第6話「軍師の眼鏡」
翌日の深夜、わたくしはまだ作戦室にいた。
昼間にディルクとふたりで詰めた防衛計画を、清書して最終版に仕上げる作業。インク壺はもう2度補充した。蝋燭の芯がじじ、と小さく鳴いて、夜の深さを知らせてくる。
ペンを止めたのは、廊下の足音に気づいたからだ。
この時間に起きているのは夜番の兵士か、ディルクくらいのもの。けれど、リズムが違う。ディルクは普段、靴音を殺して歩く。いまの足音は——どこか、不安定だった。
扉が開く。
「——まだ起きていたのか」
入ってきたのはディルクだった。いつもの黒い外套はなく、白いシャツに革のズボン。そして、眼鏡をかけていなかった。
「ディルク。眼鏡は?」
「落とした。暗い廊下で」
彼は卓まで歩いてきたが、足取りが普段とまるで違う。指先を伸ばして、壁や椅子の位置を確かめながら進んでいる。
「……かなり、視力がよろしくないのね」
「ないに等しい。眼鏡がなければ、3メートル先の人間の顔も判別できない」
蝋燭の灯りの中、眼鏡のないディルクの顔を、わたくしはつい観察してしまった。
銀縁という遮蔽物が消えると、印象が変わる。冷徹な分析者の仮面の下にあったのは、意外なほど整った顔立ちだった。高い鼻梁。薄い唇。切れ長の灰色の目。ただし焦点の合わないその目は、普段の鋭さが嘘のようにぼんやりと宙を泳いでいる。
「……何を見ている」
「いえ。その」
慌てて視線を逸らした。何を動揺しているのだ、早乙女律。観察対象の顔面の造形に関する所見など、防衛計画のどこにも書く欄はない。
「探しましょう。廊下のどのあたりで落としましたの」
「自室からここまでの間のどこかだ。暗くて分からん」
「松明は」
「消えていた。夜番が補充を忘れたらしい」
蝋燭を1本持って廊下に出る。背後をディルクがついてくる気配がした。いつも足音を消して歩く男が、いまはわたくしの足音を頼りにしている。その事実が、妙に胸に引っかかった。
廊下の床は粗い板張りで、歩くたびに木が軋む。灯りを低くかざして、壁際を端から辿っていく。
「——ありましたわ」
壁と床の継ぎ目に、銀縁の眼鏡。拾い上げると、右のレンズに細い亀裂が走っていた。
「割れています。右のレンズに、ひびが」
「……そうか」
手渡すとき、受け取ろうとした彼の指がわたくしの手に触れた。冷たい。シャツ1枚で夜の廊下を歩いていれば当然なのだけれど、その冷たさに、思わず手を引きそうになった。
ディルクが眼鏡をかけ、右目を眇める。
「見えないことはない。ひびが端寄りだから、中心は使える」
「替えのレンズは?」
「ない」
「この辺境に、眼鏡を作れる職人は」
「いない。王都か、南部の都市まで行かなければ手に入らない」
作戦室に戻りながら考える。ディルクにとって眼鏡は矯正器具ではない。地図を読む目、敵の布陣を解く目——軍師としての機能そのものだ。チェスで言うなら、盤の半分が霧に沈むようなもの。読める範囲が半分の指し手に、勝てる勝負はない。
「……お座りになって」
「なぜだ」
「レンズを検分しますわ。亀裂の状態を見ておきたいの」
ディルクが椅子に座り、わたくしは蝋燭を近づけて右レンズを観察した。必然的に、彼の顔へ屈み込む形になる。距離、約30センチ。観察に必要な距離である。必要なのだから仕方ない。
亀裂は縁から5ミリほど内側を、直線的に走っていた。ぶつけて割れた形ではない。経年劣化の応力割れだ。ガラス自体が、古い。
「このレンズ、相当な年季ですわね」
「10年以上使っている。フレームは何度か直したが、レンズは替えていない」
「かけ始めたのは、いつから?」
「18の頃だ。それまでは、自分の目が悪いことに気づいていなかった」
「気づいていなかった?」
「本を読むとき、人より顔を近づけなければならないのは、読み方が悪いせいだと思っていた。平民の子どもに、視力の検査などないからな」
淡々と語る声に、怒りはなかった。ただの事実として置かれた言葉。けれど、わたくしの中の何かが、ざわりと音を立てた。
前世のわたくしも目が悪くて、中学の視力検査で引っかかった週のうちに眼鏡ができて、世界がくっきりした。あの工程のすべてが「当たり前」の箱に入っていて、感謝した記憶すらない。検査される機会そのものが資源だなんて、考えたこともなかった。
18年間。この人は、世界がぼやけていることを知らずに生きていた。教本の文字に顔を擦りつけるようにして独学した15年の、最初の3年は——ぼやけたままの文字を読んでいたことになる。
「ある日、行商人が市場で眼鏡を売っていた。度の合っていない安物だったが、かけた瞬間に世界が変わった」
「世界が」
