糸穂の章 14
どうやって御囲部屋から戻ってきたのか、分からない。
糸穂は、御囲部屋の板襖を背に、トキの前に立っていた。泣き続ける糸穂にトキは濡れた手ぬぐいで目を冷やしてくれた。
トキに、風呂には入れ、ご飯を食べろと言われたが、糸穂は首を横にふるばかりだった。
根負けしたトキは布団を敷いて糸穂を寝かせた。
糸穂は突然去ってしまったアオを思うと、悲しくて悔しくて涙が止まらなかった。
アオが戻らぬうちに、嫁がされたらと思うと、不安のあまり胸がつぶれそうだった。
泣き疲れて眠りについて、ふと気づくとすでに深夜のようだった。
静まり返った屋敷のどこかで、柱時計が二つ鐘を鳴らした。常夜灯の小さな明かりだけの部屋で糸穂は何度も寝返りを打った。
「どうした、目が覚めちまったのかい」
枕を並べるトキが、糸穂に声をかけた。もぞもぞと、糸穂はトキの方に体を向けた。
トキも糸穂に顔を向けているようだ。
「どうした、きょうは。泣いてばかりだったな」
糸穂は、アオのことを言いあぐねた。アオのことをトキに打ち明けるのは、躊躇われた。話せばアオのことがぜんぶ夢や幻になってしまいそうで怖かった。
「トキは、トキの旦那様や子どもは、どこにいるの」
「なんだい、藪から棒に」
大きくなったなら、嫁にいくものだと糸穂に言うトキには、夫や子どもはいないのだろうかと、ここ最近の糸穂は思っていたのだ。
「御囲様を終わってから、お嫁にいったのでしょう」
糸穂の素朴な疑問だったのだ。
トキはため息をついてから応えた。
「子どもは、旦那様のところに置いてきたんだ」
思わず糸穂は、小さく驚きの声をあげてしまった。
「離縁されたんだ。あたしは、嫁ぎ先でうまくやれなかった」
あまりのことに、糸穂は口を両の握り拳でふさいで布団に潜った。
「それで、海城の旦那様にお願いして、御囲様の世話係として働かせてもらっている」
うまくいかなかったことを具体的にトキは話さなかったが、糸穂はひどいことを聞いてしまったと子ども心に後悔した。
「だから、糸穂には幸せになってもらいたいんだよ。きっと不自由なく暮らせるひとを旦那様が見つけてくれるからね」
トキは糸穂の頭を撫でて、布団の上から優しくとんとんと叩いてくれた。
糸穂は想像してみた。お嫁さんになった自分の姿を。とは言っても、糸穂は花嫁を見たことはないのだが。
それでも誰かと添うとき、隣にいるのが旦那様が選んだ知らない人なのは、なんだかしっくり来ない。
幸せなのかどうかも、わからない。
「トキは幸せだった?」
糸穂は布団から顔を覗かせて聞いてみた。
「そうだね、幸せだったと思うよ」
今となればね、とトキは呟くように言った。幸せは、消えたり失くなったりするものなのか。
「……トキ、御囲部屋のこと、おぼえてる?」
「それこそ、忘れっちまいましたよ。もう何十年も前のことだ。むこうだって、きっと覚えてない」
糸穂は眉にきゅっと力が入った。トキの言い方はなんだか変だ。トキは部屋のことは忘れたというけれど、部屋に誰かがいたというなら、全てを忘れたわけではないのではないか。
「いいかい、糸穂。向こうにいる連中は、まともそうでまともじゃない。「怪し」であることを忘れちゃいけない」
はい、と糸穂は返事をするしかなかった。
まともじゃない――ふだん優しい猿もまともではないのだろうか。そしてアオでさえも?
わからないことが多すぎるというのなら、御囲部屋の中も、海城での暮らしも同じだと糸穂は思った。
じき、トキの寝息が聞こえてきた。糸穂はトキの手をしずかに布団へと戻した。
耳を澄ませると、雨の音がした。




