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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第9話「物資の道」

翌朝、リーゼが仕上げたばかりの出納帳を前に、わたくしは唸っていた。


「ひどいですわね」


「はい。ひどいです」


 リーゼの声は平坦だが、算盤を弾く指の力がいつもより強い。玉が勢いよくぶつかって、ぱちん、と乾いた音を立てる。几帳面な人間の怒り方である。怒りの原因は数字の汚さではない。数字の語る、放置の年数だ。帳簿は、怠けた年月を1行も忘れない。


 数字の示す現実は明快だった。グラオヴァルト領の物流は、ほぼ崩壊している。


 南の街道は年に2度しか商人が通らず、物資の供給は不定期。東の丘陵を越える道は、荷馬車が通れないほど荒れている。北は国境、西は山脈。四方のうち三方が地形に閉ざされ、残る一方も満足に機能していない。


「道が、ありませんわ」


 作戦室の地図の前に立ち、指で物流の経路をたどる。


「正確には、あるのに使えない。物流網としては、血管が1本しか通っていない身体と同じですわ。その1本が細い上に、季節で詰まる。ディルク、この東の道はいつから放置されていますの」


「8年前に崩落があった。それきり直していない」


「8年……」


 8年間、東への交易路が死んでいる。領民は南の街道だけに頼り、商人の気まぐれに物流を委ねてきた。塩が足りないのも鉄が来ないのも、根はこの一点にある。


「道を直せば物資が流れる。物資が流れれば人が集まる。人が集まれば経済が回って、税収が増えて、防衛に投資できますわ」


「都合のいい循環論に聞こえるな」


「循環ではありませんの。起点があるんですもの。——道が、起点」


 クラウスを呼び、3人で地図を囲んだ。リーゼが資料を構えて控える。


「クラウス。東の道を直しましょう」


「道か。金がかかるぞ、お嬢」


「かかりますわ。ですが、このままなら領の財政が先に死にます。リーゼ、試算を」


 リーゼが算盤を置き、帳簿を開いた。


「現在、年間支出に対して税収が87パーセント。差額は備蓄の取り崩しで埋めていますが、備蓄は残り3年分。正確には、2年11ヶ月です」


「……3年で干上がるってことか」


「端数を切り上げればそうなります。わたしは切り上げを好みませんが」


 クラウスが腕を組んで唸った。武人の顔ではなく、領主の顔になっている。


「直す金は、どこから出す」


「2段階で考えていますわ」


 東の道の崩落地点を指でなぞる。峠と平地の境目あたり、距離にしておよそ2キロの区間。


「第1段階、崩落区間の簡易修復。石積みの本工事ではなく、丸太を組んだ桟道で通行を回復します。材料は周辺の森から採れますから、費用はほぼ労賃のみ。領民の協力が得られれば、工期は2ヶ月」


「丸太の桟道で、荷馬車は通れるのか」


「軽い荷馬車なら。重量物は当面人力ですが、ないよりは格段にましですわ。構造は単純ですの。崩落面に杭を2列打って、横木を渡して、上に丸太を敷き並べる。崖側に手すり。重要なのは杭の根入れの深さと——排水です。桟道が腐るのは水のせいですから、山側に溝を1本切って水を逃がします」


「設計図は描けるのか」


「素人の概念図までは。細部は大工の棟梁と詰めますわ。現場の職人の知恵に枠だけ渡すのが、いちばん良いものができますの」


「第2段階は」


「道が通じたら、東の町との交易を再開します。まずは週1回の定期便から。物が動き始めれば商人は勝手に来ますわ。そうしたら通行税で道の改良費を賄う循環が生まれる」


「ディルク、お前はどう見る」


 ディルクは地図を睨んだまま、しばらく黙っていた。


「軍事的には、東の道が通れば退路が1本増える。峠を破られた場合の住民の避難経路にもなる。防衛計画に組み込める。——反対する理由がない」


「よし、やろう。だが領民に無理はさせるな。農繁期は外して、冬の前に終わらせい」


「承知しましたわ。工程表はリーゼが。——できますわね?」


「本日中に素案をお出しします」


 迷いのない返事。本当に、頼もしい。


 なおリーゼの工程表は、昼前には素案が上がってきた。農繁期を避けた工区割り、雨天の予備日、丸太の乾燥期間まで織り込み済み。1箇所だけ「桟道工事の経験者が領内にいるか要確認」と赤字の付箋が貼ってあって、確認はわたくしの宿題になった。完璧な部下は、上司に正確な宿題を出す。


 宿題の答えは夕方に出た。桟道の経験者、1名。引退した老大工で、エーリッヒの遠縁だという。辺境の人材台帳は、血縁の網をたどると意外な深さで湧く。


 午後は、エルベン村へ向かった。


 目的は2つ。昨夜ディルクに宣言した通り、山の報せ網に力を貸してほしい猟師たちへ直接会いに行くこと。そして道路修復の人手について、村長エーリッヒと話をつけること。


 猟師たちは、村はずれの猟師小屋に集まってくれていた。獣脂と煙の匂いの染みた小屋で、毛皮の上に座る男が4人。頭目格は、ブルーノという名の岩のような初老の男だった。


「峠の麓に、皆さんが自由に使える休憩小屋を建てますわ。火と、湯と、帳面を置きます。山で見聞きしたことを、書きたいときにだけ書いてくださればいい。義務はありません。役に立った報せには、後から謝礼を」


