第3話「穴だらけの防衛線」
出発して早々に判明したことがある。辺境の鞍は、淑女用ではない。
「……ディルク。この鞍、跨ぐ形式ですのね」
「横鞍は山道で死ぬ。諦めろ」
公爵令嬢の乗馬教育は、優雅な横乗りしか想定していない。スカートの下に借り物の乗馬袴を穿き、生まれて——この生では——初めて馬に跨がって、わたくしは峠への山道を登った。1時間後には太腿の内側が筋肉の存在を主張し始めたけれど、表情には出さない。出さないったら出さない。
そうして辿り着いたグルント峠は、地図で見るより広かった。
馬を降り、岩場に立つ。眼下に谷が広がり、その向こうにヴァルハイムの山並みが霞んでいる。風が強い。乱れる髪を押さえながら、峠の地形を目に焼き付けた。
「幅は約300メートル。地図の数字より広いですわね」
「地図は5年前のものだ。土砂崩れで地形が変わっている」
ディルクが手綱を引きながら答える。風に外套がはためき、眼鏡の縁がきらりと光った。
峠の両側を見る。東は切り立った崖。登るのはまず無理だ。西は緩やかな斜面で、松がまばらに生えている。
——問題は、西側。
前世の知識が勝手に分析を始める。緩斜面は歩兵の接近路として理想的。点在する樹木が遮蔽物になって、守る側からの視認性は最悪。ここから夜間に奇襲をかけられたら、20名の守備隊では止めようがない。
この峠をチェス盤に見立てるなら、西斜面は守り手のいない斜めの空き筋だ。敵のビショップが、咎められずに滑り込んでくる道。盤の上なら駒を1枚差し込めば塞がる。現実の盤では——その1枚が、高い。
「見張り塔に登らせてくださいまし」
峠の入口に、石造りの塔が2基。高さは10メートルほどで、最上階に兵が2名ずつ詰めている。
螺旋階段の石段は、すり減って中央が窪んでいた。何十年分もの靴底に削られてきた窪み。この塔は、ずっとここで国境を見てきたのだ。王都の誰にも顧みられないまま。
最上階に出ると、風が頬を刺した。
「視界は……北方向のみ。西の斜面は、ほぼ死角ですわね」
「分かっている。だが塔を増やす予算がない」
「予算がない。人もいない。耳にたこができそうですわ」
欄干の石に手を置く。日を浴びた石はぬるく、指先にじんわり熱が伝わった。この景色のどこに兵を置き、どこに線を引くか。前世で離島防衛のシミュレーションを担当したときの思考の型が、そっくりそのまま起動する。限られた兵力で、広すぎる線を守る方法。
「ディルク。お金をかけずに防衛力を上げる方法は、3つありますわ」
「聞こう」
「1つ目、地形の改変。西側斜面の松を伐採して視界を開きます。切った丸太は柵と逆茂木に転用。費用はほぼゼロ、必要なのは人手と時間だけ」
眼鏡の奥で、灰色の瞳がわずかに動いた。頭の中に帳面を開いた目だ。
「2つ目、早期警戒。峠の手前5キロの獣道に細い鉄線を低く張って、触れれば見張り小屋の鈴が鳴る仕掛けを作ります。鍛冶屋があれば鉄線は領内で賄えるはず」
「罠線か。猟師の足くくりの応用だな」
その言葉に、一瞬だけ身体が強張った。——いま彼はこの世界の言葉で言っただけ。トリップワイヤという前世の単語に翻訳したのは、わたくしの頭のほうだ。落ち着きなさい、早乙女律。
「ただし、課題が2つありますわ。鹿や猪が触れても鈴は鳴る。誤報の頻度が高すぎると、守備隊が鈴を信用しなくなります」
「狼少年か」
「ええ。ですから張る高さを膝上に設定して、獣の大半を潜らせます。それでも誤報は残るので——鈴の数で区別を。1本の線に鈴を3つ、間隔を変えて吊るせば、引っかかったものの大きさと速さで音の鳴り方が変わりますわ」
「……音で敵の規模を読むのか」
「正確には『読める可能性を作る』ですけれど。情報は、ないよりあるほうが必ず良い。たとえ精度が低くても、組み合わせれば使えますもの」
ディルクが懐から手帳を出し、何かを書きつけた。わたくしの言葉がそのまま採用される音がした。悪くない音だ。
「3つ目は——」
言いかけて、口を閉じた。
3つ目は「住民の協力」だ。峠周辺で暮らす猟師や炭焼きに報奨金を出し、不審な人影や煙を報告してもらう。人的情報網。前世では当たり前の手法で、費用対効果は3案の中で間違いなく最も高い。
けれどそれは、暮らしている人々を警戒網の部品にするということだ。報告が敵に知れたら、真っ先に殺されるのは彼らになる。
「3つ目は?」
「……少し考えさせてくださいまし。方法は分かっているのですが、そのまま実行してよいものか、判断がつきませんの」
ディルクは黙ってわたくしを見た。問い詰めるでも急かすでもない。考える時間をくれている——のか、わたくしの反応を観察しているのか。この男といると、善意と分析の境界線がいつも曖昧になる。
「降りましょう。峠の周辺を、自分の足で歩きたいですわ」