「遠くの山に、木が1本ずつ生えていることを、そのとき初めて知った」
蝋燭の灯が揺れて、ディルクの顔に影を落とす。ひび割れたレンズ越しの灰色の瞳は、焦点が合っているのに、まだどこか遠くの山を見ているようだった。
「——その安物を、ずっと?」
「フレームは3回作り直した。レンズは行商人が次に来た年に、少しましなものへ替えた。それが、これだ」
10年以上前の、行商人の売り物。正確な度数測定など、されているはずもない。つまりこの軍師は、合っているかどうかも分からないレンズで、あの精密な地図を描いたのだ。
決めた。
「ディルク。レンズの手配、わたくしに任せていただけるかしら」
「どうやって」
「クラウスに頼んで南部の都市から取り寄せます。度数を正確に測る方法は——少し工夫が要りますけれど、できないことはありませんわ」
視力検査の原理は単純だ。一定の距離から、大きさを変えた記号を読ませるだけ。紙とペンと物差しがあれば、簡易の検査表は今夜にでも作れる。前世で健康診断のたびに眺めた、あの切れ目つきの輪っかの行列が、まさかここで役立つとは。
「……世話を焼くな」
「あなたの目は、この辺境の防衛資源ですわ。投資対効果が極めて高くてよ」
我ながら言い訳めいた理屈だった。蝋燭越しに人の顔を覗き込み続けるのが急に気まずくなって、理屈に逃げたのだ。理屈はいつでも、逃げ込むのにちょうどいい広さをしている。
ディルクが軽く鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。判定不能。
「——礼は言わない」
「結構よ。礼を求めた申し出ではありませんもの」
「だが」
彼は眼鏡を外し、レンズを蝋燭にかざした。ひびの入ったガラスが光を屈折させて、石壁に細い虹色の筋を投げる。
「この眼鏡を『防衛資源』と呼んだ人間は、あなたの他にいない」
その言葉の意味を、少しだけ考えた。
周囲にとって、眼鏡は彼の外見的特徴でしかなかったのだろう。「眼鏡の軍師」。けれどその一枚のガラスが、彼にとって世界そのものだということを——理解しようとした人間が、いままでいなかった。
「善は急げと申しますわ。紙を1枚いただける?」
「いま測るのか」
「いま測りますの」
卓の端を借りて、羽ペンで輪を描き始める。大きい輪から小さい輪へ、切れ目の向きを上下左右ばらばらに。紐で寸法を取りながら、行を重ねていく。
「……何だ、その切れた輪は」
「切れ目の向きを答えていただく検査ですの。文字を使うと、知っている単語は形で当てられてしまうでしょう? 輪の切れ目なら推測で補えない。純粋に、目の性能だけが測れますわ」
「文字だと推測が混ざる、か。——試験の設計として正しいな」
感心の仕方が完全に軍師のそれだった。検査表を壁に貼り、距離を測って床に蝋で線を引く。ディルクを線の上に立たせ、ひび割れた眼鏡を外させた。
「では右目から。いちばん上の段、切れ目はどちら?」
「……見えん」
「次の段は?」
「だから、見えんと言っている」
「記録しますわね。『最上段から全滅』と」
「言い方というものがあるだろう」
むっとした声が珍しくて、つい笑ってしまった。結果はおおむね予想通り——いまのレンズは彼の目に対して度が足りず、しかも左右で差がある。よくこれで、あの地図が描けたものだ。
「左右で度を変えた2枚を、この数値で注文しますわ。研磨の基準は紙に書いて職人に送ります」
「金は」
「クラウスに防衛予算として申請を……あ」
「どうした」
「わたくしのお給金、『働きに応じて後から』の条件で据え置きでしたわ。現在の手持ち資産、ゼロですの」
ディルクが、ふ、と息を漏らした。いまのは確実に笑った。証拠は残らなかったが。
「申請は俺が書く。『防衛資源の整備費』として」
数値を控え、南部の職人に宛てた注文書の下書きまで作って、夜の業務はようやく終わった。
「夜分に長居しましたわ。わたくし、もう休みます」
「ああ」
作戦室を出る間際、ふと振り返った。
ディルクはひび割れた眼鏡をかけ直し、わたくしの書きかけの防衛計画に目を落としていた。右目を眇め、亀裂を避けるように、少し首を傾けて。
——早く、新しいレンズを。
その思いが戦略的判断ではなく個人的な感情から出ていることに気づいたのは、自室の寝台に横になってからだった。
暗い天井を見つめる。枕の亜麻布が頬に触れて、洗いざらしの柔らかさが意識に染みる。
瞼の裏には、まだ残っている。冷徹な軍師ではなく、3メートル先も見えないひとりの男の顔が。心拍数、やや上昇。原因については複数の仮説が成立し得るが、いずれも検証手段がない。
——まずい。
この案件は、分析では処理できない。




