糸穂の章 13
御囲部屋の者たちと馴れ合っては駄目だと、糸穂はトキと寒川に言い含められた。
糸穂は猿ぐつわをはめられ、御囲部屋の板襖の前に赤い着物を着て立つ。
寒川が帰ってから、トキは糸穂に何度も言った。
――無事に御囲様を勤め上げて、いいところへ嫁いで子どもを産むのが、女のいちばんの幸せなんだから。
まだ十の糸穂には、分からない。いくら海城の主人が選んでくれるからといっても、ろくに知りもしない男のお嫁さんになるなんて、ただ怖いだけだ。
それに、アオと会えなくなるのが何よりも糸穂には耐えられない。よそに嫁いだなら、きっとアオには会えなくなる。
「さ、おいき」
板襖がさっと開かれ、糸穂は足を踏み出した。すぐさま背後で襖が閉められる。しばらく立ったままでいると、闇の中に自分の白い足袋がぼんやりと見えてくる。
糸穂は顔を上げた。何だかいつもと違う。アオの気配がしない。甘い花の香りの代わりに、どこか鼻に抜けるように辛いにおいがする。寒川がまとう山椒のにおいを強くしたのに似ている。
糸穂はすぐさま走り出した。いつもの明かりがつるされた場所まですぐのはず。けれど、何かに邪魔されるように、行けども行けども黒羽織とアオのいる場所には、なかなかたどり着けなかった。
息が上がりそうになるくらい走って、糸穂はようやく明かりに照らされる黒羽織の背中が見えた。
黒羽織が振り向くと、糸穂は立ち止まった。無数の明かりが灯るした、アオの姿がない。糸穂は右を見、左を見、背後を見た。黒羽織以外、誰もいなかった。
「どうした、何をさがしている」
答えなど分かっているだろう黒羽織が糸穂に、にやつきながら声をかけてきた。
「アオならいないぞ」
糸穂は頭を殴られたように感じて、体が動かなくなった。猿ぐつわのせいで、何も尋ねることができないのがもどかしい。
「やつはしばらく来ないな。そう、五年ほどは」
また黒羽織に乱暴を働かれて、崩れてしまったのだろうか。糸穂は胸の前できつく手を組み、うずくまった。
「アオは繭になった」
繭を知らない糸穂は、顔を上げて黒羽織を見つめた。どこか得意顔だった黒羽織は糸穂の反応に拍子抜けしたように、糸穂を見ている。
「まったくよう、まどろっこしいなあ」
天井から猿がくるりと一回転して降りてきた。
「嬢ちゃん、繭を見たことがないのだろう」
こっちへおいでと手招きされ、糸穂は猿の近くへ行った。猿は、腰から扇子を手に取ると、要で中空に四角を描いた。すると、そこには小さな障子戸が現れた。猿は、障子を半分開けた。
「嬢ちゃんに見えるかどうか、わからんが。奥のほうだ。白く光っているだろう」
糸穂は猿が指さすほうを必死でみた。何か白くぼんやりと丸いものが光っている。
「あれが繭だ。あの中にアオが入っている」
糸穂は思わず障子に手をかけようとした。が、猿が開いた扇であおぐと煙のように消えた。
「繭の中に入ったほうが、体や顔が早くできるんだ」
それは少しでも早く糸穂に顔を見せたいからだろうか。
――顔なんてどうでもいい。アオがいなきゃイヤだ。アオは少しもわかっていない。
糸穂の中に、悲しみと怒りがわいた。
猿はすまなさそうに糸穂に語り掛ける。
「五年か六年だ」
五年か、六年。なんて長い月日だ。
「待つしかないんだ」
うなだれる糸穂の肩に、猿は手をのせた。
アオを待つうちに、糸穂は十五・六になる。そのころには御囲様をやめるのだ。そして、どこかに嫁に出されるだろう。
二度とアオに会えなかったら、どうしたらいいかわからない。
糸穂の喉に、目に熱いものがこみ上げてきた。知らずに頬を涙が伝う。
御囲部屋に入ってから、初めて泣いた。糸穂の塞がれた口から、嗚咽がもれた。




