第58話「今度は本当に」
フリードリヒ殿下との最終会談は、辺境の城ではなく、王都との中間にある会議場で行われた。
中立地点での会合。それ自体が、辺境と王家の関係が対等に近づいた証である。
会議場は元修道院を改装した建物で、天井の梁に古い木の匂いが染みついていた。長机の上に、和平条約の最終版と、辺境自治権の承認書、それから——軍事顧問・非常駐の任命状が並ぶ。
卓を挟む椅子は、2脚だけ。中立地点の会談は、置く物の数まで対称に揃えるのが作法らしい。燭台が2つ、水差しが2つ、砂時計がひとつ。時間だけは、共有財産ということか。
道中、ディルクは「中まで付き合う」と言ったけれど、わたくしは断った。
「今日の会談は、あの方とわたくしの——断罪の日の、決算ですもの。決算は、当事者同士でするものですわ」
「……分かった。だが、入口までは行く」
「ええ。入口までは、お願いしますわ」
守られ方の交渉も、ずいぶん上達したものである。お互いに。
会議場までの道は、騎行で半日。途中、街道の分岐に新しい標識が立っていた。『北——クロイツブルク方面』。文字が読める者が増えると、道は標識を生やす。半年前まで、この分岐を正しく曲がれるのは地元の馬だけだった。
「標識の費用、王都と折半にできないものかしら」
「会談の議題に積むのか。標識1本を」
「積みますわよ。道は、両方の端のものですもの」
ディルクが小さく笑う気配がした。会談前の緊張が、この人の隣だと議題の在庫に変わっていく。
フリードリヒは、ひとりで来ていた。随行も護衛も外に待たせて、一対一。彼なりの信頼の表現なのだろう。あるいは——人に聞かせたくない会話が、あるのか。
会談の前に、王子はまず任命状を卓に置いた。『王国軍事顧問(非常駐)ディルク・ヴォルフ』。身分特例の適用第1号の文字が、官印の隣に並んでいる。
「あの対案は、見事だった。私は軍師を取り損ね、特例の前例だけが王国に残った。……いや。前例こそが、お前たちの本当の狙いだったか」
「殿下の頭脳に、お答えする必要はなさそうですわね」
「答えないことが答えという話法も、お前から学んだ」
学んだ、という言葉を、王子は隠さなくなった。それがこの半年余りの、いちばん静かな変化かもしれない。
教えた覚えは、ない。授業料も、いただいていない。けれど人の技は、敵対している間がいちばんよく伝わるものらしい。皮肉な伝授経路だけれど、伝わった技は本物である。
任命状の隅には、小さな手書きの添え書きがあった。『年2度の諮問、初回は春に』。官製の書式の中で、そこだけが王子個人の筆跡である。形式の中に私信を忍ばせる技術——この人も、行間というものを覚えたらしい。初回の春が、いまから少しだけ楽しみである——と認めると負けな気がするので、手帳には『要準備』とだけ書いておく。
「すべての条項に、王家の承認印を押す。これで正式に発効する」
羊皮紙に、印が押されていく。赤い封蝋に、双頭の鷲。
「ありがとう存じます、殿下」
「礼は早い。これからが本番だろう。自治を得た辺境が安定を保てるかどうか——それは私ではなく、お前にかかっている」
「承知しておりますわ」
押印を終えたフリードリヒが、椅子に深く腰を沈めた。公式の用件は、これで終わり。けれど彼は、立ち上がらない。
「ベアトリーチェ。ひとつ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
「お前は——すべて、計算していたのか。断罪の日から、今日まで」
その問いに、わたくしは少しだけ目を閉じた。
あの日。玉座の間で『全て計算通りですわ』と言った日。嘘だった。何ひとつ計算していなかった。笑うしか、なかっただけ。
それから、この半年余り——
ディルクとの出会い。チェスの夜。峠と、村と、薄い薬草の茶。フレーデンでの失敗。霧の夜と、ギドの墓標。撤退と、橋と、旗の列。会議室の戦場。計算は、何度も外れた。想定の外から、何度も殴られる。そのたびに検証し、組み直し、また指して——ここに着いた。
計算とは、当たることではない。外れたときに、立て直せる形に組んでおくこと。半年余りをかけて、わたくしはあの言葉の意味を、自分で作り替えてきたのだ。
だから、答えはひとつしかない。
「全て、計算通りですわ」
フリードリヒの碧い目が、わたくしを射抜く。
「——今度は、本当に」
沈黙が落ちた。梁を抜ける風の音だけが、聞こえている。
やがてフリードリヒが、口の端を持ち上げた。苦笑ではない。認めた者の、笑い。
「あの日と、同じ台詞か。だが——確かに今回は、嘘に聞こえないな」
「あの日の台詞は、未払いの約束手形でしたの。半年で、利息ごと現金化いたしましたわ」
