第59話「盤を降りる朝」
朝の光が、作戦室に差し込んでいる。
わたくしはチェス盤の前に座っていた。あの夜から動かしていない駒。白のクイーンと黒のキングが並んだまま、うっすらと埃をかぶりかけている。
今日、この盤を整えようと思う。
駒をひとつずつ手に取り、布で拭いていく。白のポーン。黒のポーン。ルーク。ビショップ。ナイト。楓と黒檀の駒は、掌に心地よい重さがある。手彫りのキングは、15年分の指の脂で、どの駒より深い艶をしている。
チェスは——わたくしの人生の、写し絵だった。
前世では、棋譜を分析することが世界の見方になった。盤上の駒を動かし、最適手を読み、3手先を予測する。転生してからも同じ。人を駒として見て、配置し、効率の良い手を打つ。ディルクとの対局も、最初は純粋な頭脳勝負の場だった。互角の相手を得た喜び。盤の上だけが、わたくしの居場所だった。
けれど、いつの間にか、盤の外に世界が広がっていた。
領民の顔。村長たちの声。ルイーゼの紡ぐ言葉。クラウスの笑い声。リーゼの「秘書ですから」と、その先の言葉。そして、ディルクの灰色の目。
盤の上は、すべてを制御できる場所だ。駒は規則に従い、予測でき、計算で支配できる。
盤の外は、違う。人は計算通りに動かない。感情があり、意志があり、予測を裏切る。イグナーツは負けを認める瞬間も背筋を伸ばしていたし、フリードリヒは後悔していないと言い切った。ヘルガは「あたしゃ持ってないから」と笑い、リーゼは設立案を自分で起こした。わたくしの計算の外側に、いつも、人間の本体がある。
外側を、恐れていた時期があった。予測できないものは、管理できない。管理できないものは、わたくしを傷つける。そう信じて、盤の中に住んでいた。いまは知っている。予測の外側は、危険の倉庫ではなく——贈り物の倉庫でもあるのだと。焼き栗も、ハンカチーフも、樽も、全部そこから来た。
拭きながら、ひとつずつ思い出していた。
このポーンは、煙の朝に握った駒。このナイトは、最初の対局でわたくしの陣を割った駒。このビショップは、感心して隙を作った夜に死んだ駒。手彫りのキングは、払い落とされた盤の記憶ごと、15年磨かれてきた駒。駒に歴史が宿るのではない。駒を挟んで重ねた時間が、指の脂の艶になって残るだけだ。それで、十分すぎる。
白のクイーンは、わたくしの代名詞のように扱われてきた駒だ。盤上で最強で、だからいちばん働かされ、いちばん狙われる。以前のわたくしは、この駒の気持ちで生きていた。動ける方向が多いことと、自由であることを、混同したまま。
白のキングを手に取った。盤上で最も守られ、最も不自由な駒。1マスずつしか動けない。けれどキングが倒れれば、すべてが終わる。
わたくしは——この半年余り、キングだったのだろうか。守られていた。ディルクに、クラウスに、リーゼに、ルイーゼに、毛布と林檎茶に。
いいえ。たぶん、違う。守られていたのは確かだけれど、この盤のキングとクイーンは、どちらかがどちらかを守る配置をもうしていない。並んでいるだけだ。並ぶことが、いちばん強い配置だと知っている2枚として。
最後に、駒を全部——初形に、並べ直した。
白は手前、黒は向こう。ポーンは2列目。キングとクイーンは、定位置に離れて。あの夜の配置は、わたくしの目に焼き付いているから、盤の上に残しておく必要はもうない。盤は、住む場所ではなく、また遊びに来る場所にする。何度でも、最初から指せる場所に。
窓の外では、城下が冬支度を始めている。薪割りの音、毛皮を干す竿、子どもらの白い息。あの音と湯気の数だけ、この冬は越せる家がある。半年前の帳簿が予言した「3年で干上がる領」は、もうどこにもない。
階下から、厨房の鍋の音が上がってくる。今朝の献立は、豆の煮込みと黒パンと、干し杏の甘煮。台所女中の鼻歌が、半年前より半音高い。幸福の測定装置として、鼻歌の音程は粥の濃度に次いで優秀である。今日の曲目は、祭りの輪踊りの定番だった。
「おはようございます」
リーゼが入ってきて、初形に戻った盤を見て、一瞬だけ足を止めた。
「盤を——」
「整えましたの。次の一局のために」
リーゼは何も言わず、いつものように書類を机に置いた。今日の予定表。3つ目の教室の開校式、北部の灌漑の視察、夕方はクラウスとの行政会議。
どれも、盤の外の仕事だ。
窓を開ける。秋の朝の空気が流れ込んでくる。冷たく、澄んでいて、かすかに薪の煙の匂い。城下が動き始めている。
廊下を、革靴の規則正しい音が近づいてきた。この足音を聞き分けられるようになったのは、いつからだったか。扉の前で止まり、ノックの代わりに、コン、と一度。彼の癖だ。
「どうぞ」
