糸穂の章 15
アオが繭になって姿を消し一月がすぎ、季節は夏に変わった。
御囲部屋の中は、外の蒸し暑さが嘘のようにひやりと涼しかった。糸穂は赤い着物の袂をきつく整えて、黒羽織の前に正座した。糸穂の背後には、アオはいない。それがこれほど心細いのか、糸穂は痛いほど思い知った。最初の頃のように過度に緊張し、冷や汗が背中をいく筋も伝う。
表情が曇ったままの糸穂に反して黒羽織は傲慢な笑みを浮かべて、糸穂を見下ろす。
「さて、今日は重大なことを知らせてやろう」
もったいつけるように、黒羽織は糸穂の前を何度も往復した。まるでどこから話そうか、舌なめずりしているようだ。
糸穂はうつむき加減の姿勢で黒羽織を見ている。気のせいだろうか。このところ時おり黒羽織の輪郭が二重になったり、体から靄が出ているように見えるときがある。
「聞いているか、糸穂」
はっとして顔を上げる。いつの間にか、黒羽織は糸穂のすぐ前に立っていた。
「いいか、よく聞け。九月に帝都で一大事が起こる。海城へ伝えろ。帝都へは絶対に行くなと」
海城はこのところ、商売の打ち合わせに数か月に一度の割合で上京している。無関係な話ではない。糸穂は膝のうえに手を重ね、黒羽織に深くうなずいて見せた。
それからと、買っておくべき株の話をした。製薬会社の名をひとつふたつあげた。
以上だと言うと腕組みをし、糸穂を睥睨するとニヤリと笑った。どこか毒気のある黒羽織の笑みに、糸穂は唇をひき結んだ。
今日は猿の姿はない。糸穂は黒羽織に一礼すると、立ち上がり出口へと向かった。
踏みしめる一歩一歩が重い。
御囲部屋にはもう甘い香りはないのだ。
部屋から出た糸穂は、畳に膝をついてきつく縛られた猿ぐつわを外した。御囲部屋から出たとたん、蒸し暑さで糸穂の額に玉の汗が浮かぶ。
「九月に帝都で一大事がおきるから、上京してはいけない」
それから糸穂はトキに株のことを話した。トキは糸穂から聞いたことを紙にしたためた。
糸穂はきつめに着つけられた着物をくつろげた。
「脱いでおしまい。今日はよけいに暑かろう」
窓のない部屋は風もなく、熱い空気が部屋にこもっている。糸穂は着物を脱ぐと、浴衣に着替えた。
九月に何か帝都で起こると黒羽織は言う。何が起こるというのだろうか。
今は七月の終わり。
何が起こるのか、答えはじきに分かるのだろうと糸穂は思った。
御囲部屋からの予測を聞き入れ、海城は東京での商談の変更を相手方へ願い出た。
だが、予測は外れた。九月になり十月になっても、何も起きなかったのだ。
なかなか上京しない海城に痺れを切らし、商談はお流れとなった。
初めて予測がはずれたことで、糸穂は黒羽織の意味ありげな笑みの意味を悟ったのだった。
「どうした、久しぶりに来たかと思ったら、ずいぶんと剣呑な顔だな」
黒羽織は糸穂の前にいかつい表情で立っていた。けれど、それはいかにも作ったものらしく、笑うのを必死にこらえているようにも見えた。
「予測が外れたことか。なに、わたしだとて先を見誤ることもあろうよ。お前の不手際ではあるまい。海城の主人に何か責められたのか」
海城は、商談がひとつ潰れてしまい、今後の経営の見直しをしなければならないと言っていた。
ただ、歴代の御囲様においても『外れる』ことはしばしばあったことなので、糸穂は不問に付された。
糸穂は前回の黒羽織の様子を覚えている。嘘をついた時のわざとらしい笑み。またあの表情をしたなら、用心すればいいのだ。
それなのに、どうしてだろう。
糸穂は黒羽織の表情が見えづらいのだ。まるで顔だけ靄がかかっているようだ。糸穂は何度も目をこすった。
「どうした、糸穂」
糸穂は、ぼやけた自分の指先を見つめてふるえた。