 仕組みの中身、謝礼の目安、それから危険の話。敵に知れたら狙われるのは小屋ではなく人だということまで、隠さず全部並べた。ブルーノは黙って聞き、最後にひとつだけ訊いた。


「あんたは、山に入ったことがあるかね」


「グルント峠まで、馬で1度だけ。太腿が3日間、口を利いてくれませんでしたわ」


 小屋に、低い笑い声が満ちた。ブルーノの髭の奥の口元も、わずかに動いた。


「いいだろう。だが、霧の日は何があっても動かん。それが山の決まりだ」


「うかがっても? その決まりの、理由を」


 ブルーノは煙管に火を入れ、ひと口吸ってから答えた。


「霧の日に山で死んだ奴を、わしは6人知っとる。全員、山を知り尽くした男どもだ。霧は、慣れた者から順に殺す。慣れとらん者は、そもそも入らんからな」


「——慣れた者から、順に」


 その言葉を、わたくしは頭の帳面の最初の頁に書いた。これは山の話であって、山だけの話ではない。熟練が慢心に変わる瞬間の話だ。戦略でも、まったく同じことが起きる。


「その決まりごと、計画に書き入れますわ。霧の日の報せは期待しない。霧の日に無理をさせる仕組みには、最初からしない」


「……あんた、話の分かる貴族だな」


「貴族としては欠陥品ですの。茶会で軍備の話をして、3人黙らせた実績がございます」


 猟師たちがどっと笑った。何が琴線に触れたのかは不明だが、笑いは信用の前払いである。ありがたく受け取っておく。あとで聞けば、笑いの理由は「太腿の話を貴族が自分からした」ことだという。弱みは、先に出した側の持ち点になる。山でも、社交界でも。


 猟師は4人とも名乗ってくれた。ブルーノ、その甥のカイ、双子のように似た兄弟猟師。頭の中の帳面に、性能ではなく、名前と顔を書き込んでいく。昨夜のチェス盤の前でディルクに誓った、新しい工程だ。


 それから村長の家で、例の薄い薬草茶をいただいた。


「エーリッヒさん。東の道が通れば、塩の値段が3割下がりますわ」


 リーゼの作った資料を卓に広げる。数字の苦手な人にも伝わるよう、図と矢印で組まれた紙だ。


「3割……」


「鉄も入ってきます。鍛冶屋のご老人が農具を新調できれば、畑の実りも変わる。そのための道普請に、村の人手をお借りしたいの」


 エーリッヒの目つきが変わった。疲れた諦めではなく、算盤を弾く目。


「……人手は出す。だが、農繁期に被らんことが条件だ」


「もちろん。工程はそちらの暦に合わせますわ」


「それと——」


 彼は一度言い淀んでから、まっすぐにこちらを見た。


「報酬は出るのか。村の男手を出すんだ。ただ働きでは、承知できん」


 当然の要求だった。領主の命令だから無償で働け、では、4割の税と同じ毒の別名にしかならない。


「日当をお支払いします。それと、作業に出る世帯は、道が完成するまで税を1割減免しますわ」


 これはクラウスに事前に通してある。一時的な歳入減は、道が通れば中期で回収できる計算だ。計算の裏づけがあるから、即答できる。即答は、信用の通貨の中でいちばん流通が速い。


 エーリッヒが深く頷いた。


「——分かった。村の衆に話を通す」


 帰り道、夕暮れの山道で馬を並べると、ディルクが口を開いた。


「領民と直接、日当の交渉をするとは思わなかった」


「あら、なぜ?」


「公爵令嬢が村長と膝を突き合わせて銭の話をする。普通はしない」


「普通のことをしていたら、この辺境は変わりませんもの」


 風が山肌を渡って、松の枝を揺らす。その音に混じって、遠くから水の音が聞こえた。東の崩落地点の近くを流れる川の、せせらぎ。


「——水」


「何だ?」


「川ですわ。東の道沿いに川が流れている。道と並行して水路を引けば、灌漑にも使えますわね」


「道と水路を同時に、か」


「工期は延びますけれど、効果は倍。農業用水が確保できれば、あの村の周りの手つかずの平地を畑にできますわ」


 ディルクが小さく首を振った。呆れではなく、感嘆に近い仕草。


「あなたの頭の中では、ひとつの問題が常に3つの解決策に繋がっているな」


「繋がっているのではなくてよ。最初から一体ですの。道も物流も農業も防衛も、別の問題に見えて根は同じ——資源を、どこへどう動かすかという問題」


 蹄が砂利を踏み、鐙が軽い金属の音を立てる。日が傾いて、山の影が長く伸びていく。


「ディルク」


「何だ」


「わたくし、この村に来るたびに——人の名前を覚えるのが、少しずつ上手になっている気がしますわ。ブルーノ。カイ。エーリッヒ。今日だけで6人」


 ディルクは答えなかった。けれど横目で見た口元が、ごくわずかに緩んでいた。


 道を作る。物資を流す。暮らしを支える。地図の上の線ではなく、足元の地面を、一歩ずつ。


 辺境の盤面はまだ白紙に近い。けれど——白紙だからこそ、描ける図がある。

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