第4話「領民の声」
徹夜で書き上げた防衛計画の素案は、朝の時点で羊皮紙3枚になっていた。
伐採の範囲、罠線の配置、見張りの輪番の組み直し。我ながら手堅くまとまっている。まとまっているのだけれど——数字の土台がない。守備隊の食糧はどこから来るのか。伐採の人手はどの村から出すのか。机上の計画は、地面に触れた瞬間に砕けるのが常だ。
「ディルク。峠にいちばん近い村へ、連れていってくださいまし」
というわけで、本日は村の視察である。クラウスは「お嬢が行くなら護衛をつけにゃならん」と騒いだけれど、ディルクの「俺がいる」の一言で黙った。あの巨漢を一言で黙らせる眼鏡。並走しながら盗み見ても、剣を扱う身体つきには見えないのだが。
辺境の村は、地図の上では点でしかなかった。
けれど馬を降りて最初に届いたのは、干し藁と煮炊きの煙の混ざった匂いだった。地図には決して載らない、人が暮らしている証拠。
「ここがエルベン村。峠に最も近い集落だ」
家屋は木造で、壁の漆喰がところどころ剥がれている。茅葺きの屋根には薄くなった箇所があり、修繕の手が回っていないのがひと目で分かった。
井戸を中心にした広場に入ると、住民たちの視線が集まる。好意的なものではない。見知らぬ貴族の女への警戒と、その奥にある、どこか疲れた諦め。
「村長はどちらに?」
「あの家だ」
村長の家は他より少し大きいが、それでも王都の使用人部屋より狭い。通された居間には木の椅子が3脚と、粗末な卓があるだけだった。
村長は50代の痩せた男で、エーリッヒと名乗った。出された茶は薄く、カップの底が透けて見える。口をつけると、ほんのり苦い草の風味がした。茶葉の代わりに乾燥させた薬草を使っているのだろう。
わたくしはそれを、最後の一滴まで飲んだ。村でいちばん上等なものを出されたのだと、分かったから。隣のディルクも同じようにした。彼のそういうところは、信用できる。
「率直にうかがいますわ。この村でいま、いちばん困っていることは何かしら」
エーリッヒは一瞬目を見開き、それからゆっくり口を開いた。
「……何もかも、と言いたいところですが」
語られた内容を、頭の中の帳面に整理しながら聞く。
1、物資の不足。この村は交易路から外れ、商人が来ない。塩、鉄、布——基本物資が軒並み足りない。2、若者の流出。働き口を求めて王都方面へ出ていく者が年々増え、残るのは年寄りと子どもばかり。3、税の重さ。収穫に対して税率が高く、冬越しの備蓄が常にぎりぎり。
「税率は、どの程度で?」
「収穫の4割です」
「——4割?」
前世の歴史知識が警鐘を鳴らした。中世の農村の標準は十分の一税——つまり1割。4割は、搾取と呼ばれて反論できない水準だ。
ディルクを見る。彼は壁際で腕を組んだまま、わたくしの視線に小さく頷いた。知っていた、ということだ。
「その税率は、いつから?」
「先代の辺境伯さまの時代からですよ。もう20年以上になります」
20年。クラウスではなく、その父が定めた数字が、誰にも見直されずに続いている。クラウスは武人だ。帳簿の数字は、彼の戦場ではない。
礼を言って、村を歩いた。
畑は丁寧に手入れされているが、面積が小さい。周りには開墾できそうな平地が残っているのに、手つかずだ。土地が余って、人が足りない。
広場の隅では、子どもたちが地面に線を引いて遊んでいた。小石を並べて、交互に動かしている。覗き込むと、陣取りの遊びらしい。
「そこの白い石、そっちに動かすと負けてしまうわよ」
言ってから、しまったと思った。初対面の貴族に遊びへ口を出された子どもたちは、ぽかんとこちらを見上げている。が、いちばん年嵩の子が小石を動かし直し、3手後に「勝ったー!」と叫んだ。
それからしばらく、わたくしは地面の盤の軍師を務めた。
「おねえちゃん、つぎは?」
「そうね。相手の黒い石が右に寄っているでしょう。だから左から——」
「左から回る!」
「のは罠よ。左が空いているように見せているの。中央を取りなさいな」
年嵩の子——ピアという名の女の子だった——が、半信半疑で中央に石を置く。3手後、盤面の左に展開していた相手の石は、全部が宙に浮いた飾りになっていた。
「……なんで?」
「広く取った場所が強いとは限らないの。つながっている場所が強いのよ」
ピアは地面の盤をじっと見つめてから、対戦相手の男の子に「もっかい!」と叫んだ。良い反応だ。負けた直後にもう一度を要求できる子は、伸びる。
裸足の足が砂を蹴って、歓声が上がる。裸足。……冬は、どうしているのだろう。聞かないでおいた。答えは想像がつく。
