第2話「チェスの相手」
夜が更けても、わたくしは作戦室にいた。
羊皮紙の地図を読み、頭の中の帳面に書き込み、また読む。気づけば蝋燭は2本目が半分まで溶けていて、窓の外の山稜は墨を流したような闇に沈んでいた。
目を休めようと顔を上げたとき、部屋の片隅にそれを見つけた。
チェス盤。
黒檀と楓で組まれた盤に、使い込まれて角の丸くなった駒たち。盤面には細かな傷が無数に刻まれている。誰かが長い時間をかけて、この盤と向き合ってきた証拠だ。
吸い寄せられるように、駒を並べ始めてしまった。白のポーンを摘まむと、指先に馴染む滑らかさがある。よく触られてきた駒の手触り。前世の研究室にあった、先輩の私物のチェスセットを思い出す。
「——指すのか」
声に振り返ると、戸口にディルクが立っていた。外套を脱いで、白いシャツの袖を肘までまくっている。蝋燭の灯が銀縁の眼鏡に反射して、表情が読みにくい。
「あら。勝手に触ってしまいましたわ。お行儀が悪くてよ、と前世——もとい、家庭教師に叱られそうですけれど」
「構わない。……その盤、誰にも触らせたことはないが」
言いながら、ディルクは向かいの椅子に腰を下ろした。黒駒を自分の手前に引き寄せ、白をわたくしに譲る。
「あなたなら、いいだろう」
レディ・ファーストのつもりか、先手を与えての腕試しか。おそらく後者だ。この男にレディ・ファーストの概念が搭載されているとは思えない。
「では、遠慮なく」
白のポーンを e4 へ。最も基本的な一手。まず相手の出方を見る。
ディルクは一瞬も迷わず e5 と返した。対称形。あちらも様子見ということ。
数手が進む。ナイトが跳ね、ビショップが斜線を通し、キャスリングで王が隅へ退避する。互いに序盤の定石を正確になぞっていく。駒を持ち上げるたび、黒檀の冷たさが指先からわずかに熱を奪った。
「イタリアン・ゲームですわね」
「古典的な布陣を好む人間だと思われるのも、ひとつの戦略だ」
——なるほど。
この男、序盤の選択すら情報戦として扱っている。定石通りに指してみせて、相手に「保守的な棋風」という偽の印象を植え付ける。前世で言えば、交渉の初手にわざと凡庸な提案を出して相手を油断させる手口に近い。
中盤に入ると、空気が変わった。
ディルクのナイトが、想定にない位置へ飛んだ。中央ではなく、端。一見すると悪手。けれど3手先を読むと、ビショップとの連携でわたくしのキングサイドを崩す筋が浮かび上がってくる。
「……面白い手ですわね」
「気づいたか。早いな」
褒められた気はしなかった。「読まれた」ことへの、観察記録に近い声。
受けるか、反撃か。前世の思考が回り出す。互いに最善を尽くし続ければ、どちらも戦略を変える動機を失う均衡点に至る——けれどチェスは完全情報ゲーム。理論上、最善手は必ずどこかにある。探せばいい。それだけのゲームで、それがどうしようもなく難しい。
わたくしはクイーンを動かした。ディルクの狙いを正面から受けず、逆サイドで圧力をかける攻めの一手。
ディルクの指が、駒の上で止まった。
ほんのわずかな間だった。呼吸ひとつ分にも満たない。けれどこの男が今夜、一度も手を止めていなかったことを思えば、その一瞬は十分に雄弁だった。
「……あなた、序盤はわざと定石通りに指していたな」
「さあ。どうかしら」
微笑んでみせる。お互いさまなのだ。序盤で「教科書的な棋風」を装い、中盤で本性を出す。同じ嘘を、同じ盤の上でついていた。
「同じ手を使うか」
ディルクの口元が、かすかに歪んだ。笑みとも苦笑ともつかない、分類保留の表情。
そこからの攻防は、言葉が消えた。
蝋燭が燃えて、蝋の匂いが濃くなる。窓の外では風が松の枝を鳴らしている。駒が盤を打つ小さな音だけが、規則的に響く。コツ、コツ、と。
ポーンが中央で組み合い、ナイトが絡み、ビショップの射線が交差する。一手ごとに盤面は変化して、10手前には存在しなかった局面が立ち現れる。
面白いのは、指し手に人柄が出ることだ。
ディルクの黒は、駒の損得に異様に厳しい。ポーン1個の交換にすら必ず見返りを要求してくる。資源の乏しい辺境で15年戦ってきた人の指し方だと思った。対するわたくしの白は、駒を捨てて時間と位置を買う。物量より情報と速度——前世の机の上で覚えた戦い方。
「あなたの指し方は、贅沢だな」
「あら。効率的、と言ってくださいまし」
「ポーンを2枚捨てて主導権を買った。王都の戦い方だ。辺境では、捨てたポーンの分だけ村が燃える」
軽口の形をしていたけれど、最後のひと言だけ、温度が違った。盤を挟んで、この人の15年が一瞬だけ透けて見える。
