エピローグ「平和の盤上」
辺境に、春が来た。
2度目の春。わたくしがこの地に運ばれてきた日から数えて、2度目の花の季節——そして、中庭の式から1ヶ月が経つ。
式は、リーゼの様式第7号の通りに、完璧に執り行われた。完璧でなかったのは、祝いのパンを投げる役のマルタが本気を出して、新郎の眼鏡に直撃させたことくらいである。ディルクは眼鏡を拭きながら「いい牽制だった」と評し、列席のイグナーツ将軍——国境の市の開設式のついでに本当に客として来たのだ——が、声を上げて笑った。あの人の笑い声を聞いたのは、両国を通じてあれが最初の記録だと思う。
式次第に、ひとつだけ様式にない項目があった。誓いの後、新郎が懐から小さな駒を出したのだ。手彫りの、白いクイーン。15年前のキングと同じ楓の木を、同じ小刀で彫ったという。
「対の駒は、対で保管するものだ」
指輪と一緒に、それが渡された。文書院長は記録に『信物交換、滞りなく』とだけ書いたらしい。あの几帳面が世界でいちばん豊かな省略をする瞬間を、わたくしは妻の席から見ていた。
左手の指輪には、まだ慣れない。書類をめくるたび、視界の端で小さく光る。そのたびに、ほんの少しだけ手が止まる。止まる時間も含めて、悪くない。
城下の市場は、朝から賑わっている。窓を開けると、焼きたてのパンと干し草と、どこかの庭で咲き始めた花の香りが混ざって届いた。来た頃の辺境は、砂埃と鉄錆の匂いしかしなかったのに。
手帳の名前の頁は、2冊目に入った。
1冊目の最後の頁には、こう書いてある。『この頁の名前を、全員、春に見た』。式の日の中庭には、本当に全員がいたのだ。生きている名前と、墓標の名前と、その息子の名前まで。名前の頁は、もう喪失の記録ではない。続いていくものの、目次である。
2冊目の最初の頁には、式の日の日付と、出席者の名前を全部書いた。書き切るのに、夜を2つ使った。1冊目の最初の頁が『枯れていく土地』だったことを思えば、上々の改訂である。
「お嬢様、本日のご予定です」
リーゼが書類を置く。朝の光の中の横顔は、少しだけ頬がふっくらした気がする。辺境自治政府文書院長は、平和の空気にちゃんと馴染んでいるらしい。
「10時に北部の教室の視察、午後に通商会議、夕方にクラウス様との——」
「行政会議、ですわね」
「いえ。クラウス様の伝言では『酒が届いたから飲もう』と」
「……それは行政会議ではありませんわね」
「はい。ですが断ると拗ねますので、30分だけ顔をお出しになることをお勧めします」
助言は、いつも通り的確である。
執務室を出ると、廊下の窓から中庭が見えた。クラウスがベンチに座って、朝から杯を傾けている。戦争が終わってから酒量は減った——はずだが、本人は「量ではなく質を上げた」と主張している。
「おーい、お嬢! フレーデン経由で最高の白が届いたぞ!」
「朝ですわ、クラウス」
「朝の白は身体にいい。辺境の言い伝えだ」
「そんな言い伝え、ありませんでしょう」
「いま作った」
この人は、変わらない。変わる必要も、ない。辺境の太陽のような人だ。
北部の教室への道すがら、新しい風景が目に入る。手つかずだった一帯に家が建ち並び、煙突から煙が上がる。洗濯物が干され、子どもたちの声がする。
道の脇では、道路工事の棟梁が新しい標識を立てていた。
「参謀様、この道は来月には北の村まで繋がります」
「ご苦労さま。冬の間の工事は、大変だったでしょう」
「いえ。道ができりゃ暮らしが楽になる——それを知っとる連中が、手間賃なしでも手伝いに来ますんで。困るくらいで」
自分から。命令ではなく、計算でもなく。
教室に着くと、子どもたちが中庭で遊んでいた。文字の練習をする子、算盤を弾く子、地面に盤の線を引いて石を並べる子。腰の盾の黒板は3つの教室を回るうちに、縁がすっかり丸くなったという。ヴィム爺は「巡回校長」になり、今日は若い教師——身分特例の登用制度で採用された、商家出身の娘だ——が出迎えてくれた。
「計算の授業で、面白い解き方をした子がいまして。参謀様なら、きっと」
見せてもらったのは、面積の計算を図形の分割で解く方法だった。教本にはない、独自の発想。わたくしは思わず膝を折って、その子の目線に合わせた。
「素晴らしいわ。あなたの考え方は、正しい。ほかの形でも、試してごらんなさいな」
子どもの目が、輝いた。その光を見て——ああ、と思う。守りたかったのは、これだ。数字でも領土でもなく、この瞳の中の、まだ名前のない可能性。
ピアは最年長組で、年下の子に石の並べ方を教えている。「広く取った場所が強いんじゃないの。つながってる場所が強いの」——わたくしの台詞が、わたくしの知らない場所で、次の世代に渡っていく。