ディルクが入ってきて、初形に戻った盤を見た。
「並べ直したのか」
「ええ。あの配置は、もう覚えましたもの。盤は、次の対局のために空けておきますわ」
彼の唇が、かすかに動いた。笑みとも感嘆ともつかない、いつもの判定不能の表情。それから彼は、白の側の椅子を引いて、こう言った。
「なら——今夜、一局」
「受けて立ちますわ。通算成績、わたくしの1敗から、巻き返しますの」
「言っておくが、平時の俺は戦時より強いぞ。考える時間が増える」
「あら。それはわたくしも同じことでしてよ」
棚の上には、何もない。過去を仕舞う箱は、要らなかった。盤の上の時間も盤の外の時間も、全部つながった1本の道だ。わたくしは今日から、その道を盤の外側から歩く。
「参りましょうか、ディルク。開校式に遅れますわ」
「ああ」
3つ目の教室の開校式は、タールとの境の村で開かれた。
開校式には、エルベンとフェルデンの教室の子どもたちも招かれている。ピアが新入生の前で「先輩」として挨拶をした。緊張で原稿を3度落とし、3度目に拾うのを新入生の女の子が手伝って、それで友達になっていた。式典の予定にない、いちばん良い式次第である。
式には、タール側からも親子が3組来ていた。国境の向こうから、教室の見学に。オットー翁の口利きである。子どもらは挨拶の前に菓子の交換から始めて、大人たちの条約より2年は先を行く外交を披露していた。
「あの子らが大きくなる頃には、通訳が要りませんわね」
「ああ。国境の言葉は、市場と教室で混ざるのがいちばん早い」
オットー翁が客賓として招かれ、約束通りタール側にも教室を作る旨を、子どもたちの前で宣言した。「字を覚えたら、隣の領の友だちと文くらい交わせるようになれ。儂らの代の、落とし前だ」——演説としては型破りで、教育方針としては、完全に正しい。
式の最後に、ヴィム爺が新入生に最初の授業をした。盾の黒板の横で、教本の最初の頁の絵——市場の値札の絵を指しながら、老兵は言った。
「いいか。字はな、偉くなるために覚えるんじゃない。騙されないために覚える。そして——いつか誰かに、騙されない方法を教えてやるために、覚えるんだ」
最前列の子どもたちが、神妙な顔で頷いていた。あの中の誰かが、いつか盾の黒板の前に立つ側になる。種は、そうやって増えていく。
式の記録は、文書院の様式第5号『開校記録』に綴られる。リーゼいわく、この綴りは100年後の歴史家への「贈り物」だそうだ。歴史家の前に、まず子どもたちが自分の入学の頁を読みに来るだろう。それでいい。記録のいちばんいい読者は、記録の中にいる人である。
ふたりで式場をあとにする。馬車の窓から、辺境の昼が見えた。
帰りの馬車で、ディルクがふと言った。
「あなたの言う『盤を降りる』を、ようやく正確に理解した気がする」
「あら。講評をうかがっても?」
「盤の上にいる間、指し手は駒の損得で世界を見る。盤を降りた人間は——駒だったものたちと、同じ地面に立つ。今日の開校式で、あなたは終始、子どもらと同じ高さにしゃがんでいた。参謀の視察の姿勢ではなかった。あれが、降りた人間の姿勢だ」
「……買いかぶりですわ。膝を折る癖は、エルベンの陣取り遊びで覚えただけですもの」
「癖で折れる膝が、いちばん本物だ」
窓の外を、冬支度の村が流れていく。薪の山、毛皮の竿、白い息。盤を降りても、見るべきものは無限にある。むしろ降りてからのほうが、世界は細部まで見える。眼鏡を初めてかけた日のディルクの話を、少しだけ、追体験している気分だった。
途中の村で、馬車が一度停まった。道端の畑から、農夫が籠を抱えて駆け寄ってきたのだ。新じゃがの籠だった。「参謀様と軍師様に」とだけ言って、受け取りの礼も待たずに畑へ戻っていく。
「……報酬の前払いかしら」
「いや。あれは利息だ。元本は、去年の冬に守られた畑」
膝の上の籠は、土の匂いがした。重い。この重さの分だけ、この土地で時間が経ったのだ。
帰り着いた館の門で、リーゼが待っていた。籠を見て、すぐに台帳を開く。
「収受の記録を。『新じゃが1籠、街道沿いの畑より』——お名前は伺いましたか」
「いただき損ねましたわ」
「では『名乗らぬ農夫』と。……この欄、今年に入って7件目です」
名乗らない贈り主の欄が、台帳の中で育っていく。7件の無名は、7枚の感謝状より重い。受け取った重さの分だけ、明日も働けばいい。リーゼは台帳を閉じ、籠を厨房へ——ではなく、まず秤へ運んでいった。重さも、記録するらしい。
盤を降りた朝。わたくしの足は、チェスのマス目ではなく、この土地の地面を踏んでいる。地面は、マス目より不規則で、マス目より、ずっと温かい。




