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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第5話「独学の戦略家」

クラウスへの提案は、夕食の席で行った。


 会議室を希望したわたくしに、ディルクが「クラウスは食いながらのほうが頭が回る」と助言をくれたのだ。実際その通りだった。猪肉の塊と麦酒を前にした辺境伯は、機嫌よくわたくしの羊皮紙を受け取り——数字の段になると、ちゃんと咀嚼を止めた。


「エルベン村の税率、4割を3割に下げていただきたいのです」


「収入が減るな」


「一時的には。ですが代わりに、減税分を開墾の義務とセットにします。新しく拓いた畑は3年間免税。労働力が村に戻れば、5年後の税収は今より増えますわ。こちらがその試算です」


「……ふうむ」


「逆に申し上げますと、このまま4割を続けた場合、エルベン村は10年で人がいなくなります。村が消えれば峠の守備隊の食糧補給線も消える。つまりこの税率は、ゆっくり効く毒ですの」


 クラウスは試算の紙を3度読み返し、麦酒をあおって、それからわたくしの目を見た。


「お嬢。ひとつだけ聞く。これはお嬢の手柄のための策か、領民のための策か」


 酒の入った武人の目は、存外まっすぐにこちらを射抜いてくる。誤魔化しの利かない種類の目だ。


「両方ですわ」


「ほう」


「領民のための策です。同時に、成功すればわたくしの実績になる。きれいごとだけ申し上げても、信用なさらないでしょう?」


 3秒の沈黙ののち、クラウスは喉の奥で笑った。


「正直なのはいい。——分かった。やってみい」


 ——というのが、昨夜のこと。


 翌朝、作戦室で防衛計画の素案を書き直していると、ディルクが珍しく自分から話しかけてきた。


「昨夜の提案、正式に通ったぞ。布告は来週だ」


「そう。よかったですわ」


「あっさりしているな。俺は3日かけて作り込んだ報告書を、2時間かけて説明して通せなかった案件だぞ。それが猪肉1皿で通った」


「通ると思っていましたもの」


 嘘ではない。クラウスは武人だけれど馬鹿ではない。「このままでは峠が守れなくなる」という一点に話を接続すれば、必ず動く人だと踏んでいた。問題は結論ではなく、説得の経路だったのだ。あと、たぶん猪肉。


 ディルクが椅子に腰を下ろし、わたくしの書きかけの紙面に目を落とす。


「……何だ、これは」


「防衛計画の素案ですわ。峠の守りを3段階で組む案」


「その図——」


 彼の指が、余白の図を指した。峠周辺を上空から見た配置図。防衛線を3つの層に分けて重ねる構想を描いたもの。


「縦深防御の概念図ですわ。第1線は早期警戒、第2線は遅滞、第3線が本防御。敵の侵攻速度を段階的に削いで、最終線に届く頃には消耗させておく」


「……縦深防御」


 ディルクの声が、明らかに変わった。冷徹な分析者の声ではなく、何かを確かめにかかる響き。


「この概念を、どこで学んだ」


「独学ですわ」


「独学で、3層の縦深防御を。しかもこの配置は——」


 彼が紙を取り上げ、目を細める。レンズ越しの灰色の瞳が、紙面の上を走る。


「第1線の警戒点が尾根筋に置かれている。谷筋ではなく。見張りを置くなら普通は谷を見下ろす位置を選ぶ。なぜ尾根だ」


「谷筋は音が反響しますの。風向きによっては、見張りの存在そのものが敵に知れる。尾根筋なら風上を取りやすく、視界と隠蔽を両立できますわ」


 沈黙が降りた。


 ディルクは紙を卓に戻し、椅子の背にもたれて腕を組んだ。眼鏡の奥から、まっすぐにわたくしを見る。


「ベアトリーチェ。あなたは、何者だ」


 心臓が一拍、強く打った。


「——何者、とは」


「公爵令嬢が独学で届く知識の範囲を、あなたは大幅に逸脱している。縦深防御だけなら軍学書にも載っている。だが地形と音響の関係。風向きと隠蔽の原則。物流の最適化。昨夜の税収の試算。——これらを体系として学べる場所は、この国のどこにもない」