ちなみにピアの石並べは、いまや教室の正式な「教材」である。ヴィム爺が手順を整え、リーゼが台帳に載せ、『陣取りの理』という大層な題までついた。遊びが教材になる速度も、この領の名物のひとつだ。
昼すぎ、国境の市の月例の報告が届いた。
開設から半年、市は両国の村人と商人で賑わい続けている。ヴァルハイム側の薬師が薬草の店を出し、エルベンのヘルガが孫を連れて、堂々と「表の道」から買いに行くようになった。峠を密かに越えなくても、薬が買える。あの老婆が10年欲しかったものは、つまるところ、この往来だったのだ。
売り上げの帳尻には、ハンスの組合とロートの商会の名前が並ぶ。商人は冷たいのではなく、正確。正確な彼らがこの市に居続けることが、どんな条文より確かな、平和の検温結果である。
報告の末尾には、イグナーツ将軍の名前もあった。約束通り、客として市に現れ、宣言通り、自分の銀貨で酒を買ったという。売ったのはクラウスの息のかかった酒屋で、値札は「特別価格」——つまり、少し高かったらしい。高く売りつけてやるという約束も、律儀に守られたわけである。
午後の通商会議には、ルイーゼからの書簡が届いていた。
彼女はいま、両国を行き来する連絡官として、5カ国語で往復書簡を書き続けている。条約の実務、国境の市の運営、合同査察の調整——「纏める人」の仕事は、和平の後のほうがむしろ多い。
書簡の末尾に、彼女の字でひと言、添えてあった。
『来月、そちらへ参ります。新しい条約案を直接お見せしたいので。——それと、お茶をご一緒に。山杏の砂糖漬けを覚えましたの』
外交文書の末尾に「お茶」を入れるあたりが、彼女らしい。
返事には、こちらも近況をひとつ添えた。『山杏の砂糖漬け、こちらは蜂蜜漬けが新作ですの。お茶の議題が増えましたわね』。5カ国語を操る外交官との往復書簡で、いちばん往復が速いのは、いつも杏の話題である。外交の本体は、たぶんそちらにある。次の条約より、次の茶会の議事のほうが、きっと先に纏まる。
夕方。クラウスの「酒の会」を30分で切り上げ——実際には45分かかった。白が予想以上に美味しかったのが、いけない——執務室に戻ると、ディルクが先にいた。
チェス盤の前で、待っている。初形に並んだままの、あの盤の前で。
「……今夜、指すの?」
「盤は、住む場所ではなく、遊びに来る場所——と言ったのは、あなただ」
「あら。わたくしの言葉の引用で誘うの、ずるくありませんこと」
「軍師は、使える武器を選ばない」
その言葉に、笑いが漏れた。
チェスは向かい合わせでしか指せない。けれど卓の角を使って、少しだけ斜めに座る。半分向かい合い、半分隣り合う位置。1年かけて見つけた、わたくしたちの定位置である。
駒を動かす。白のポーン。彼が黒のポーンで応じる。
いつもの夜が始まった。蝋燭の灯り。駒が盤を打つ小さな音。時折交わす、短い言葉。
通算成績は、わたくしの32勝31敗。先週、ようやく勝ち越した。本人は「平時の俺は強い」と言っていたくせに、勝ち越された夜から、開戦の定跡を3種類も増やしている。軍師の負けず嫌いは、平和になっても健在である。
「この局面の最適解は——」
口癖が出かけて、止めた。いえ——止めなくて、いい。これはもう、わたくしの言葉なのだから。
「この局面の最適解は、隣にいること。——ですわね」
ディルクが駒を持つ手を止め、わたくしを見た。灰色の目。眼鏡の奥で、蝋燭の灯りが揺れている。
「最適解か。あなたらしい言い方だ」
「ほかの言い方を、まだ存じませんの」
「なら——それでいい。一生かけて、別の言い方を探せばいい」
彼が微笑む。口元だけではなく、目も。
チェス盤の向こうに、ディルクの笑顔。その向こうの窓に、辺境の夜空。春の星が、数え切れないほど瞬いている。眼鏡のおかげで、彼にもあの星は1粒ずつ見えている。
わたくしは——ベアトリーチェ・ストラテーガは、もう悪役令嬢ではない。盤の上の駒でもない。
この土地に根を下ろし、隣にいたい人の隣にいる。
追放の夜の馬車の中で頭の中の盤に並べた、最初の一手——あの一手から、盤はこんなに遠くて温かい場所まで来た。
「次の一手は」
ディルクが、盤を見たまま促す。
「考え中ですわ。なにぶん、この盤は——長くなりそうですもの」
急ぐ理由は、どこにもない。蝋燭はまだ長く、茶は温かく、隣の席は埋まっている。
窓の外で、春の夜風が若葉を揺らしている。盤の上に、わたくしは次の駒を、ゆっくりと置いた。
計算の答えではなく、わたくし自身の答えとして。
(了)




