第8話「駒として見る目」
防衛計画は、昼のうちにクラウスへ提出済みである。
おおむね好評だった。伐採も、罠線も、輪番の組み直しも通った。一点だけ、クラウスが髭の奥で唸った項目がある。エルベン村の猟師を交代制で雇い、監視要員にする案だ。
「お嬢。猟師は兵じゃない。万一のとき、真っ先に死ぬのは奴らだぞ」
「報酬と退避の手順は整えますわ。それでも足りないとおっしゃるなら——代わりに、こちらの案を」
わたくしはすかさず2枚目の羊皮紙を差し出した。猟師は「雇用」せず、峠の麓に休憩小屋を建てて自由に使わせる案。猟の途中で立ち寄った者が見聞きしたことを、置いてある帳面に書きたければ書く。報告の義務はなく、有益な記載には後から謝礼を払う。
「強制も契約もなし。ただ、山の目と耳が自然に集まる場所を作るだけですわ」
「……ふむ。それなら奴らは兵じゃない。猟師のままだ」
「ええ。猟師のまま、結果として領を守っていただく形ですの」
クラウスは2枚目の紙を選び、会議は円満に終わった。
円満に終わったはずなのに、夜になっても、昼の自分の手つきが喉に刺さった小骨のように残っている。最初の案を、わたくしは通すつもりがなかった。クラウスの矜持に引っかかって弾かれるところまで計算して、本命を2枚目に置いた。会議は、始まる前に終わっていたのだ。わたくしの頭の中で。
その夜は、約束のチェスだった。
ディルクの黒が攻勢に出ている。ナイトとビショップの連携で、わたくしのキングサイドを圧迫する展開。ひび割れた眼鏡で盤面を睨む姿は、いつもより少し獰猛に見えた。
「ディルク。今日の会議でクラウスが渋った箇所、覚えていらして」
「猟師の雇用の件だろう」
「ええ。——白状しますとね。わたくし、あの場でこう考えていましたの」
「何を」
「『クラウスが反対する確率は5割。反対したら代替案Bを出す。本命は最初からBで、Aは譲歩の材料として先に出した』——と」
ディルクの手が、ビショップの上で止まった。
「交渉術としては正しい。先に高めの要求を置いて、譲歩の余地を作る。基本だ」
「ええ、正しいの。教科書通り。でも——」
言葉を切る。ビショップが動き、わたくしのナイトが盤から取り上げられた。けれどいまは、盤面より自分の頭の中のほうが問題だった。
「クラウスを、操作すべき対象として見ていましたわ。あの方はわたくしを信用して迎え入れてくださった人なのに、最初から手順を仕込んで誘導した。会議が終わってから、それに気づいたの」
「結果は良かっただろう。猟師は猟師のまま、領は山の目を得る。クラウスも納得して選んだ」
「ええ、結果は最善に近い。誰も損をしていませんわ。——損をしていないのに、後味だけが悪い。この後味の正体を、今夜は突き止めたいの」
沈黙が落ちる。蝋燭の炎が揺れ、駒の影が卓の上で踊った。
「合理的だろう」
ディルクが静かに言う。
「組織を動かすとき、相手の反応を予測して提案の順序を組むのは参謀の基本だ。何が問題なのか分からないが」
「問題は合理性ではありませんのよ」
ポーンを進める。守りの一手。
「問題は、わたくしが——人を『駒』として配置する思考から、抜けられないことですわ」
前世の早乙女律も、同じだった。会議で出席者の発言を予測し、誰にどの順番でどの情報を渡せば望む結論へ流れるかを計算する。有能だと評価されることもあった。「冷たい」と言われることも。
——律ってさ、人を道具みたいに見るよね。
前世でたったひとりの友人が、そう言ったことがある。居酒屋帰りの夜道だった。缶ビールを片手に、彼女は笑いながら言ったのだ。笑っていたのに、目だけが笑っていなかった。
あの夜、彼女は転職の相談をしていた。いまの職場で続けるべきか、迷っていると。わたくしは彼女の市場価値と業界の動向を整理して、3つの選択肢を期待値つきで提示した。我ながら見事な分析である。彼女が聞いてほしかったのが分析ではなかったと気づいたのは——彼女が「律に聞いた私が馬鹿だった」と冗談の形に畳んで、改札の向こうに消えたあと。
それから誘いが減り、年賀状になり、最後は名前だけの存在になった。わたくしは彼女を失った理由を正確に分析できる。分析できることが、いちばんの罰だと思う。
「今日の案の中で、猟師は名前のない機能でしたわ。『山に詳しく、視力のよい人材を一定数確保』。人間ではなく、性能の一覧表」
わたくしの頭の中では、人がいつも性能で分類されている。クラウスは「武力と統率。帳簿は苦手」。リーゼは「事務処理の精度と速度」。ディルクは「分析と立案。対人交渉はやや弱い」——
「俺の対人交渉が弱いのは認める」
