第7話「算盤を抱えて」
その来訪者は、辺境の砦に似つかわしくない大荷物とともに現れた。
「お嬢様!」
砦の門が開いた瞬間、聞き覚えのある声が響く。荷馬車から飛び降り——もとい、ぎりぎり優雅に降車した女性が、スカートの裾を翻して走ってくる。両腕に書類鞄を2つ抱え、背中に布の包みを背負い、なぜか右手に算盤まで握りしめて。
「リーゼ?」
「はい! リーゼ・ブルーメンタールでございます! 王都を発って5日、ようやくお嬢様のもとに参りました!」
栗色の髪をきっちり結い上げた、24歳の元侍女。ストラテーガ家が断罪の余波で王都での立場を失ったあと、暇を出されたはずの彼女が、なぜか目の前にいる。
「あなた、どうしてここに?」
「お嬢様なしでは生きられません」
「いえ、生きてくださいまし」
「お嬢様のお傍にいることが、わたしの生きる意味でございますので」
真顔で言い切るリーゼの目には、忠誠と呼ぶには燃費の悪そうな何かが宿っていた。——この身体の前の持ち主は、いったいどんな主従関係を築いていたのだろう。
前世の記憶に、この種の人間関係の前例はない。早乙女律の部下は優秀だったが、退職した上司を追って辺境まで来る部下は、さすがにいなかった。
「……まあ、お入りなさいな」
「はい!」
砦に入ったリーゼは、まず作戦室を一周して見回し、書類の山とわたくしの顔を交互に見た。
「お嬢様。書類が整理されていません」
「……ええ、まだ着いて10日ですし」
「10日もあれば十分です。失礼します」
そこからの光景は、圧巻だった。
鞄から取り出した文具一式を卓に並べ、散乱した書類を手に取る。1枚ずつ目を通し、分類し、日付順に並べ替えて紐で綴じる。動きに無駄がひとつもない。紙をめくる指がリズミカルに鳴り、さらさらという音が一定のテンポで部屋を流れていく。
「これは税収関連、これは防衛計画、これはクラウス様宛の報告書——お嬢様、報告書の書式が統一されていません。雛形を作ります」
「あ、はい」
「それからこの防衛計画の清書、誤字が3箇所。ここと、ここと、ここ」
「……あれを一読で?」
「はい。あとこちらの税収試算表、端数の処理が揃っていません。切り捨てと四捨五入が混在しています」
背後では、いつの間にか来ていたディルクが壁にもたれて眺めていた。眼鏡の奥に、珍しく感心の色がある。
「この女は、何者だ」
「元侍女のリーゼですわ。事務処理能力に関しては——」
当人はすでに算盤を弾き始めている。ぱちぱちと玉の鳴る音が、作戦室に小気味よく響く。ちなみに算盤は彼女の私物で、商家にいた頃から手放したことがないらしい。
「——異常、ですわね」
「異常とは失礼な。普通です、お嬢様」
「いいえリーゼ、あなたのそれは普通ではなくてよ」
ちなみにディルクとリーゼの初対面の挨拶は、こうだった。
「軍師のディルク・ヴォルフだ」
「リーゼ・ブルーメンタールです。——失礼ですが軍師様、先ほどから書類を43枚お持ちですが、綴じ紐の結びが3種類混在しています。検索性が落ちますので、統一をお勧めします」
「……数えたのか。すれ違いざまに」
「数えるつもりはなくても、目に入ります」
ディルクがわたくしを見た。わたくしは目を逸らした。採用したのは前の持ち主であって、わたくしではない。ないのだけれど、この瞬間だけは前の持ち主の人事眼に敬意を表したい。
昼過ぎには、作戦室の書類が完璧に整理されていた。
分類棚が組まれ、ラベルが貼られ、書類の在り処を示す目録まで出来上がっている。糊と色紙の手製ラベルは、王都の官庁に置いてあっても違和感のない仕上がりだった。
途中で様子を見に来たクラウスは「おお、片付いとる!」と感嘆したのち、リーゼに「辺境伯様。執務室の帳簿も拝見してよろしいですか。廊下から見えた棚の傾きが気になります」と詰め寄られ、巨体のまま半歩引いていた。熊を退かせる算盤。
「お嬢様。当領の文書管理について確認しましたが、改善点が42箇所あります」
「42」
「はい。まず出納帳の形式が旧式で——」
「リーゼ。今日は1日目です。明日からにしましょう」
「承知しました。では明日の作業リストを作成いたします」
それも仕事では、と思ったが、口にはしなかった。彼女の目が輝いていたからだ。
ついでに白状すると、わたくしの胸の中の分析官も輝いていた。リーゼの加入で、わたくしが書類仕事に割いていた1日あたり3時間が浮く。3時間あれば峠をもう1往復できるし、チェスなら1局半。人員1名の増強が組織全体の生産性をこれほど押し上げる事例は、教科書に載せたいくらいだ。——と、ここまで考えて、また性能の話をしている自分に気づいた。性能の向こうに、王都からひとりで5日かけて来た忠義がある。順番を、間違えないこと。
