糸穂の章 18
「よう、いいものが届いたろう」
御囲部屋へ入ると、待ちかまえていた猿が誇らしげに胸をそらした。
やはり生家の騒動は猿の仕業だったのだ。
糸穂は曖昧にうなずいた。特別、嬉しいわけではなかったが、猿が自分のために動いてくれたことを思えば、感謝するしかなかった。
「あのべっこうのかんざし、きっと嬢ちゃんに似合うぜ。こんど着けてきて来てくれよ」
糸穂は、こんどこそ困って首を横に振った。どうしてだ、と猿は言った後、ひとつ手をたたいた。
「ああ、そうだよな。あれは祝言のとき用だもんな」
分かってくれてよかったと、糸穂は胸をなで下ろした。
生家から返された実母の櫛やかんざしは、いったんしまっておくことになった。どのみち今の糸穂には、まだ不必要だ。
「おまえが花嫁になるとき、使えるねえ」とトキは嬉しげに話すが、糸穂は嬉しくなかった。
今年、糸穂は十三。女は十五才で結婚ができるのだという。あと、二年しかない。
アオは繭から出てこられるのだろうか。
けれど、出てきたとしても、人ならざるアオとずっと一緒に居られるはずがない。それに糸穂のほうが先に御囲様から引退するかも知れない。
月のものが訪れたなら引退なのだ。さいきん、わずかだが、胸がふくらんできた。体は大人へと一歩一歩近づいてゆく。自分では止められないことに、糸穂の気持ちは乱れ、眠れぬ夜もあるのだ。
「糸穂、どうした。元気がないな」
猿に声をかけられ、糸穂は顔を上げた。すぐ近くにいるはずの猿の姿は、靄にまぎれて半分も見えなかった。
ふり仰ぐと、つり下げられている明かりも、ひどくぼんやりとしている。
「いいかげん、座らんか」
いかめしい黒羽織の声で糸穂は方向の見当をつけて床に正座した。
「さて、新しい年を迎えたばかりだ。なにを話そうか」
黒羽織は顎のあたりをなでているように糸穂には見えた。
目がかすんで見えづらいなら、黒羽織の声に集中しなければ。きっと嘘と本当とでは、声の様子が違うはずだ、と糸穂は耳をすませた。
「そうだな……どれほど先のことを」
黒羽織がわずかに言葉を切り、思索にふけるよう顎に指をあて、首をかしげた。
糸穂はふと、思った。
黒羽織は、どれくらいの先まで見通しているのだろうか。もしかして、アオがいつ繭から出てこれるのか知っているのかもしれない。
それこそ、糸穂の未来まですべて分かっているのかも……糸穂は一瞬悪寒にふるえた。
「そうだな、まあ、あまり政治に首を突っ込まぬことだ。それから、缶詰の会社でも買えばよかろう」
それだけだ、と言うと、あとは早く帰れと言わんばかりに、糸穂を手で追い払った。
糸穂が持ち帰った予測は、可もなく不可もなく扱われた。ただ、海城は缶詰事業に手を出すかどうか思案中だったようだ。御囲部屋の託宣が決め手になったらしく、俄然やる気を出した。
前回の失敗を挽回でき、糸穂はほっと胸を撫で下ろした。
しかし、夏ごろ黒羽織は前年と同じ予測を糸穂に語ったのだ。
「なに? また、九月には帝都へは行くなというのか」
表座敷を訪れた海城に、糸穂は告げた。
「はい、そのように申しておりました。九月に帝都で大きな事件が起きると」
糸穂は頭を下げた。黒羽織の嘘のように感じて自信がなかったが、黒羽織が教えてくれたのはこれ一つだった。
「九月に帝都で、大事な仕事の取引があるのだが」
――また、外れだったらどうしよう。
糸穂は額に汗を浮かべた。けれど、もっとも重大な言葉を続けるしかなかった。
「い、命にか関わる、とも」
「なんだと、それはほんとうか」
海城の声は色めき立った。
ほんとうです、と答える糸穂の声は消え入りそうだった。
海城は、東京行きを取りやめにした。
しかし、九月にはまたしても、何も起きなかったのだ。
二度も黒羽織は、嘘をついた。
糸穂の立場は徐々に悪くなっていった。海城からは、次こそは正解を期すようにと言われたが、予測をするのは糸穂ではないのだ。
さらには御囲部屋の中での糸穂の目は、外と同じくなってしまった。かろうじて明かりがわかるくらいの視力になってしまった。
ならば、声で聞き分けようとしたが、黒羽織の声は大きいかと思うと急に小さくなり、まるで波のようで聞き取りにくくなってしまった。
正しい予測を追い求めて、糸穂は御囲部屋で一人奮闘し、ひどく疲弊した。
初冬、ようやく聞き取れたひとつの予測を糸穂は持ち帰った。
しかし、予測は嘘だった。
黒羽織の嘘は重大な事故を引き起こした。
鉱山で落盤事故が起きたのだ。




