糸穂の章 20
糸穂は凍える指先に息をかけ、こすり合わせた。風がうなると、糸穂の頭にぱらぱらと冷たいものがかかる。
「雪だ」
蔵の中に入れられてどれくらいたつのだろう。すでに外は暗いようだ。海城の夫人を怒らせた糸穂は、夫人の命で蔵に入れられたのだ。
これからどうなるのか糸穂には見当がつかない。夫人は、遊郭にでも売ってしまえと言っていた。遊郭ってなんだろう。糸穂には分からなかった。ただ、ふつうの暮らしをする場ではないらしい。
どうして、自分は夫人へ子どもはできないなんて言ってしまったのだろう。
糸穂は今更ながら頭を抱えた。
黒羽織は海城の子どものことについて、今まで一言も言及したことがない。それは、子どもが生まれる未来はないからではないか。糸穂はそう感じていた。
でもそれは、糸穂とアオのことも同様なのかも知れない。黒羽織は知っているのではないか。糸穂とアオには未来がないことを。アオは妖だ。妖のアオと人の糸穂。どちらか一方の世界で暮らせるようには思えない。
がたん、と背後で音がした。鼠だろうか。糸穂は体を固くした。
「返事はするなよ」
小さな声がした。糸穂はすぐに、それが猿の声だと分かった。
「とんだ災難だな、嬢ちゃん」
糸穂は唇をかんだ。正直言えば、夫人があれほど激怒するなんて糸穂には思いもよらなかったのだ。
「黒がすまない。あいつはあいつで、悔いていることがあるんだ」
首をかしげて、糸穂は猿の話を口をつぐんだままで聞いた。
「このままだと、嬢ちゃんはこの家から追い出される」
糸穂は思わず腰を浮かした。海城の家を追い出されたら、どうなるのか。一気に現実を突きつけられる。
「御囲部屋は怖いか。もう俺たちを嫌いになったか」
糸穂は静かに首を横に振った。嫌いではない。ただ、嘘をつかれたせいで誰かが傷つくのがいやなのだ。
「黒はこれからも嘘と本当をまぜて話すと思う。あいつがいちばん先を見る力が強いから」
何度も嘘をつかれて、そのたびにけが人が出るのだろうか。百歩譲ってけがだったらまだいい。もしも亡くなる人が出たなら? 糸穂はどうやって詫びればいいのだろう。
「嬢ちゃん、手を出して」
言われて糸穂は手を伸ばした。すると、何か小さなかけらが手に乗せられた。いや、手にふれるとそれは消えた。
「あいつからだ」
――あいつ。……アオだ。
かすかに花のかおりがする。たしかにアオの花びらだ。
「あと少し、待っていて欲しいようだぞ」
アオ、今すぐにだって会いたい。けれど、アオは異界の中で繭になっている。糸穂は待つしかない。自分にできることはなんだ。
糸穂は立ち上がると、手探りで蔵の扉の前にたどり着いた。
こぶしで思い切り扉をたたく。
「出して、出して! 部屋に入るから!」
今まで出したことがないくらい、大きな声で叫び、扉をたたいた。
黒羽織は怖い。でも、この先アオに会えずに屋敷を追い出されることのほうが、いやだ。
何度も何度も叫び、声を上げた。手の皮が破れ喉に痛みを感じても、糸穂は続けた。
がたん、と音がして糸穂の顔に冷たい風が吹きつけた。扉が開けられたのだ。
「そんなに叫ぶんじゃないよ、うるさいね。もう夜中だ」
トキの声だった。
「出といで。朝になったら、まず奥様にお詫びに行くんだよ」
糸穂の、はいという返事はかすれていた。しかし、覚悟は決まっていた。




