第1話「ただし、手はある」
馬車に揺られて3日。王都の洗練された空気は遠い記憶になり、窓の外には荒々しい山稜が連なっている。
辺境伯領——グラオヴァルト。
この3日間、わたくしは窓の外を観察し続けた。分析官の旅は暇つぶしに困らない。街道の轍の深さで物流の量が分かる。すれ違う荷馬車の積み荷で交易品が分かる。畑の作付けで食糧事情が分かる。
そして分かってしまった。北へ進むほど荷馬車は減り、畑は痩せ、子どもの頬がこけていく。
「……ヴォルフ様。この街道、整備の予算はいつから止まっていますの」
「6年前からだ」
向かいの席で書類をめくっていたディルクが、顔も上げずに答える。
「王都は辺境に金を出さない。出すのは、戦が始まってからだ」
「始まってからでは遅いのですけれど」
「だから、あなたを雇った」
会話はそこで途切れた。この男、必要なことしか喋らない。3日間で交わした言葉は、おそらく前世のわたくしが無口な上司と交わした3年分より少ない。
2日目の夜に泊まった宿場町では、夕食の席で女将が嘆いていた。「昔は王都行きの商隊が週に3組は泊まったのにねえ。今じゃ月に1組来ればいいほう」。出された麦粥は薄く、塩気が物足りなかった。塩が高いのだ、この土地では。
商隊が減れば宿が痩せる。宿が痩せれば街道が寂れる。街道が寂れれば、商隊はさらに減る。下り坂の循環は、いつだって静かに回る。誰の悪意も要らずに。
窓の外の景色を眺めながら、わたくしは頭の中の帳面に書き込みを続けた。これは観光ではない。赴任前の現地調査である。
馬車が門をくぐると、車輪の音が変わった。王都の滑らかな石舗装ではない、粗い砕石が車体を震わせる。
「ここが辺境伯の居城ですの?」
「城というより砦だな」
確かに、目の前の建物は優雅さとは無縁だった。厚い壁。狭い窓。装飾を削ぎ落とし、防御のためだけに積まれた石。王都の貴族が見たら鼻で笑うだろう。わたくしは、嫌いではない。建物は嘘をつかない。この砦は「ここは戦う場所だ」と正直に言っている。
馬車を降りると、山から吹き下ろす風が頬を叩いた。5月だというのに空気が冷たく、呼吸するたびに針葉樹の——松脂に似た匂いが肺を満たす。
「おお、来たか!」
砦の入口から、巨体の男が現れた。日焼けした肌に、手入れの行き届いた顎髭。40代半ばにして衰えを知らない体躯は、鎧がなくてもひと目で武人と分かる。
「辺境伯クラウス・グレンツェだ。堅苦しいのは好かん、クラウスでいい」
「ベアトリーチェ・ストラテーガですわ。このたびはお招きに——」
「ディルクから聞いとる。王都で啖呵切ったんだって? 『全て計算通り』! わしは気に入ったぞ、お嬢!」
——お嬢。
公爵令嬢が生涯で呼ばれる予定のない呼称である。けれど不思議と嫌な気はしなかった。この人の声には打算の濁りがない。音だけで分かる。
「まあ入れ入れ。飯は食ったか? 先に飯か? それとも風呂か?」
「地図を見せてくださいませ」
クラウスが目を丸くした。ディルクが眼鏡の奥で、わずかに目を細める。
「……飯でも風呂でもなく?」
「地図が先ですわ。3日間、推測だけで戦略を組み立てる苦行に耐えてまいりましたの。正確な地形図なしの戦略など、レシピを見ずに焼くケーキと同じです。膨らみません」
「がっはっは! 変わっとるなあ、お嬢!」
笑い声が砦の壁に跳ね返った。よく響く人だ。この声量だけで兵の士気が3割は上がるに違いない。
砦の中を歩くと、すれ違う兵士たちの視線が突き刺さった。敵意ではない。「王都から来たお飾りの令嬢」を値踏みする目だ。ドレスの裾が石床を擦る音が、やけに大きく聞こえる。
当然の反応だと思う。実績のない分析官は、どの世界でもまず疑われる。前世の初出勤の日も、会議室で似たような目に晒された。あのときの結論は今も有効だ——信用は、言葉ではなく成果物で買うものである。
案内されたのは、砦の2階にある作戦室だった。壁一面に貼られた大判の地図。歩み寄ると、なめした革の匂いが鼻をくすぐる。羊皮紙だ。
——これは。
前世の分析官の目が、勝手に地形を読み始める。
グラオヴァルト領は南北に細長い。西側は険しい山脈、東側は緩やかな丘陵地帯。北の国境線は山岳地帯を横切り、ヴァルハイム領と接する。等高線の間隔、河川の流れ、植生の記号。前世で衛星画像とにらめっこした日々の癖で、視線が勝手に「軍隊の通り道」を探していく。
「この地形は、守りやすい」
指先で山脈をなぞる。羊皮紙の表面はざらつき、インクの線がわずかに盛り上がっていた。
「西の山脈が天然の要害。東の丘陵も、起伏が細かくて騎兵の大規模展開には不向きです。正面から攻めるのは、コストに見合いません」
「ほう」