東端から西端まで、1時間かけて歩いた。地面の硬さ、傾斜の角度、岩の配置。足の裏で地形を確かめながら、頭の中に立体の地図を組み上げていく。途中で太腿が再び抗議してきたが、却下した。
歩いてみて分かることが、いくつもあった。西斜面の松林の下は腐葉土で、足音が吸われる。夜襲側にとって、これ以上ない絨毯だ。逆に東寄りの岩場は浮き石が多く、踏めば必ず音が出る。つまり敵が来るなら西——地図の読みが、足の裏で裏付けられていく。
風も計った。ディルクに聞くと、この季節の夜は谷から峠へ向けて吹き上がるという。夜襲側の音と匂いは風に乗って守備側へ届く。逆に乾季の昼は風向きが反転する。敵が時刻を選べるなら、昼を選ぶ。警戒の濃淡を、時間帯で変える必要があった。
「歩くたびに何か書いているな」
「地図は上から見た嘘を含みますの。足の裏は、嘘をつきませんわ」
守備隊の兵士と話す機会もあった。20代半ばの若い兵で、ヨハンと名乗った。
「ここの任務は長いの?」
「3年になります。まあ、敵が来たことはないんで。退屈ですよ」
笑う口元とは裏腹に、手は剣の柄に慣れた形をしている。実戦は知らなくても、訓練は積んでいる手だ。
「ご家族は近くに?」
「麓の村に、秋に式を挙げる相手が。……あ、いや、その」
耳まで赤くなった青年に、思わず頬がゆるんだ。麓の村——峠を抜けた先の、あの穀倉地帯の縁にある村だ。
「お相手は、どんな方?」
「パン屋の娘で。マルタっていいます。その、気が強くて……俺が夜番明けでぼんやりしてると、店の前を通るたびに固いパンを投げてきます」
「投げて?」
「『寝ぼけた兵隊は峠から落ちる』って。当たると、結構痛いんです」
ヨハンは困った顔で笑った。固いパンを投げる婚約者と、投げられて笑う見張り兵。この峠が守っているものの目録に、わたくしはその光景を書き加えた。目録は、長いほうがいい。守る理由は、多いほうがいい。防衛計画書の1行目に書くべきは兵数でも地形でもなく、本当はこの目録なのかもしれなかった。
「夜間の見回りは何名で?」
「2名です。2交代で。……正直、夜は長いですよ。星を数えるのも3年目になると飽きます」
「——2名」
声に出してしまってから、表情を取り繕った。300メートルの峠を、夜間2名。前世の感覚では警備計画と呼ぶことすら憚られる薄さである。
けれどヨハンを責めるのは筋違いだ。彼は与えられた条件の中で、3年間きちんと立ってきた。問題は条件を決めた側にある。
「ありがとう。とても参考になりましたわ」
帰路、馬を並べたディルクが口を開いた。
「どうだった」
「穴だらけ、というのが率直な感想ですわ」
「知っている」
「知っていて、なぜ放置を?」
「予算と人員を求める報告書を、3年間書き続けている。王都の返答は毎回同じだ。『辺境の防衛強化は、現時点では優先事項にあらず』」
ディルクの声に、わずかな苦味が混じった。冷徹な男の、数少ない感情の漏れ。
「——フリードリヒ殿下のご意向ですわね」
「王子の関心は南方の交易路にある。北の山に金を埋める気はない」
なるほど、これは軍事問題の顔をした政治問題だ。辺境の防衛は、殿下の権力基盤を1ミリも強化しない。だから後回しにされる。守られない側の村に、秋に式を挙げる若者が住んでいても。
「であれば、王都に求めるのはやめましょう。領内で工面する方法を考えますわ」
「どうやって」
「それは——」
峠の風。すり減った石段。ヨハンの赤くなった耳。広すぎる死角と薄すぎる守備。全部が頭の中で回転して、ひとつの形を結びかけている。
「今夜中に、防衛計画の素案をまとめます」
「……今夜中?」
「地図の前で徹夜するのが、わたくしの仕事の流儀ですの。前世——もとい、生まれつきの」
砦に戻ると作戦室に直行した。地図の前に座り、羊皮紙の余白に書き込みを始める。インクの匂いが鼻先をかすめ、ペン先が紙を引っ掻く音が部屋に積もっていく。
防衛線の再構築。限られた資源の再配分。前世で何度も解いた問題の変奏だ。
ただし、ここでは失敗しても論文が却下されるだけでは済まない。人が死ぬ。たとえば、秋に式を挙げるはずの誰かが。
ペンを握る手が、一瞬だけ震えた。
——震えるな。震える暇があったら、最善手を考えなさい。
素案の柱は4本になった。西斜面の伐採と視界の確保。罠線と鈴による早期警戒。守備隊の輪番の組み直し——20名を増やせないなら、20名の起きている時間の配分を変える。そして4本目に、まだ題のない空欄をひとつ。住民の力を借りる方法を、借りる人々を危険に晒さずに設計できたら、そこに書き入れる。
空欄を空欄のまま提出するのは、分析官としては敗北に近い。けれど、埋め方を間違えるより、はるかにいい。
蝋燭を2本灰にして、窓の外が白み始めるまで、わたくしは地図に向かい続けた。




