糸穂の章 7
御囲部屋へ出向いた翌日、糸穂はまた熱を出した。ぼやけた天井を見上げて、糸穂は床でおとなしくしていた。
糸穂が猿から聞いてきた話を海城は聞くや否や、ハイヤーを呼ぶと番頭を連れ下の町へ出かけて行った。
「御囲部屋に入ると、疲れるかい」
糸穂はうなずいた。疲れる、というのか怖さにさらされるというのか。トキは糸穂の額に濡らした手拭いを乗せた。手拭いの冷たさが、火照った体に心地よい。
「とうぶんは御囲部屋には入らなくてもいいと思うよ」
今夜はご馳走だ、トキはそう言い残し立ち上がった。部屋の入口で待っていた女中と出ていくと、すぐに鍵がかかる小さな音がした。
――これからおまえが海城の主人といってもおかしくない。
黒い羽織の男が言ったことは、現実となるのだろうか。部屋の者たちが言ったことは本当になるのだろうか。糸穂は幼く、世の中のことを知らない。主人となるのは無理だろう。聞いてきた話を生かすことができないのだから。
「もう元にもどったかな」
糸穂は花になってしまった青年を思い出していた。腕に残る、青年のはかないまでの軽さ。かすかに甘い花々の香り。散った花びらが肌にふれたときの独特のひんやりとした湿度。
次に部屋の入った時に、元の姿で迎えてくれたならいいと糸穂は思った。
「今日は表座敷にいてもいいそうだよ」
熱が下がってから数日が経っていた。トキと糸穂は表座敷へと出て行った。
糸穂は今年初めて蝉のこえを聞いた。縁側へ立つと、日差しの暑さに思わず後ろに下がった。かすかに波の音がする。海城の家は、海からは少し離れた高台にあると寒川が糸穂を連れてくるときに話してくれたことを思い出した。
「夏だ」
「そうだよ、夏だよ」
トキは糸穂を座布団の上に座らせてくれた。ほどなく母屋のほうから足音がして、座卓のそばに来た。
こと、と何か器が座卓に置かれた。
「冷やしぜんざいだ、お食べ」
糸穂はぼんやりと見える器に手を伸ばした。トキが糸穂に手を添えて器と匙を持たせた。
「つめたっ」
掌に冷たさがすぐに伝わった。
ひと匙すくって口に運んだ。滑らかな小豆の汁は甘く、細かく砕いた氷のかけらと一緒に糸穂の喉をすべり落ちていく。
「おいしい……初めてたべた」
つぎの匙で、もちもちとしたものが口に入った。白玉だとトキは教えてくれた。
食べ終わるころ、結露した水の膜で糸穂の手は濡れた。袂から手拭いを出して糸穂が手を拭くと、トキは小箱を糸穂の手に握らせた。
「これは?」
「旦那さまから、糸穂へのご褒美だよ。箱を開けてあげよう」
さ、とトキは糸穂の手に何かふわりとしたものを乗せた。
「髪飾りだ。白と水色の。それから、髪飾りと色を合わせた着物」
糸穂は着物に手をふれさせてもらった。てざわりのよい、絹だ。
「奥さまが、これを着せて写真を撮りたがっていたよ。そのうち呼ばれると思う」
着たところで、糸穂がはっきりと見ることはないのだが。糸穂は頭をさげて、礼を述べた。
「ありがとうございます」
「それは今度、旦那さまにいいな」
糸穂はうなずいた。トキもうなずくと居住まいを正した。
「糸穂、今日からおまえに裁縫を教える」
「さいほう……でも、わたし目が」
「そうだね。でも、なんどもやればコツがつかめると思う。まだおまえは子どもだ。新しいことをたくさん覚えられるよ」
はい、と糸穂は素直に返事をした。何か自分でできものがあればいいと思ったからだ。
「ここから出て、お嫁に行くときの準備だよ。まだ先の事だけどね」
言われて糸穂は小さく胸を突かれた。
いつか、この家から出ていかねばならないのだ。
どうしてだろう。なぜ泣きたいように気持ちになるのだろう。
風が吹いて、軒端の風鈴がチリチリと鳴った。