リーゼが部屋に引き上げたあと、作戦室にはディルクとわたくしが残った。
「使えるな」
「ディルク。人を『使える』で評価する癖、直したほうがよろしくてよ」
「あなたも同じことを考えていたくせに」
否定は、できない。リーゼの手際を見ながら、わたくしの頭は「この能力をどこに配置すれば最大効率か」を勝手に計算していた。財務はリーゼ、地形はディルク、交渉はわたくし。盤面に駒を並べるのと同じ手つきで、人を並べていた。
人を駒として見る。それが、わたくしのいちばん厄介な癖だ。
「彼女は有能だが、それだけじゃない」
ディルクが窓の外を見ながら言った。
「主が没落したあとに追ってくるのは、忠誠か依存のどちらかだ。どちらでも、扱いには注意がいる」
「……分かっていますわ」
リーゼの忠誠は本物だろう。けれど「お嬢様なしでは生きられない」は、美しい言葉であると同時に危うい。わたくしが彼女の「主人」ではなく「存在理由」になっているなら、それは健全な関係ではない。
——前世のわたくしなら、そこまで考えなかった。部下の能力だけを見て、個人の事情には踏み込まない。それが合理的で、礼儀ですらあると思っていた。
夕食の後、リーゼの部屋を訪ねる。
小さな部屋は、もう整然と片付いていた。旅の荷物は棚に収まり、卓には明日のための文具が定規で測ったように並んでいる。
「ここまでの旅、大変だったでしょう」
「はい。乗合馬車を3回乗り継ぎました。2回目の馬車で隣に座った行商人に在庫管理の改善案を差し上げたら、お礼に昼食をご馳走になりました。3回目の馬車は車軸の音に異常があったので御者に申告して、宿場で点検したら本当にひびが入っていて、感謝されて宿代が浮きました」
「……あなた、旅の間も通常運転でしたのね」
「節約は侍女の基本です」
胸を張る元侍女に頬がゆるみかけて、それから、聞いておくべきことを思い出した。
「リーゼ。ひとつ聞いてもよろしいかしら」
「何でございましょう」
「家があんなことになったあと、あなたには他の道もあったでしょう。王都で事務の職を探すことも。なぜ、わざわざ辺境まで?」
リーゼの手が止まった。算盤の玉が、かちり、とひとつ鳴る。
「お嬢様は、覚えていらっしゃらないかもしれませんが」
「何を?」
「わたしがストラテーガ家に上がったのは、16のときです。田舎の商家の娘で、字は読めましたが、書式も礼儀作法も満足に知りませんでした」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「お嬢様が——あの頃のお嬢様が、わたしに書類の書き方を教えてくださったんです。他の侍女に笑われても、お嬢様だけは『リーゼは手が早いから、すぐ覚えますわ』と」
それは、この身体の前の持ち主の言葉だ。高慢だったと噂される、わたくしの知らないベアトリーチェの。けれどリーゼにとっては、それが全てなのだろう。人は、最初に自分を認めてくれた声を、ずっと覚えている。
「王都で職を探すことは、できました。けれど、わたしの算盤を最初に認めてくださった方が困っているのに、別の場所で楽をする気にはなれません。——それに」
「それに?」
「実家の店は、兄が継ぎました。几帳面すぎる娘の居場所は、あそこにはありませんでしたから。わたしの几帳面が役に立つ場所は、お嬢様のお傍だけです」
蝋燭の灯りが、リーゼの真剣な横顔を照らしている。
依存、とディルクは言った。その懸念は消えていない。けれどいま聞いたのは、依存というより——居場所の話だ。自分の形が、欠点ではなく道具として扱われる場所の話。それなら、わたくしにも覚えがある。
「……ありがとう、リーゼ」
「お礼を言われることではございません。——それより、お嬢様」
「はい?」
「明日、出納帳の形式を改めてよろしいですか。あの形式では正確な財政把握ができません。半日いただければ新しい帳簿を起こします」
——この人は、感情と実務の切り替えが異様に早い。
「お願いしますわ」
「承知しました。それと、お嬢様のお部屋の掃除もさせてください。窓枠に3日分のほこりが積もっています」
「……気づいていましたの」
「入ってすぐに。お嬢様は昔から、お部屋の掃除を後回しになさいますよね」
前の持ち主の癖まで把握されている。恐るべし、ブルーメンタール。
部屋を出て廊下を歩きながら、小さく笑いが漏れた。松明が壁を照らし、板張りの床がぎしりと鳴く。
辺境に来て初めて、「味方が増えた」と数えられる夜だった。
作戦室に戻ると、チェス盤の上にメモが置いてあった。ディルクの筆跡。
『明日、一局。——ひびの入った眼鏡でも、盤面は見える』
——この人は、こういう誘い方をするのか。
メモを畳んで懐にしまう。窓の外では、月明かりに照らされた稜線の手前を、夜風が冷たく走り抜けていった。




