プロローグ「計算通りの嘘」
玉座の間は、蜜蝋の甘い匂いで満ちていた。
シャンデリアの灯がモザイクタイルに光の網を落とし、その網の中心にわたくしは立っている。正確に言えば——立たされている。
ベアトリーチェ・ストラテーガ。公爵令嬢にして、このクロイツブルク王国でいま最も嫌われている女。
「ベアトリーチェ! 貴様がルイーゼ嬢に行った数々の嫌がらせ、もはや看過できぬ!」
フリードリヒ殿下の声が広間に反響して、居並ぶ貴族たちの肩がいっせいに跳ねた。24歳の第一王子は額に青筋を浮かべ、指先をわたくしに突きつけている。
(——ああ、この局面か)
わたくしの中の「早乙女律」が、勝手に分析を始めてしまう。
前世のわたくし。防衛省のシンクタンクで7年間、戦略分析とゲーム理論を飯の種にしていた研究員。29歳、独身、趣味は各国の国防白書を読み比べること。我ながら潤いのない人生だったと思う。
その律の記憶が戻ったのは、1年前の冬。高熱で3日寝込んだ末に、天蓋つきのベッドで目を覚ました朝のことだった。天井の薔薇の彫刻を見上げて、わたくしは人生で2番目に間の抜けた声を出した。
——ここ、乙女ゲームの世界では?
『覇道の薔薇』。同僚の机に積まれていた攻略本を、昼休みに流し読みしたことがある。王子と外交官令嬢の恋路を、公爵令嬢ベアトリーチェが意地悪の限りを尽くして妨害し、最後に断罪されて表舞台から消える。あらすじと相関図をうろ覚えで知っている程度の、まことに心許ない情報源ではあるけれど。
その断罪が、いま、目の前で進行している。
「申し開きはあるか、ベアトリーチェ!」
殿下が声を張り上げる。集まった視線が背中に刺さり、手袋の中の指先が冷えていく。
弁明の材料を、頭の中の机に並べてみる。
まず、わたくしに嫌がらせの記憶はない。記憶が戻ってからの1年、社交よりも面白いものを見つけてしまったせいで、夜会にはほとんど出ていないのだ。面白いもの——すなわち、この大陸の勢力図である。
関税台帳。穀物の相場。各領の徴兵記録。前世の癖で読み始めたら止まらなくなり、お茶会で「ヴァルハイムの軍拡は財政的に2年が限界ですわ」と力説して、ご令嬢がたを3人ほど黙らせた。あれは反省している。淑女の社交界において、戦力均衡論は紅茶の供にならない。
つまり、嫌がらせをする時間など物理的になかった。
けれど——証明は、できない。
噂はとうに出来上がっている。「ストラテーガ公爵家の令嬢は、得体の知れないことを口走る危険な女」。記憶が戻る前のベアトリーチェが残した高慢な振る舞いの数々が、その噂に立派な土台を提供している。そして殿下の隣では、ルイーゼ嬢が大きな瞳を潤ませていた。
栗色の髪に、桃色のドレス。外交官の娘として磨かれた所作には隙がなく、涙は計算されたような角度で頬を伝っていく。
(——いえ、計算と断定するのは早い)
彼女が本当に傷ついている可能性は、まだ棄却できない。情報が足りない段階で結論に飛びつくのは、分析官として最も恥ずべき愚行。データは正直に、結論は臆病に。前世の上司の口癖だった。
それより気になるのは、殿下の目のほうだ。
怒りで吊り上がった目の奥に、別の色が見える。あれは憎悪ではない。もっと冷たい、算盤を弾く目。ストラテーガ公爵家は軍部に深い根を張る名門で、わたくしはその一人娘。婚約破棄と断罪は、恋の決着である以上に——公爵家の力を削ぐ、政治の一手。
なるほど。これは恋愛劇の顔をした、継承権固めだ。
だとすれば、わたくしがこの場でどう振る舞おうと、結論は最初から決まっている。泣いても、無実を叫んでも、台本は変わらない。変えられるのは、ひとつだけ。
観客に残す、わたくしの「読めなさ」だけ。
選択肢を3つ、頭の中に置く。
1、無実を主張して争う——敗着。証拠がない上、殿下の思う壺。
2、泣いて許しを乞う——敗着。「処分しやすい駒」の烙印を自分で押すようなもの。
3——相手の台本にない手を、打つ。
わたくしは、微笑んだ。
「全て計算通りですわ」
広間が、しんと静まった。
殿下の目が見開かれ、ルイーゼ嬢の涙が止まる。一拍おいて、衣擦れのざわめきが波のように広がっていった。
(——嘘である)
何ひとつ計算していない。婚約破棄も断罪も、防ぎようがないから防がなかっただけ。けれどこの一言は、効く。
ゲーム理論でいうところのシグナリング。自分だけが有利な情報を握っていると相手に思わせれば、場の主導権はこちらに傾く。「理解できない相手」を、人は安易に踏み潰せない。
「わたくしの計算通りに事が運びましたの。殿下がルイーゼ様をお選びになることも、この場で婚約が破棄されることも——全て、見通しておりましたわ」
虚勢だ。胃の底が冷えて、喉の奥が渇いている。手袋の下で爪が掌に食い込んでいるのが分かる。それでも声だけは、湯気の立つ紅茶みたいに余裕の温度を保ってみせた。
「……狂っているのか」
殿下が呟く。嫌悪と、隠しきれない警戒の混ざった目。
(それで結構)
