糸穂の章 12
大正十年六月。糸穂は十二歳になった。
「どうだ、お勤めは」
一年ぶりに寒川が海城の家にやってきた。寒川は毎年五月か六月に顔を見せる。海城から謝礼金を受け取るためだ。
「順調でございますよ」
表座敷で糸穂とトキは寒川と話をしている。今日は雨降りだ。縁側の戸は閉じられ、電灯をつけている。
「最近は編み物をしていると聞いたから」
寒川は大きめの紙袋を、糸穂に渡した。
「毛糸。どんなのがいいかわからないから、適当だ」
糸穂が一抱えもある紙袋を覗くと、ぼんやりと赤や青が見えた。触ってみると、糸の太さがてんでバラバラみたいだ。
「ありがとうございます」
糸穂は寒川に丁寧にお辞儀をした。
「由岐哉ぼっちゃん、すっかり立派になられて」
トキが感極まったように声が途切れる。
「会うたびにそれを言うなよ。もう二十二になっているんだし」
寒川の声音には、どこか老齢した雰囲気があった。トキに教えられるまで糸穂は寒川が既婚者で子持ちだろうと思っていたくらいなのだ。
「それで、文乃さんは……」
大人たちの話しはまだ続きそうだった。
「トキさん、わたし隣の部屋で毛糸を広げてもいい?」
糸穂はトキに尋ねてみた。トキはかまわないよと言って、糸穂を隣の座敷へ連れていってくれた。
ぱたんと襖が閉められると、糸穂は毛糸を袋から取り出して一つ一つ畳に並べた。
糸穂には滲んだ色の塊にしか見えなかったが、手に取ると柔らかく、指に馴染むように感じた。
――アオに何か編んであげたい。
新しく編んだのと最初に編んだ不出来な襟巻きを交換しようとしたら、アオは嫌がった。
白の襟巻きを押さえて首を横に振るばかりだった。結局二本目に編んだ襟巻きは、猿が使っている。黒羽織は襟巻きを一瞥し、鼻で笑って断ったからだ。
――セーターとか服も編めるようになりたいな。
糸穂が思いに浸っていると、隣にいるトキと寒川の声がかすかに聞こえた。
「……糸穂は部屋の連中とうまく……」
部屋の連中とは、御囲部屋のことだろうか。糸穂は襖のそばまで這って行くと、耳をそばだてた。
「予測のことしか、わたしは聞きませんからね」
トキが応える。予測以外のことは、糸穂もトキに話していない。
「そうか。糸穂は」
寒川が一度言葉を切った。糸穂は次の言葉を待った。
「あちらの連中が、好みそうだ」
「それは」
「もとより、御囲様は男児より女児が向いている。見かけが美しければなおさらだ」
糸穂は自分の両手を頬にあてた。肌はすべらかで柔らかい。糸穂には、美しいという意味が分からない。目が見える御囲部屋の中にいてさえ、黒羽織の四角い顔も、猿の逆さまにした三角の顔も、まだ顔が不完全なアオでさえ、誰が「美しい」のか理解出来なかった。
「魅入られなければいいが」
「それは、大丈夫ですよ。あちらは皆が思うほど、良くはありゃしません」
――そうかな。
糸穂は首をかしげた。黒羽織は時々乱暴ものだが、そうでないときは糸穂が覚えきれないほど、先の予測を話してくれる。
猿は親切だし、アオにはいつでも会いたいと糸穂は思う。
「さすが、経験者の言葉は重い」
寒川の言葉に糸穂は、はっと顔をあげた。
トキは経験者。トキもむかしは御囲様だったのだろうか。
「連中の口車に、のせられるようなことが」
糸穂は思わず襖に耳を押し付け、トキの続きの言葉を待った。
「糸穂!」
が、勢いよく襖が開いて糸穂は横ざまに倒れた。
「おまえの勤めは連中から話を聞くことだけだ! 馴れ合ったりしていないだろうね」
糸穂は驚きのあまり声もだせず、ただ首を横に激しくふった。
「トキ、脅すな」
呆れたような寒川の声がした。
「おまえのためなんだからね。死にたくなかったら、言うことを守るんだ」
トキの言葉は鋭く、糸穂の胸に刺さる。
「それくらいにしておけ、トキ」
誰かの足音が糸穂に近づいてきた。倒れたままの糸穂を抱き起こしたのは、寒川だった。
「御囲様の仕事は、一瞬でも気を抜くとお仕舞いだ。それだけは忘れるな」
寒川の言葉もまた、糸穂を凍りつかせるには十分だった。