 的確な分析だった。この男を誤魔化し切るのは、たぶん無理だ。正面から嘘をつけば、嘘をついたという事実ごと読まれる。


 だから、本質だけを言い換えることにした。


「わたくしの答えは変わりませんわ。独学です。父の書斎の軍学書、隣国の戦史——それから」


 一拍、言葉を選ぶ。


「考え方の枠組みを、自分で組み立てましたの。問題を分解して、要素ごとに分析して、組み直す。その方法さえ身につければ、個別の知識は後から埋まりますわ」


 前世のシンクタンクで7年かけて叩き込まれたものの、正確な要約である。嘘は、ひとつもない。出典を1世界分省略しただけで。


 ディルクの目が細くなる。納得はしていない。けれど、それ以上の追及もしてこなかった。代わりに、思いがけない言葉が返ってきた。


「……俺は15年かけて、似たような枠組みを自力で組んだ」


「15年」


「農家の三男坊に、軍学書を読む機会はない。読めたのは市場に流れる安い歴史書と、兵舎で廃棄された古い教本だけだ。それを読んで、考えて、自分の体系を作った」


 声は淡々としていた。淡々としているからこそ、15年という時間の重さが素通しで伝わってくる。


 平民の三男が、師も同門も持たずに、ぼろぼろの教本と頭脳だけで辺境伯の軍師まで登った。その途中で何度「分不相応」と言われたかは、語られなかったし、訊かなかった。


「その15年の集大成が、あの地図ですのね」


「地図?」


「作戦室の地形図。あれはただの地図ではありませんわ。等高線の引き方、河川の流速を示す矢印の角度、植生記号の置き方——全部に意図がある。あのまま軍事地理学の教科書になりますわよ」


 ディルクが、少しだけ目を見開いた。


 ——ああ、この表情。


 この人は、自分の仕事を正確に理解された経験が、ほとんどないのだ。クラウスは地図の価値を認めているだろうけれど、あの精密さの意味までは読めない。読める人間が、15年間いなかった。


「……褒めているのか」


「事実を述べているだけですわ」


「なら——」


 ディルクが立ち上がり、壁の地図に歩み寄った。北東の一角を指す。


「ここを見てくれ。グルント峠の北東8キロ。地図上は緩斜面だが、実際は足場が悪い。表土の下に粘土の層があって、雨季には沼になる」


「歩兵の行軍速度が半減しますわね。重装備なら、それ以上」


「そうだ。ということは——」


「——ヴァルハイムが本気の侵攻を企てるなら、雨季は避ける。危ないのは乾季の初め、地面が固まり切った頃」


 ディルクの目が、また笑った。口元は動かない。目だけが、ほんの一瞬。


「あなたと話していると、説明を省ける」


「お互いさまですわ」


 ふたりで地図の前に並ぶ。肩が触れそうな距離。彼の外套から、墨と紙の匂いがした。書きものに浸かって生きてきた人の匂いだ。


「素案は明日までに仕上げますわ。あなたの地形データを組み込んで、第1線の警戒点を引き直します」


「……手伝おう」


「え?」


「俺のデータだ。俺が説明したほうが早い」


 理屈はもっともだった。けれどこの男が自分から「手伝う」と言うのを、わたくしは初めて聞いた。命じられた仕事は完璧にこなすが、自発的に他人の盤に手を伸ばすタイプではないと思っていたのに。


「では、お願いしますわ」


 卓に紙を広げ、作業が始まった。ディルクが地形を口頭で寄越し、わたくしが計画に落とす。インクが乾く前に次の修正が入り、余白が注釈で埋まり、足りなくなって2枚目に続く。


 一度だけ、意見が割れた。第1線の警戒点に、わたくしは尾根の突端を推し、ディルクは1本南の岩場を推した。


「突端は視界が広いですわ」


「広すぎる。あそこは冬に雪庇が張り出す。春先に2人落ちた」


「……地図に、書いてくださいまし。そういうことは」


「地図に書けるのは地形だけだ。死んだ人間の名前は、書く欄がない」


 一瞬、部屋が静まる。わたくしは尾根の突端を消し、岩場に印を打ち直した。地図は嘘をつかないと、昨日まで思っていた。正確には——地図は、語らないことについてだけ沈黙する。それを埋めるのが、この土地で15年生きてきた人の記憶だ。


 最終的に、第1線の警戒点は4箇所から6箇所に増え、うち2つは彼しか知らない獣道を塞ぐ位置に決まった。


 気がつくと、窓の外が茜色に染まっていた。


「……もう夕方ですの?」


「6時間ぶっ通しだな」


「お昼を食べていませんわ」


「俺もだ」


 顔を見合わせる。ディルクの表情は相変わらず動かないけれど、眼鏡の奥に疲労の色がある。おそらくわたくしも同じ顔をしている。猪肉で動く辺境伯のことを、少しだけ笑えなくなった。


「食事にしましょう。続きは明日」


「ああ」


 書類を重ねていると、戸口で足を止めたディルクが、背を向けたまま言った。


「ベアトリーチェ。あなたの知識がどこから来たものでも、俺は構わない。——使えるものは使う。それだけだ」


 足音が遠ざかる。


 それは「詮索しない」という宣言で、同時に——何者であっても盤の向かいに置くという、この男なりの信頼の示し方だった。


 夕風が書類の端をめくる。インクの匂いが薄れて、山の夕暮れの冷たい空気が作戦室を満たしていく。


 独学の戦略家がふたり、辺境の砦で同じ地図に向かっている。


 前世のわたくしは、知識の出どころを訊かれるたびに身構えて生きていた。学歴、所属、論文の被引用数。知識には常に名札が要求されて、名札のない知識は知識として扱われなかった。


 使えるものは使う。それだけだ——名札を見ずに中身だけを検分して、検分した上で隣に置く。そういう乱暴で公正な物差しに、わたくしは今日、生まれて2度目の人生で出会ったのだった。


 だからこそ——手放したくない、と思ってしまった。

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