第60話「隣の席」
冬の始まりの日、辺境の城に暖炉の火が入った。
クラウスが「今年の薪は良い木だ」と自慢げに言う。確かに、乾いた楢の爆ぜる音は心地よく、炎の色が壁に揺らす影も温かい。
暖炉の火入れは、辺境では小さな儀式である。今年の最初の薪には、当主が火を入れる。クラウスは火打ちを3度しくじり、4度目で点けて、「樫は気難しいんだ」と誰にともなく弁明した。薪は楢である。気難しいのは木ではなく指先の冷えだと、全員が知っていて、誰も言わなかった。
軍議の間——もう軍議は要らないから、「会議の間」と呼び直すべきかもしれない——に、わたくしたちは集まっていた。クラウス、ディルク、リーゼ、わたくし。
議題は、来年度の予算案である。
「灌漑の維持費が、想定を超えていますわ。冬の間に配管の凍結対策をしませんと、春の農作業に響きます」
「予備費から回せるか」
ディルクの問いに、リーゼが即答する。
「予備費の残額はこちらに。教室の運営費の増額分を差し引いて——」
「足りるか」
「ぎりぎりです。ただし通商の収入が予測より上振れしていますので、年度末の補正で対応可能です。文書院の様式第3号で起案します」
文書院長の作った様式は、もう領政の隅々まで根を張っている。奥付には、小さく彼女の名前。
わたくしは書類に目を通しながら、この光景を噛みしめていた。
戦争の話ではない。補給線でも陣形でもなく、配管と予算の話。日常の、話。
会議の卓も、半年前と同じ顔ぶれで、まるで違う。ディルクの前にあるのは敵の配置図ではなく、来年の街道の延伸計画。クラウスの「うむ」は開戦の裁可ではなく、薪の追加発注の承認。リーゼの算盤が弾くのは兵糧の残り日数ではなく、教室の昼食の豆の単価。
同じ人間が、同じ部屋で、違うものを守っている。守るものの中身が変わることを、世間では平和と呼ぶらしい。
議題は続く。街道の延伸は、北の2村をつなぐ区間が来春の起工。資材の楢材は、例の3村の伐採協定から建築用区画の冬伐り分を充てる。教室の4つ目は、ヘルム砦の麓——市の立つ場所の隣で、市の日と授業の日を重ねる設計だ。親が商いに来るついでに、子が字を覚えて帰る。
「一石二鳥、というやつですわね」
「三鳥だ。市の出店料が、教室の薪代になる」
クラウスが大きな欠伸をした。
「すまん、予算の話は眠くなる」
「閣下、予算を軽んじると冬を越せませんわよ」
「分かっとる、分かっとる。だがなあお嬢、数字の羅列を聞いとると、酒が恋しくなるんだ」
「会議が終わるまで、ご辛抱なさいまし」
クラウスが大袈裟にため息をつく。この人は、変わらない。戦時も平時も、豪快で大雑把で、酒を愛している。
「ああ、それとな。会議のついでだ、言っとく」
クラウスが、欠伸の続きのような気軽さで言った。
「わしの後継の件。家法の規程通り、『領内から、才で選ぶ』。血は問わん。教室の子らが育って、候補が出揃うまで——わしは死なんことに決めた。以上だ」
リーゼのペンが、几帳面にそれを議事録へ記す。『辺境伯、長寿を決議』。10年前に息子を亡くした人が、いま、領中の子どもを跡継ぎの候補として数えている。あの「家法」は、いつの間にか、この人の生きる理由の書式にもなっていた。
「議事録に書くな、そういうのは」
「規程により、決議事項はすべて記録します」
「わしの寿命が決議事項か」
「本日いちばん重要な、です」
リーゼは顔も上げずに答え、クラウスは満更でもない髭の動きをした。
会議が終わったのは、昼過ぎだった。
クラウスは宣言通り酒蔵へ消え、リーゼは清書に取りかかる。わたくしは——
「お茶でも、飲みません?」
ディルクに、声をかけた。
暖炉のある小部屋に移る。リーゼの用意してくれた茶を、2人分の杯に注いだ。いつもの花の配合ではなく、今日は濃く渋い茶葉。冬の始まりには、苦みのある茶が合う。
ディルクが窓際の椅子に座る。わたくしは、その隣の椅子に座った。
向かい合わせでは、なく。隣に。
以前なら、向かい合わせだった。チェス盤を挟んで、あるいは軍議の卓を挟んで。対面は対話の配置であり、同時に、対峙の配置でもある。
隣に座ると、同じ方向を見ることになる。窓の外、辺境の冬景色。最初の雪が、うっすらと大地を覆い始めている。
雪が、少しずつ濃くなっていく。
1年前の冬、この領の冬は「越せるかどうか」の季節だった。備蓄はぎりぎりで、税は重く、峠の兵は2人で1枚の外套を分け合っていた。いまの冬は「何をして過ごすか」の季節になりつつある。教室は冬季の集中講座を組み、文書院は年度の綴じ込みに入り、厨房は保存食の新しい配合を試している。ヘルガの抗議文書のおかげで、豆の煮込みには干し杏が入るようになった。意外なことに、合う。
