糸穂の章 19
黒羽織から言われた方角に掘り進んだ果てに起きた、落盤事故だった。
事故は、怪我人は十名ほどだった。死者が出なかったことは不幸中の幸いだったろう。
年の暮れから、年明けまでの一ヶ月、海城は家にも帰らず、ひたすら落盤事故の後処理に追われた。
新年のご馳走を出されることも、新しい着物を贈られる事もなかった。
海城家は、大きな音を立てる者もなく、静まりかえっていた。
御囲様である糸穂は、御囲部屋に入らなかった。
「もう、いや。怖い。また嘘をつかれたら、こんどこそ誰か死んでしまう」
黒羽織の嘘を見抜けなかった。あれほど目を凝らしたのに、耳をそばだてたのに。
糸穂は、黒羽織の言葉を信じ、海城に伝えたことを後悔し続けていた。
「こんなときだからこそ、中の連中からなにかいい話を聞いてこなきゃならないだろう。わがまま言うんじゃない」
トキに叱られても、糸穂は首を横に振って居室の隅にうずくまって動かなかった。
もうだめだ。自分はお囲様を辞めさせられる。アオとは二度と会えない。自分はどこか遠くへ追いやられる。
ならばいっそ、御囲部屋の誰かが自分の名前を呼んでくれたらいいのに、とさえ糸穂は思いつめた。
二月に入り、立春を過ぎる頃にようやく海城が糸穂たちのところへ来た。
「落盤事故のことだが、怪我をした者たちとの話し合いは終わった」
腕組みしてどかりと座布団へ座った海城へ、トキはお茶を出した。
「糸穂、おまえは今調子が悪い。それは去年あたりから変わらん。正直、もう御囲様を辞めてもらった方がいいと思った」
うつむいていた糸穂は、やにわに顔を上げた。
「寒川からの返事はいつも同じだ。御囲様になれる者は簡単には見つからない」
海城は煙草に火をつけ、大きく吸い込むと、ため息のように煙を吐き出した。
「ならば、虫を世話しろと言ったら、虫は懐いた者にしか話を聞かせないからだめだと」
奴は呼んでも、なかなか来はしないし、と海城はまた煙草を吸った。
「糸穂、おまえには御囲部屋に入ってもらわなくては、こちらとしても困るんだが」
糸穂はまたうつむいて、膝の上で両手をきつく握った。
「そうしなければ、おまえをこの家から出さなくてはならない」
部屋の入るのは怖い、けれど、海城の家から出されるのはもっと怖い。
「承知してくれないか」
ーーおまえが海城の主人になるんだ。
こんなに小さなわたしの言葉を大人の海城が待っている、と思うと恐ろしく感じる。
けれど、アオに会えなくなるのは、耐えられない。
糸穂は答えられずに口をつぐんだ。
助け船を出してくれたのは、トキだった。
「旦那様、少し時間を糸穂に与えてください」
トキが体を動かす気配がした。きっと頭を下げているのだ。糸穂も慌ててトキに倣った。
「さしては、やれない。十日だ。十日考えろ」
海城から与えられた十日を、糸穂は居室に閉じこもり、ひたすら考えて過ごすことになった。
日課のようにしていた編み物も縫い物にも手をつけずにいる糸穂を見かねて、トキがなんども説得をした。
「あんたは、御囲様をしているおかげで、ここに置いてもらえているんだよ。それを忘れちゃいけない」
かつてトキも御囲様として、海城に仕えた。その先輩としての言葉は確かに重かったが、糸穂はただうつむくだけだった。
御囲様をやめさせられたら、自分はどこにいくのだろう。生まれた家には帰れない。
目が見えない自分に出来る仕事などあるのだろうか。それに、御囲部屋を離れてしまったら、アオはどうなる。繭から出て自分がいなかったら。
けれど、また黒羽織に嘘をつかれて、今度こそ取り返しのつかないことが起きたなら。考えるだけでからだがふるえる。
思いは堂々巡りで、答えは見つけられない。
七日目に、海城夫人の使いがやってきて、表座敷へ来るよう、糸穂に声をかけた。
夫人の誘いをむげに断るわけにもいかず、糸穂はトキと表座敷へと出向いた。
「どう過ごしているか、心配したのよ」
夫人はいつものように、少々甘すぎる香りをまとっていた。糸穂は顔をしかめないよう気をつけたが、しぜんと口は重かった。
「お菓子も持ってきたのよ。でも、まずはお洒落をしましょう。きっと気が晴れるわ」
いつものように、糸穂を着せかえ人形よろしく、着物を女中に持たせてきたのだ。
「糸穂、きれいな着物だよ。銀鼠の地に、青い朝顔が描かれている」
トキはいつになく明るい声で糸穂に話しかけた。
「糸穂にはちょっと地味かしら。母様から譲られたものなの」
「いいえ、とても素敵です」
糸穂には、二人の会話はあまりに空虚に感じられた。トキは糸穂の機嫌をとるように話す。着物の模様など、糸穂には見えない。どれでも同じだ。うんざりして糸穂は知らぬ間に眉間にしわを寄せていた。
「ねえ、糸穂。御囲部屋で、先のことが聞けるのでしょう?」
「……はい」
夫人は糸穂の長い髪を櫛ですいた。
「わたしの赤ちゃんは、いつごろ生まれるのか聞いてくれないかしら」
「こちらから、尋ねることはできないのです」
明確な決まりをトキや寒川から言われたことはない。けれど御囲部屋について語ることは、なぜかしら口が重くなる。
「そうなの」
夫人は手を休め、小さなため息をついた。
「でも、今までそのことについて何も言わないのは、この先も無いからじゃ」
しほ! トキの鋭い叱責が聞こえた。糸穂は声に振り返る。
ぱん、と糸穂の頬が鳴った。
「なんてこと言うんだい、糸穂! 奥さまに詫びなさい!」
トキはなおも叫ぶ。糸穂は熱く痺れる頬に手をあてうつむいた。
「旦那さまに言いつけるから!」
荒々しい足音が勢いよく去っていく。
言ってはならないことを、言ってしまった。糸穂のからだはふるえが止まらなかった。
次回から更新は土曜日のみとなります




