いつもの山椒のような香りが体にまとわりついた。
御囲部屋の中は霞がかかっているように。視線を上に向けると、白く光の玉がいくつも浮かんでいる。両手で前を探り、足元に気をつけながら糸穂は進んだ。
足袋裏が畳の感触を捉えている。あと少しか?
「おい、どこまで行く気だ」
びくっと肩がふるえ、糸穂の肌に鳥肌がたった。
「ずいぶん久しい」
黒羽織の声が尻すぼみだった。糸穂の口元にきづいたらしい。大仰に手をたたく音がした。
「これはみあげた。猿ぐつわなしで来たのか」
糸穂は黒羽織の前に座り、ぐっと睨み返した。
「これは、これは。いい顔をしているな、糸穂よ」
面白いではないか、と黒羽織は笑いをかみ殺している。糸穂は膝のうえで、手指を握りしめた。
「わたしの予測は役に立ったろう。反対側へ掘り進んでいたなら、爆発が起きたのだから。被害が小さくてよかったな」
糸穂は体がふるえた。あれでよしと言うのか。命こそ助かったが、手足を失った者もいたと聞いたのに。
嘘に踊らされるな、今度こそはほんとうの事を吐かせるんだ。
「何が聞きたい。値の上がる株か、缶詰工場を大きくするか、買収すればいい会社か」
会社、のところで糸穂はうなずいた。声は出せずとも、黒羽織とやり取りはできるのだ。
「ずいぶんと積極的だな。今までは黙っていたのに」
黒羽織は、喉の奥を鳴らして笑った。まるで猫のように。
聞き分けろ、黒羽織の言葉を。糸穂は黒羽織の言葉を、声のようすを聞き逃すまいと感覚を研ぎ澄まし、集中した。
「そうだな……南河原のほうに、旅館を手放したいと思っている者がいる。探せ」
それは、真だろうなと糸穂は息をつめて黒羽織を見つめた。
「息をしろ、糸穂。顔が真っ青だ」
糸穂は首を横に振った。真意を確かめられなければ、意味がない。
「強情な」
どん、と肩を突かれて糸穂は横転した。思わず声が出そうになったがこらえた。
「さっと帰るがいい」
それきり黒羽織の気配は消えた。糸穂は、ふらつきながら立ち上がると、出口を目指した。
板襖を開けて、そのまま倒れた糸穂を抱き起した細い腕があった。糸穂は顔に、ぱたぱたと水滴があたるのを感じた。
「トキ、泣かないで。戻ってきたよ」
糸穂は一気に緊張がとけて、そのまま気を失った。




