糸穂の章 36 (糸穂の章/了)
御囲部屋はいつもと同じように思えた。山椒のかおりが漂い、高さの知れぬ天井からは幾つもの明かりがぶら下がっていた。
糸穂はすでに役目から外された身だ。寒川が言っていたように、すぐにも命を失ってもおかしくはないのだろう。けれど、以前と同じように糸穂の目は視力を得て、周囲を見渡せた。
「変わりなく思えるだろうけど、違うんだ」
猿は糸穂から手を離した。すると、猿の姿は靄に変わって流れてしまった。それが契機になったように、天井も床も淡々と崩れていった。
糸穂の肌は一気に粟立つ。
糸穂は深い霧の中取り残された。上下左右がすべて白い霧に覆われる。冷たい霧が頬にあたる。糸穂は強烈な力に肩を押され、倒れ伏した。突然体が重くなり、自由が利かなくなったのだ。
拒まれている。
糸穂は御囲部屋から、手ひどく嫌われたように感じた。
すぐに目が見えなくなった。唇は縫われたように開かなくなった。喉が締まる。
このまま、意識を失ってしまったら駄目だ。糸穂は見えない目をギリギリと開き、閉じた唇を手でこじ開けた。
「糸穂、これまでだ。影となれ」
黒羽織の声が耳に響いた。糸穂は首を強く左右に振る。
負けない。
わたしは、アオに会うのだ。
物心ついたときから、糸穂は離れに一人置かれた。
母屋でにぎやかなお祝い事があった時も、年越しとお正月の時も。弟たちの笑い声が聞こえる時にも、糸穂は一人だった。
けれど姿はないけれど、たしかにアオは身近にいてくれた。
いつもそばにいて寄り添ってくれた妖。あなたの他に、誰を選ぶというのか。
禁忌を破る。もし、しくじったなら命を失うか、影になり永遠に異界をさ迷うか。
どちらでもかまわない。一縷の望みに糸穂は賭ける。
糸穂は、喉に力を込めた。
--運を試せ。
寒川の声が糸穂の背中を押す。
「アオ!」
破裂音がして、糸穂の体が飛ばされた。何かが弾けた。声が波紋のように響きながら広がっていくのを糸穂は感じた。
「お、おまえ」
黒羽織のうろたえる声と、誰かの口笛がした。
「アオ、わたしと、夫婦になって!」
糸穂は顔をあげ、喉の痛みを無視して出来る限りの声で叫んだ。
まるで夜の潮騒のように、遠くで言葉を交わす幾人もの声が聞こえた。
「お願い」
糸穂は立ち上がった。もう体の重さは感じなかった。目の曇りが徐々に晴れていく。天井の明かりが目の中へ戻ってきた。
「はい」
確かに聞こえた。荒い息を繰り返す糸穂は、甘い花の香りをかいだ。糸穂は視線を正面に向けた。
「ア、アオっ」
アオが目の前に立っていた。
糸穂はたまらずアオに抱きついた。
「アオ、アオ……」
アオは糸穂を抱き締めた。その力強さに、糸穂は涙した。ながく、泣くことを忘れていた糸穂の頬を涙が濡らした。
「おまえは……おまえの頑固さにはあきれ果てたわ」
気づけば、渋面の黒羽織がすぐそばにいた。満面の笑みを浮かべた猿がいた。
「やったな、糸穂。よく気づいた」
猿が手を叩く。
妖からの声に答えてはならないという禁忌、ならば人からの呼び掛けは?
その呼び掛けに、妖が答えたなら?