クラウスが腕を組む。ディルクは壁に寄りかかったまま動かない。試されている、と背中で分かる。けれど不快ではなかった。試験は、得意科目なのだ。
「ですが——」
指先が、地図の北で止まる。
「ここ。この峠が、弱点ですわ」
グルント峠。山脈が一箇所だけ低く沈み、谷をつくっている。国境まで、目と鼻の先。
「峠の幅は……200メートルというところかしら。大軍は通れません。ですが精鋭の一隊なら十分。そして峠を抜けた先にあるのは——」
指で地図をたどって、息が止まった。
「穀倉地帯。ここを焼かれたら、領民が飢えます」
沈黙が落ちた。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
クラウスが顎髭を撫でながら、さっきまでとは別の声を出した。低く、重い。
「……お嬢。3日前まで王都の貴族サロンにいた娘が、なんでそこまで分かる」
「地形は嘘をつきませんもの。山の高さと谷の深さが分かれば、軍がどこを通りたがるかは自明ですわ」
これは嘘ではない。地形分析は前世で叩き込まれた基礎中の基礎。ただし「衛星画像で」とは言えないので、経歴詐称——もとい、経歴省略はさせていただく。
「ディルク」
クラウスが軍師を見た。
「お前の見立て通りだな」
「ああ。——彼女は使える」
使える。
その言い方に、一瞬だけ眉が動いた。人を「使える」「使えない」で測る物差し。それは、わたくし自身が前世から手放せずにいる物差しでもある。チームの同僚を「この局面での有用性」で分類して、上司に「お前は人間を資材か何かだと思ってないか」と苦笑された夜を、ふいに思い出した。
同族嫌悪というやつかもしれない。この眼鏡の男の物差しは、たぶんわたくしのものとよく似ている。
「……お褒めにあずかり光栄ですわ、ヴォルフ様」
「ディルクでいい。ヴォルフは家名というより符号でな。呼ばれても、誰のことか分からん」
「では、ディルク。グルント峠の守備兵力は現状どの程度ですの」
「常駐20名。見張り塔が2基」
「——20名?」
思わず声が裏返った。戦略的要衝に20名。前世の感覚で換算すると、玄関の鍵を輪ゴムで代用しているような数字である。
「ちなみに、その20名の食糧は」
「麓の村から週に2度、荷駄で運んでいる」
「冬は?」
「雪が深い年は、運べない週もある。塩漬け肉と乾パンで凌がせている」
補給線が、細い。細いどころか、毛糸1本だ。兵を増やせない理由は予算だけではない——増やしたところで、食わせる線がない。防衛の問題はいつも、矢の飛ぶ場所より先に、パンの届く場所で決まる。
「予算がない。人もいない」
ディルクが眼鏡を外し、レンズを外套の裾で拭いた。その一瞬だけ、裸眼の灰色の瞳と目が合う。眼鏡という遮蔽物が消えると、この人の目は思ったより——観察される前に、眼鏡はかけ直されてしまった。
「だから、あなたを呼んだ。金と兵の不足を、頭で埋めるために」
「率直な雇用理由で結構ですわ。予算がなくとも、頭は使えますもの」
わたくしは地図に向き直った。グルント峠の周辺をもう一度、今度は丁寧に読む。等高線、水場、見張り塔の位置。この地図は情報の密度が高い。描いた人間は、間違いなく優秀だ。
「ディルク。この地図はどなたが?」
「俺が描いた」
——なるほど。
地形を正確に把握し、紙に落とし込み、他人が読める形に整える。それ自体が高度な戦略的素養の証明だった。前世の職場なら、この地図1枚で採用会議が3分で終わる。
「明日、峠を実際に見に行きたいのですけれど」
「馬を用意させる。……それで、風呂は」
「この地図を、もう少しだけ読ませてくださいませ」
クラウスの苦笑と、遠ざかる足音。扉が閉まる。
蝋燭の灯りの下、羊皮紙の上にグラオヴァルト領が広がっている。痩せた畑も、こけた頬の子どもたちも、この線と記号のどこかにいる。
この土地の全てが、わたくしの新しい盤面だ。
駒は少ない。予算はない。時間も、おそらく足りない。北の国境にはヴァルハイムの兵が集まりつつあって、王都は助けてくれない。
けれど——盤面が見えるなら、打てる手は必ずある。
どれほど経った頃か、扉が小さく叩かれて、盆を持った下女が入ってきた。黒パンと干し肉のスープ。クラウスの指示だという。
「『地図より飯のほうが逃げ足が速いぞ』とのことです」
「……一理ありますわね」
スープはわたくしの知るどの宮廷料理より塩気が強く、そして温かかった。肉体労働をする人々の味付けだ。この味の濃さも、この土地の情報のひとつとして頭の帳面に記しておく。
松脂の匂いを乗せた隙間風が、蝋燭の炎を揺らした。地図の上で、北の峠がじっとこちらを見つめ返している。
明日、あの峠と初対面だ。挨拶の手土産に、守備計画の素案くらいは持っていくとしましょう。