「……商人のような言い方をする」
「優秀な秘書の影響ですわ」
フリードリヒが立ち上がり、窓辺に歩み寄った。窓の外には、街道を行き交う商人たちの荷馬車が見えているはずだ。
「正直に言おう。お前を断罪したことを、後悔はしていない」
その言葉に、わたくしは眉ひとつ動かさなかった。
「だが——あの判断が正しかったかと問われれば、答えに窮する。お前を排除したことで、私は優秀な臣下を失い、辺境に強力な自治勢力を生んだ。戦略的には、失着だ」
「チェスで言う、序盤の悪手ですわね。取り返すのに、中盤を丸ごと費やすことになる」
「そのたとえを使うあたりが、お前らしい」
フリードリヒが振り返った。
「今後、辺境と王家は協力の関係を保つ。だが、もう二度と、お前を敵に回すつもりはない。これは王太子としての判断ではなく——」
言葉を探すように、視線が一度だけ彷徨って、
「個人としての、学習だ」
ああ——この人も、変わったのだ。恐れから人を摘んだ王子が、恐れを認めた上で、協力を選ぶ王になろうとしている。摘む鋏を持ったまま、摘まない判断を覚えた為政者。それはたぶん、鋏を捨てた為政者より、ずっと強い。
そして思う。あの書庫の夜に書いた人物分析の紙——『彼は間違っていない』と結んだ、あの1枚。あれに、いまなら2行目を書き足せる。『間違っていない敵は、間違っていない味方になり得る。利害の照準さえ、合えば』。摘まれた芽の側から書ける分析としては、われながら上出来の部類だと思う。
「殿下。わたくしも、ひとつ正直に申し上げてよろしくて?」
「聞こう」
「あの断罪がなければ、わたくしは社交界の隅で朽ちておりましたわ。頭脳を持て余して、人を駒として見る目を、誰にも正されないまま。殿下のご判断は——わたくしにとっても、転機でしたの」
フリードリヒが一瞬目を見開き、それから、静かに頷いた。
「では——互いに、借りなしだ」
「ええ。これからは、対等に。……もっとも対等というのは、楽な関係ではありませんわよ、殿下。庇護も服従もない代わりに、毎回、中身で勝負することになりますもの」
「望むところだ。お前と中身で勝負できる程度には、私もこの半年余りで鍛えられた。——主に、お前にだが」
王太子の軽口というものを、わたくしは生まれて初めて聞いた気がする。断罪の広間の彼に教えたら、不敬罪で投獄されそうな進歩である。
差し出した手を、フリードリヒが握った。あの日には想像もできなかった握手。断罪する者とされる者ではなく、王家と辺境、それぞれの代表として。
握力は、強くも弱くもなかった。測り合う段階の終わった者同士の、事務的で、だからこそ対等な圧力。手を離すとき、王子の指が一瞬だけ迷ったのを、わたくしは見なかったことにした。為政者の迷いは、見届けるものではなく、預かるものだ。
会議場を出ると、秋の風が頬を撫でた。色づき始めた木々を抜ける風は、インクでも蝋燭でもなく、枯葉と土の匂いがする。
会議場の廊下には、断罪の広間と同じ蜜蝋の燭台が並んでいた。以前なら、この匂いに膝が反応しただろう。今日は、何も起きなかった。匂いの記憶は、もう別の持ち主のものになっている。
ディルクが、入口で待っていた。壁に寄りかかり、腕を組んで。
「終わったか」
「ええ。全て——計算通りに」
その言葉に込めた意味を、この人は全部分かっている。あの嘘の生まれた夜、回廊で「お見事」と言った人だから。灰色の目が、微かに笑った。
「帰るか」
「帰りましょう。辺境に」
帰りの馬車は、珍しくディルクも乗り込んだ。
「馬車にお酔いになるのでは?」
「今日は、酔わない気がする」
根拠のない予測を口にする軍師を、わたくしは見たことがなかった。窓の外を、色づいた街道が流れていく。会議場が小さくなり、やがて木々に隠れて見えなくなった。
馬車の中で、ディルクが懐から小さな包みを出した。会議場の門前で買ったらしい、焼き栗である。
「戦勝の祝いか何かですの?」
「違う。腹が減っただけだ」
ふたりで分けると、栗はまだ温かかった。歴史的な決算の日の帰り道が、焼き栗の匂いをしている。悪くない。歴史というものは、たぶんこういう匂いの日々の総称である。剥いた殻が、車内の床に小さく積もっていく。リーゼが見たら、様式を作りそうな光景だ。
会議場で過ごした時間より、往復の馬車の時間のほうが長い1日だった。長いほうの時間に、いい思い出が積もる日もある。今日は、その日だった。
帰る、という言葉が、こんなにも当たり前に口から出る。あの日、嘘のつき方を覚えたばかりだったわたくしに、教えてあげたい。——あなたの「計算通り」は、いつか本当になる。嘘を本物にする人たちの隣で。