糸穂が行き着いた推論は、当たっていた。
「おまえと、こいつは半分妖で半分人となる」
黒羽織の目は穏やかなものに変わっていた。
「それで、かまわぬか?」
糸穂とアオはうなずいた。ふたりでいられるなら、どんな存在になろうとも構わない。
「さ、常夜見猿御」
糸穂に呼ばれて猿は、笑った。
「名前を知られたからには、糸穂に従わなきゃならない。なあ、夜刀神」
「俺の名前をばらすな! しかし、これで我らは役から解かれる」
「そうだな、障子の向こうで隠居をきめるか」
猿が頭の後ろで手を組み、黒羽織と顔を合わせた。
「やとの、かみ。夜刀神、お願いがあります」
「気安く呼ぶな。なんだ藪から棒に」
糸穂はアオと腕を絡めたままで黒羽織に向き合った。
「あの人の、名前を呼んで。手巾をあなたに渡した人の名前を」
黒羽織の瞳が泳いだ。徐々に顔が赤くなる。
「だとよ。そろそろ覚悟を決めな」
猿が黒羽織の脇をつついた。
「できるか!」
黒羽織は雲に乗ると飛び去った。
「まあ、あいつはあいつでなんとかするだろ」
猿は、やれやれといったていでため息をつくと、足元から鼈甲のかんざしを拾い上げた。
「せっかくの島田が、ひどいことになってるぜ。よほど無茶をしたな」
かんざしを糸穂に渡すと、猿はにんまりと笑った。
「だって、そうでもしないと祝言を挙げさせられるところだったから」
髪型になぞ気を回せなかったのだ。アオは糸穂の手からかんざしを取ると、もとあったところへ、そっと挿した。
「ありがとう。このかんざし、わたしの母さんの嫁入り道具だったの」
アオは糸穂を見つめて、ふっと頬をゆるめ微笑んだ。
「きれい、しほ、きれいだね」
「おい、アオが話したぜ!」
猿が驚きの声をあげた。糸穂はみるみる顔が熱くなる。
「アオ!」
糸穂はアオに抱きついた。アオも糸穂を抱きしめる。
「情熱的だねえ、まあ好きにしな」
猿はふたりを障子の向こうにある、あの一軒家に案内した。
「ここに住めばいい。少しは働いてもらうかもしれないが。今のところは、のんびりしてくれ」
糸穂とアオは、広々とした家で暮らすことになった。
縁側で裁縫をしていた糸穂は、顔をあげた。誰かに呼ばれた気がしたのだ。
耳に手をあてて目をつぶる。かすかに糸穂の名を呼ぶ声がした。それは段々と大きくなる。
「あ、寒川さま……」
糸穂は裁縫道具を片付けた。呼ばれたなら、行かねばならない。
「糸穂」
庭先に中年の女性が、あわただしく駆け込んできた。
「トキさん」
「なんだい、あれは。どこかで聞いたことがある声だけれど」
トキは丸髷に結った髪の乱れを掌でなでつけ、糸穂に問いかけた。
「トキさん、わたしはここを少しばかり留守にしなければならないようです」
まあ、とトキは目を丸くした。糸穂はそんなときに微笑み返した。トキがようやく異界へ呼ばれたのは、今わの際だった。そのためだろうか、記憶の大半を失っていた。
「アオと夫婦になるときの約束なんです」
寒川との約束をたがえるわけにはいかない。
「でも糸穂、そんな体なのにいいのかい?」
「だいじょうぶ、そんなヤワじゃないさ糸穂は」
いつの間にか、猿もやってきていた。あの日、寒川との立会人になった猿は、義理堅く見送りに来たらしい。
「半妖半人の子は、生まれるまでまだ時間がかかる。ついでに、アオのやつが繭から出てくるにも同じくらいかかるだろう」
八畳間の中心には純白の繭が眠っていた。四方の壁や柱、床に、細い糸が幾重にもかかっている。アオの体は、時とともにもろくなり、再生が必要になったのだ。
「こいつのことは、心配するな。おれたちできちんと見守る」
「よろしくお願いいたします」
糸穂はアオの繭を背にし正座すると手をつき、二人に深く頭をさげた。
糸穂!
はるか天井からひときわ強く名を呼ばれた。
「では、行ってまいります」
つぎに目を開けると、おぼろげながら人影が目に映った。
「寒川さまですか」
「ああ、五年ぶりだな、糸穂」
五年、現世では五年の月日が流れていたのか。ここは表座敷だろうか。縁側が開けられているのだろう。風に乗って、海のにおいがする。
「六月ですか」
「あと十日もすれば、そうだ」
寒川が海城の屋敷を訪れるのは、いつも六月だった。黒の徳利セーターに、白っぽい一重の上着が糸穂の目にもなんとなく見えた。
「頼み事だ。もうすぐ、新しい御囲様をここに連れてくる。その子の面倒を見てやってくれ」
トキが亡くなり、新しい教育係がみつからなかったのだと寒川は続けた。
「五年の間に、二人の御囲様が飲まれた」
苦々しい口調で寒川は言った。
「はい」
糸穂は知っていた。黒羽織たちの後を引き継いだものたちが、あまりに容赦なく子どもたちを異界に引きずり込むことを。
「わたしにできることであれば」
「おまえしか、適任はいないさ。おれはこれから子どもを迎えに行く」
寒川は鞄を持つと、帰り支度をした。
「新しい御囲様の名は?」
一度立ち止まって、寒川は糸穂のほうに体を向けた。
「男の子だ。恩という名の」
糸穂は静かに寒川を見送った。
糸穂の章 終
長々と続きました、糸穂の章はこれにて終幕です。
次回からは、寒川の章です。