鍛冶屋も訪ねた。老いた職人がひとり、炉の前にいた。ふいごの音と、焼けた鉄の匂い。ゲルトと名乗ったその職人は、わたくしが貴族と知っても手を止めなかった。
「悪いね。火を入れた鉄は、お貴族様より気が短いんでな」
「どうぞお続けになって。——その鍬、刃の根元を継いでいらっしゃるのね」
「ほう、分かるかい。新しい鉄が入らんから、折れた剣だの古い蹄鉄だの、なんでも溶かして継ぎ接ぎよ。本当はいかん。継いだ刃は、いつか畑の真ん中で折れる」
弟子はいない。農具の修理を一手に引き受けているが、新しい農具を打つ余裕はないという。鉄が、足りないから。
罠線の鉄線をこの工房に頼むつもりだったわたくしの計画書が、頭の中で音を立てて軋んだ。素材のない工房に発注はできない。まず鉄をこの村に届ける経路を作るのが先だ。課題が、また1段深いところで繋がっていく。
「ベアトリーチェ様」
村を出ようとしたとき、ひとりの老婆が声をかけてきた。曲がった腰で、杖をつきながら近づいてくる。
「あんた、お貴族様でしょう。王都から来なすった」
「ええ」
「なら聞いておくれ。うちの孫がね、去年の冬に熱を出して。村に薬がないもんだから、峠を越えてヴァルハイムの薬師のところへ——」
「——隣国に?」
「国境なんてね、山の者には関係ないんだよ。峠を越えりゃ半日で着く町がある。けど王都のお役人は、それを密輸だ何だと言いなさる」
国境。国家。領土。
為政者が地図に引いた線は、山に暮らす人々の生活圏と一致しない。峠の向こうのヴァルハイムの町とエルベン村は、国籍がどうあれ、地理的には同じ山のコミュニティなのだ。敵国の薬師が、この村の孫の熱を下げている。
この事実は、防衛計画の前提を静かにひっくり返す。わたくしが「敵」と書いた線の向こうに、この村の命綱がある。
「お孫さんは、もうお元気に?」
「おかげさまでね。いい薬を分けてくれたよ」
皺だらけの顔に浮かんだ笑みは穏やかで、その穏やかさの裏に、同じ苦労を何度も繰り返してきた疲れが透けていた。
馬に乗りかけたとき、小さな足音が追いかけてきた。
「おねえちゃん!」
ピアだった。駆け寄ってきて、握った拳をこちらに突き出す。開かれた掌の上には、白っぽい小石がひとつ。さっきの陣取り遊びで、中央を取ったあの石だ。
「あげる。いちばん強い石」
「……いただくわ。大切にする」
受け取った小石は、子どもの体温でほんのり温かかった。手袋の内側にしまうと、ピアは満足げに笑って駆け戻っていった。
馬に乗り、村を後にする。振り返ると、井戸の周りの人々がこちらを見ていた。期待ではない。「見て回るだけの貴族が、また来た」という視線。それが背中に刺さった。——けれど手袋の内側には、小さな例外がひとつ、確かに温かい。
「ディルク」
「何だ」
「防衛計画の素案、書き直しますわ」
「峠よりこちらが先か」
「ええ。この村が枯れたら、峠の守備隊も干上がります。ヨハンたちの食糧はこの村から出ているのでしょう? 伐採の人手も、罠線の鉄も、全部この村が土台。土台が4割の税で痩せ細っているのに、その上に防衛線は建ちません」
ディルクはしばらく黙って馬を進めてから、ぽつりと言った。
「クラウスに進言するのは、あなたの役目だ」
「あら。なぜご自分でなさらないの」
「軍師の言葉は軽い。平民出身で剣も持てない男の進言は、武人には響かない」
——そうか。
ディルクはこの問題を、とうに把握していた。把握した上で、自分の立場では動かせないことも見切っている。だから「使える」駒を——わたくしを、ここへ連れてきた。
利用された、と感じるべき場面かもしれない。
いや。結果として領民が救われるなら、動機は問わない。それに、利用の仕方が誠実だ。現場を見せて、判断はこちらに委ねた。数字だけ渡して誘導することも、できたはずなのに。
「砦に戻ったら、クラウスにお話しします。税率と物流、2つ同時に。片方だけでは効きませんもの」
「税率を下げて物流を起こす。言うのは簡単だが」
「ええ、簡単ではありませんわ。下げた分の収入をどこかで埋めなければ、今度は砦が干上がる。——ですから、埋める算段ごと持っていきます」
馬の蹄が砂利を蹴る。遠くで鳥が鳴いている。
防衛の前に、まず人。守るべき暮らしが消えたら、防衛線は何を守る線なのか分からなくなる。
目の裏には薬草の茶と、裸足の足と、老婆の笑みが残っていた。
——この土地の「駒」には、命がある。名前がある。熱を出す孫がいて、秋に式を挙げる相手がいる。
それを忘れた瞬間、わたくしは前世と同じ過ちを繰り返す。
地面に引いた線の上で小石を動かして笑っていた、あの子たちの歓声を思い出しながら、わたくしは頭の中の計画書を1行目から書き直し始めた。