扉が薄く開いたのは、そのあたりだった。
「おう、まだ起きとるのか。酒でも——」
クラウスが酒瓶を片手に入ってきて、盤面を覗き込み、3秒で顔をしかめた。
「わしには蟻の喧嘩にしか見えん。どっちが勝っとるんだ」
「「互角」」
声が重なった。クラウスは目を丸くしてから、肩を揺らして笑った。
「そうかそうか。なら邪魔せんよ。——飯と風呂より地図の娘と、15年盤を磨いとった朴念仁か。お似合いの夜更かしだわい」
扉が閉まる。お似合い、の意味を分析しかけて、やめた。データ不足の案件に脳の領域を割くべきではない。盤面に戻る。
これは——楽しい。
認めよう。楽しいのだ。前世で、こんなふうに頭を使える相手はいなかった。シンクタンクの同僚は優秀だったけれど、やりとりはデータと論文ごし。一対一で読み合う知的な肉弾戦の機会など、ついぞ巡ってこなかったのだ。
1本目の蝋燭が尽きて、ディルクが無言で2本目に火を移した。対局は中断しない。蝋を換える左手と、ナイトを支える右手が同時に動く。わたくしはその手際に感心しながら、ビショップで彼のポーンを刈り取った。
「いま、感心して隙ができたな」
「感心と計算は並行処理できますの」
「できていなかったから、そのビショップは3手後に死ぬ」
……3手後、ビショップは死んだ。腹立たしいことに。
終盤。互いにルークとキングだけが残った局面で、ディルクが手を止めた。
「ドロー、だな」
盤面を検分する。確かに、ここからどちらかが勝ち切る変化はない。ルークの位置、ポーンの配置——どの筋を追っても、引き分けに収束する。
「そうですわね」
椅子の背にもたれて、深く息を吐いた。全身にうっすら汗をかいている。頭脳戦で汗をかくなんて、前世にもなかったことだ。
「あなたと指すのは、楽しいですわ」
言ってから、自分で少し驚いた。計算でも分析でも虚勢でもない言葉が口をついて出たのは、この世界に来てからおそらく——数えるほどもない。断罪の場でも馬車の中でも、わたくしはずっと言葉を選んで生きてきたのに。
ディルクが眼鏡を外し、レンズの煤をシャツの裾で拭いた。
「俺もだ」
短い返事だった。けれどその声には、昼間の冷徹さとは違う温度が混ざっていて。
眼鏡をかけ直した彼は、もういつもの無表情に戻っている。蝋燭の炎がレンズに映って、灰色の目を隠した。
「この駒、ずいぶん古いのですわね」
片づけながら、黒檀のキングを手の中で転がす。使い込まれた表面、手に馴染む重さ。よく見ると、彫りの線が1本ずつ微妙に揺れていた。職人の規格品ではない。
「もしかしてこれ、手彫り?」
「最初の数個はな。盤ごと買う金がなかった頃、廃材で彫った。あとから少しずつ買い足して、彫ったのは——そのキングと、ポーンが3つ残っている」
手の中のキングを、あらためて見る。15年磨かれて、廃材の素性などとっくに消えている。けれど彫った夜の灯りの暗さまでは、消えていない気がした。
「15年使っている」
「15年……」
「チェスを覚えたのが15の頃でな。以来、まともな相手がいなかった」
まともな相手がいないまま、15年。
それでも盤を磨き、駒を並べ、ひとりで棋譜を追ってきたのだろう。知的に対等な相手がいない孤独を、この男は寂しさとして数えることすらせずに。
——わたくしも、そうだ。
早乙女律も、職場でいつもどこか浮いていた。分析が鋭すぎると言われた。結論が早すぎると。周囲がまだ議論している段階で答えが見えてしまう居心地の悪さを、誰にも説明できなかった。説明する相手を探すことも、いつからか諦めていた。
「では、また指してくださいまし。今度は決着がつくまで」
「ああ。——だが明日は峠だ。もう休め」
「そうでしたわね」
立ち上がると、座り通しだった腰が小さく軋んだ。窓の外を見れば、月はもう高い。
与えられた部屋へ戻る廊下で、松明が壁に長い影を落としていた。影はわたくしの形をして、わたくしより大きい。
——互角の相手。
この世界に来て最初に見つけたものが「チェスの相手」だというのは、我ながら潤いのない見つけ方だと思う。前世から、進歩がない。でも頬がゆるんでいるのだから仕方ない。
部屋の窓を少し開けると、山の夜気が流れ込んできた。冷たい空気に、砦のどこかの暖炉の煙が混ざっている。
明日は峠の視察。盤上ではなく、本物の盤面を見に行く。
チェスの駒と違って、現実の駒には命がある。そのことを、忘れてはいけない。
——忘れてはいけないのだけれど。
駒を「使える」と言ったときの、ディルクのあの声。同じ物差しを自分の中に飼っていることを、わたくしはまだ上手に怖がれずにいた。