恐れられた駒は、雑に捨てられない。少なくとも今この場で「即刻処刑」という最悪の分岐は消えた。
広間の空気が、ざわざわと組成を変えていく。
観察する。これも癖だ。扇の陰で笑みを隠しているのは、東部派の侯爵家——うちの没落で軍部の利権が転がり込む家。青ざめているのは、ストラテーガ家に縁談を打診していた伯爵家。そして無表情を保っている古参の文官たちは、たぶん今夜のうちに殿下の勝ち馬に乗り換える算段を終えている。
断罪劇というのは、舞台の上より客席のほうがよほど雄弁だ。誰が得をして、誰が損をして、誰がもう次の盤面を読み始めているか。メモを取りたい。切実に。羽ペンと紙さえあれば、王国の権力地図の改訂版がいまここで書けるのに。
——と、現実逃避に近い分析をしている間に、舞台は進行していた。
「婚約は破棄する。ストラテーガ家には追って沙汰を下す。ベアトリーチェ、貴様は王都を去れ」
追放。貴族にとっては社会的な死。けれど物理的な死よりは、よほど打ち筋のある盤面だ。
「かしこまりましたわ、殿下」
深く、優雅にカーテシーを取る。この身体に染みついた礼儀作法が、震える膝を完璧な所作で覆い隠してくれた。
踵を返し、出口へ歩く。背中を囁き声が追いかけてくる。扉までの距離を、わたくしは歩数で数えた。
——28歩。
扉の外に出た瞬間、膝が笑い始めた。壁に手をついて、深く息を吐く。蜜蝋の甘さが遠ざかり、回廊の冷えた空気が肺に流れ込んでくる。
「お見事」
声がした。
振り返ると、柱の陰に男が立っていた。銀縁の眼鏡の奥で、灰色の瞳がこちらを観察している。黒い外套の長身は薄闇に溶けて、最初からそこにいたのか、いま現れたのか判別がつかない。
「——どなた?」
「ディルク・ヴォルフ。グレンツェ辺境伯クラウスの下で、軍師を務めている」
軍師。その単語に、律の血が少し騒いだ。
彼は眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。
「『全て計算通り』。あの場でそう言い切れる人間を、俺は2種類しか知らない。本当に全てを計算していた天才か——何ひとつ計算していなかったのに、咄嗟に最善手を打てる、もっと厄介な天才か」
心臓が跳ねた。
見抜かれている。あの台詞が嘘であることも、嘘のくせに最善手だったことも。
「あいにく、どちらでもありませんわ。強いて言えば——盤面を読む訓練を、人より長く積んだだけですの」
「それを天才と呼ばずに何と呼ぶのかは知らないが」
ディルクと名乗った男は、外套の内から折り畳んだ地図を取り出した。北の国境一帯。赤いインクで、いくつもの印が打たれている。
「北方の情勢が動いている。ヴァルハイムは国境に兵を集め始めた。辺境には、盤面を読める頭が要る」
「……それで、追放されたての罪人——もとい、公爵令嬢を拾いにいらしたの? 趣味がよろしくありませんこと」
「拾うんじゃない。雇うんだ」
灰色の目が、まっすぐにわたくしを射た。
「王都を追われた公爵令嬢に、辺境で盤を囲む気はあるか」
盤を囲む。チェスの比喩だろう。戦略を遊戯に喩える男。前世の職場にもいた型だけれど、この男の目は遊んでいない。
わたくしは壁から手を離し、背筋を伸ばした。膝の震えはもう、止まっている。
「3つ、条件がありますわ。ひとつ、領内の地図と帳簿の閲覧権限。ふたつ、軍議での発言権——お飾りの客分は退屈ですもの。みっつ」
指を3本立てて、最後の1本を折る。
「お給金は、働きに応じて後から決めてくださって結構よ。成果も出していない分析官が高値をつけるのは、市場への冒涜ですから」
ディルクの目が、ほんの一瞬だけ笑った。口元は動かない。目だけが、確かに。
「……変わった令嬢だ。馬車は裏門に回してある。——王都に未練は?」
振り返って、広間へ続く回廊の奥を見る。蜜蝋の灯が遠くに揺れている。あの光の下で、ベアトリーチェ・ストラテーガは「悪役令嬢」として盤から取り除かれた。
「ありませんわ」
これも、半分は嘘だった。けれど嘘のつき方なら、今夜たったいま、上手になったばかりである。
裏門に待っていた馬車は、装飾のない実務的な箱だった。座面の革は固く、車輪が動き出すと骨にまで振動が響く。公爵家の馬車との落差に思わず笑ってしまい、向かいのディルクに怪訝な顔をされた。
「何がおかしい」
「いえ。装飾より車軸に予算を割く主義は、好ましいと思っただけですわ」
「……変わった令嬢だ」
「それ、本日2度目ですわよ」
ディルクは答える代わりに外套の襟を立て、目を閉じた。眠るのではなく、思考に潜る顔。詮索も、社交辞令の上塗りもしてこない。この距離の取り方は、嫌いではなかった。
窓の外で、王都の尖塔が小さくなっていく。
わたくしはずっと、誰かの盤の上の駒だった。公爵家の駒。王子の政略の駒。ゲームの筋書きの駒。
——次は、盤のこちら側に座る。
計算通りの嘘を、いつか本物の計算に変えるために。北へ向かう車輪の音を聞きながら、わたくしは頭の中の盤に、最初の一手を並べ始めた。