「先月の、ヨハンの式は良かったですわね」
「ああ。マルタ嬢の投げた祝いのパンが、オーベル大尉の額に命中した式は、辺境の歴史にも残るだろう」
「狙って投げたと、ご本人はおっしゃっていましたわ。『うちの人の上官だから、挨拶代わりに』と」
「峠の守備より、あの家庭の防衛のほうが難しそうだ」
ふたりで、少しだけ笑った。
「来年の春には、新しい道が北部まで延びますわ」
「そうか」
「灌漑の拡張も3期目が始まりますし、教室は4つ目を計画中。ルイーゼが両国の連絡官として正式に着任するのも、来春ですって」
「忙しくなるな」
「ええ」
茶を飲む。苦みが舌に広がって、その奥に、ほのかな甘みが残る。
リーゼの茶葉の棚は、いまや季節と用途で12種に増えている。緊張を緩める花の配合、徹夜明けの濃い黒、祝いの日の甘い香り。今日の渋い茶は、棚の札によれば『長い話をする日のための』だそうだ。長い話。なるほど、的確である。処方箋のような棚だけれど、医者と違って、診立てを外したことがない。『長い話をする日』の判定根拠は、聞かないでおいた。
手帳は、今日も懐にある。数字の頁と、名前の頁。名前の頁は、この1年でずいぶん厚くなった。ヨハン、マルタ、ピア、ヘルガ、ブルーノ、エーリッヒ、ベルント、ヴィム爺、オーベル、トーマス、ギド——そして、ギドの頁の隣に、彼の息子の名前。先月、教室に入った。文字の覚えが早いと、ヴィム爺が褒めていた。
帳面の中で、人は生き続ける。リーゼの言う通り、書かれたものは消えない。だからわたくしは、これからも書く。数字も、名前も、両方の頁を。
名前の頁の最後には、まだ誰のものでもない余白がある。来年の今頃、そこに何人の名前が増えているだろう。新しい教室の1期生。市場に店を出す若い夫婦。生まれてくる子ども。余白の在庫だけは、いくら抱えても倉敷料がかからない。むしろ抱えるほど、この館の帳簿は黒字に近づく。
「ディルク」
「何だ」
「これは——軍議ではありませんわよね」
「見ての通りだ」
「ええ。ただの、お茶の時間ですわね」
「そうだ」
ただの、お茶の時間。
戦略も計算も交渉もない。盤上の駒を動かす必要もない。窓の外を眺めて、茶を飲んで、隣にいる人の呼吸を聞いている。
「式の日取りだが」
ディルクが、雪を見たまま言った。例の「予定」の話である。
「春。道が北へ延びてルイーゼが着任し、皆が集まりやすくなってから——と考えている。場所は、ここの中庭で」
「……仕切りは、どなたが」
「リーゼが、もう式次第の様式を作っている」
「もう!?」
「文書院規程の様式第7号だそうだ。『慶事執行手順書』」
笑いが、堪えきれずに漏れた。この館は本当に、隠しごとと、準備の遅れというものが存在しない。春。道と、人と、樽が揃う季節。悪くない——いいえ。最適解である。
「中庭ですと、収容人数の試算が要りますわね。城下の皆さまも呼ぶのでしょう?」
「様式第7号に、もう収容計画の欄があった」
「……あの方、わたくしたちより先に式を挙げる気ですわよ。書類の上で」
「書類の上の式は、もう終わっているかもしれん」
ふたりで、もう一度笑った。確かめるのが少し怖い冗談である。文書院の処理速度は、当人たちの覚悟より、いつも2歩早い。
こんな時間が——わたくしの人生にあっていいのだと、ようやく分かる。
前世でも今世でも、わたくしは常に何かを分析して計画し、最適化しようとしてきた。休息すら「能率維持のための必要投資」として、計算に組み込んでいた。
でもいま、ここに座っている理由は、計算ではない。隣にいたいから、いる。それ以上の理由が、要るだろうか。
ディルクが杯を置き、眼鏡を外して目を閉じた。珍しく、無防備な姿。3メートル先も見えない目で、それでも安心して目を閉じられる場所が、この椅子なのだ。
暖炉の薪が爆ぜる。小さな火花が舞い上がって、消えた。
「ベアトリーチェ」
目を閉じたまま、彼が言う。
「何かしら」
「隣にいろ」
命令でも提案でも要請でもない声音。そうあってほしいという、まっすぐな——願い。
「いますわ」
短い返事に、短い沈黙が続く。沈黙は、もう測るものではなくなった。埋めるものでも、読むものでもない。ひとえに、分け合うもの。半年前の作戦室の夜に覚えたことの中で、これがいちばん、習得に時間がかかった技術だと思う。
茶が冷めていくのも構わず、わたくしたちは並んで座っている。窓の外を流れる雪雲を、眺めながら。
軍議ではなく。戦略でもなく。日常として。
隣の席は——この世でいちばん、計算の要らない場所だった。




