糸穂の章 17
新しい年を迎えた。
糸穂たちへは新年の祝い膳と、新しい着物を海城から贈られた。
松が取れ、小正月が過ぎた辺り。
表座敷に糸穂とトキはいた。朝の雪が、小さな庭に降り積もり、光が反射して座敷は明るかった。
ほとほとと、母屋に通じる扉を叩くものがいる。トキが立ち上がり対応した。
糸穂は耳をそばだてた。低い声で話しているが、たぶん女中だ。
「糸穂」
不意に名前を呼ばれ、糸穂はうなずいた。名前を呼ばれても返事をしない癖は、御囲様として四年を過ごすうちに身についた。
「おまえにお客様がみえたそうだ」
「だれ?」
「須栗の家の人だそうだよ」
糸穂は編みかけの毛糸を手から離して、立ち上がった。生家の者が訪ねてきたのだ。
トキに手を引かれて、母屋の座敷へむかう。長い廊下を歩いてトキの指示で正座すると頭を下げる。障子が開く音がした。
「ねえさん!」
少年の声だった。糸穂はやにわに身を起こし、声がしたほうに顔を向けた。
「ねえさん、ぼく賢一です」
「賢一さん?」
賢一は異母兄弟の長男で糸穂より二つ下だ。なんだか切羽つまったような声だ。続けて話そうとするのを別の声が割って入った。
「お嬢様、須栗からの使いでまいりました。浜田です」
浜田と名乗る男性は落ち着いた声で話しかけてきた。ぼんやりと見える様子と煙草のにおいから、海城と同じくらいだと糸穂は思った。賢一は浜田と二人で来たようだ。糸穂はトキに助けられ、座布団へ座った。
「なにかご用ですか」
なるべくゆっくり話すようにつとめた。いきなり現れた生家の二人に糸穂の胸は早鐘を打った。
「ねえさん、母さんをゆるしてください」
「え?」
糸穂は意味が分からず、口許に手をやった。
「これ、お返しします。だから」
賢一が座卓の上に、なにか固いものをあげた。音からして箱のようだ。
「ちょっ、ちょっと待って。わたしには、なにがなんだか」
糸穂が顔の前で手を振ると、賢一の話が止まった。賢一さま、落ち着いてゆっくりとお話ししなさいと浜田が声をかける。
「母さん、去年の秋辺りから神経衰弱になりました」
あの気丈で気性の荒い継母が、と糸穂はいちど唾を飲み込んだ。糸穂は須栗の家を寒川と出て行った日を思い出していた。あの時、継母の意見が強く父親は逆らえなかった。
「母さん、変なことを言い出すようになったんだ。誰もいないはずの部屋から声が聞こえたり、夜中に厨から水を捨てる音がしたりするって。それから鏡を使っていると、自分の後ろに人影がうつるとかそんなことを」
聞いている糸穂ですら、ぞっとした。
「それで、こちらの品をお嬢様へお返しするようにと」
浜田が、かたりと箱のふたを開ける音がした。とたんに、座敷にいたトキと女中の口からため息がもれた。
「糸穂、素晴らしいものだよ。べっこうのかんざしと、櫛と。それから真珠の首飾りと指輪だ。珊瑚の胸飾りもある」
トキが上ずった声で、箱の中身を糸穂に教えてくれた。糸穂は誰の簪や櫛なのか、すぐに分かった。
「……もしかして、わたしのお母さんのものですか」
「そのようです」
「なぜ、今これをわたしに返すのですか」
「それは」
浜田は言いよどんだ。すると横から賢一が声を上げた。
「ねえさんが恨んでる、怒っている。だから、変なことが起こるんだって」
賢一の説明に、糸穂は深いため息をついた。
「わたしは、なにも恨んでも怒ってもいません」
「だって、ぼくも聞いたよ。座敷を駆け回る足音を」
焦るように、賢一は言葉を重ねた。糸穂は首を横に振った。
「賢一さん、聞いて。目が見えないわたしに、駆けることができるでしょうか」
あ、という声がしたきり、座敷は静まり返った。
「わたしは誰にも恨みなどありませんよ。わたしは賢一さんたちのお母さんがよくなるよう、毎日ここで手を合わせましょう」
糸穂は合掌すると、賢一と浜田へ頭を下げた。
「でも、こちらは本来お嬢様が受け継ぐはずのものでしたから、お納めください」
浜田は、箱を糸穂の方へと差し出した。亡き母の形見だ。糸穂は箱にしばらく手を置くと、いただいておきます、と返事をした。
用を済ませた賢一と浜田は、すぐに帰っていった。
「後ろめたかったのかね」
母屋から表座敷へ戻ったトキは、そうつぶやいた。つまり継母は糸穂が受け継ぐべきものを横取りしていたのだ。奇妙なことがあれば、後ろめたさから、糸穂のせいにしたくなったのだろう。糸穂は『御囲様』という得体の知れない役に就いているのだし、と。
実際、糸穂は継母のことを恨んだことはなかった。さびしく思うときには、いつもよりそう存在があった。甘い香りのやわらかな花びらを降らせ、優しく髪にふれる……おそらくはアオ、がいてくれた。
今回うれしい話をひとつ聞けた。
――雄三も、一緒に来たいって言ったんだ。ねえさんに会いたいって。でもまだ小さいから、無理だろうって、我慢させたんだ。
雄三。糸穂が家を後にしたとき、泣いていた三歳の雄三は、今は七歳になっている。
「覚えていてくれたんだ」
糸穂は、静かにほほ笑んだ。生家の思い出は、それだけでじゅうぶんだと思った。