「そういう話ではありませんの」
声が、思ったより尖った。ディルクがわずかに目を見開く。
「……ごめんなさい。あなたにではなく、自分に苛立っているだけですわ」
「続けろ」
「この癖は、便利です。人員配置の最適化には実際に役立つ。けれど、人を駒として見る目は、いずれ必ず人を傷つけますわ。駒は消耗品ですもの。取られたら、盤の外に置く。それが駒の扱い方ですもの」
チェス盤に目を落とす。白と黒の駒が、役割に従って並んでいる。ポーンは前線で消え、ナイトは跳ね、ビショップは斜線を通す。盤上の駒には痛みがない。恐怖もない。秋に挙げる式も、ない。
だからチェスは、安全な遊戯でいられる。ポーンを2枚捨てる手を「贅沢」と笑い合える。けれど現実の盤で同じ手を打てば、捨てた2枚には葬列がつく。わたくしはその違いを知識として知っている。知識として知っているだけ、というのが、今夜の議題だった。
「ヨハンという兵士がいますわね。峠の守備隊の」
「ああ」
「彼には、秋に式を挙げる相手がいるの。麓の村に。本人から聞いて、わたくしはそれを知っています。知っているのに——防衛計画の中の彼は『峠守備兵、実戦経験なし、基礎訓練済み』という3行でしたわ。式の日取りは、計画のどこにも載らない」
ディルクがルークを動かした。攻撃的な手。けれど盤面を見るその目には、普段の鋭さとは違う色がある。
「式の日取りを、計画に載せる必要はない」
ディルクが言った。
「載せる必要はありませんわ。でも——」
「だが、と言いたいんだろう。続けていい」
「……載らないものを抱えた人間を、載る数字だけで動かすことに——わたくしはもっと、ためらうべきだと思うの。ためらった上で動かすのと、ためらいを最初から切り捨てるのとでは、同じ配置図でも別のものになる気がしますわ」
理屈になっていない自覚はあった。ためらおうがためらうまいが、紙の上の配置は同じだ。効率も同じ。けれど。
「ベアトリーチェ」
「はい」
「それに気づいていることが、すでに答えだろう」
「——え?」
「人を駒として見る人間は大勢いる。軍師、政治家、商人。だが、自分がそうしていると気づいて、それを問題だと感じる人間は少ない」
彼は眼鏡を指先で押し上げた。ひびの入ったレンズが、蝋燭の光を歪めて返す。
「俺にも同じ癖がある。クラウスに仕えて10年、兵の配置を考えるとき、名前より先に数字が浮かぶ。それを変えるつもりはない。参謀が感情で判断を歪めるほうが、よほど多くの人間を殺すからだ」
「では、あなたはどうしていますの」
「計算の後に、名前を思い出す。——それができれば十分だと、俺は思っている」
計算の後に、名前を思い出す。
最適化の後に、人を見る。
順序を逆にはできない。逆にしたら、参謀は務まらない。けれど、後ろに付け足すことならできる。それは妥協かもしれない。理想の答えではないかもしれない。
「完璧な答えでは、ありませんわね」
「完璧な答えを出せるのは、駒を動かさずに済む人間だけだ。俺たちは動かす側にいる。だから不完全な答えで進むしかない」
黒檀のクイーンを手に取り、木の手触りを確かめる。使い込まれた表面に、指の脂がうっすら光る。
この駒には名前がない。けれど、この駒を動かす手には——名前を呼べる口がある。
「ディルク」
「何だ」
「明日、エルベン村へもう一度行きますわ。猟師の方々に直接会って、話を聞きたいの。性能の一覧ではなく、名前と顔を知った上で、計画を組み直します」
「……効率は落ちるぞ」
「承知の上ですわ」
ディルクが、またあの——口元は動かさず、目だけの笑みを見せた。
「馬を手配する」
「ありがとう。それと、この対局は明日以降に持ち越しということで」
「逃げるのか。俺の優勢だぞ」
「一時的な退却は、戦略的判断と申しますの」
「負け惜しみだな」
「……否定はしませんわ」
盤面は確かに黒の優勢だった。ナイトを失ったわたくしの白陣は、右翼に修復しがたい穴が開いている。けれど今夜に限っては、この劣勢すら少しありがたかった。盤の上で素直に負けていられる場所は、計算で勝ち続けなければならない世界の中で、妙に呼吸がしやすい。
駒を箱に戻すと、木と木の触れ合う乾いた音が鳴った。ちなみにこの盤、初日は引き分け、今夜は中断。決着のつかない勝負だけが積み上がっていく。妙な棋譜だ。悪くない棋譜だとも、思ってしまっているけれど。
明日は駒の音ではなく、人の声を聞きに行く。
駒を並べるのは得意だ。昔から、ずば抜けて得意だ。だからこそ——駒の向こうにいる人間の声を聞く工程を、もう二度と、省略してはいけない。




