第57話「新しい地図」
王都からの打診への返答は、翌朝の作戦室で告げられた。
「断る」
一晩かけた答えにしては、迷いのない声だった。書状を卓に置いて、それだけ。
「……一晩、考えると仰いましたのに」
「考えた。正確には——15の歳に夢に見た盤を、一晩だけ、眺める時間をもらった。眺めて、確かめた。あの盤は、15の俺の夢だ。30の俺の夢ではない」
「いまの夢は、うかがっても?」
「俺の地図は、ここにある。王都の壁の中で描ける地図に、興味がない。……それと、もうひとつあるが、それは夢ではなく予定だから言わない」
言わない、と宣言してから卓の上の書状を裏返す手つきが、妙に丁寧だった。15の夢を一晩眺めて返してきた人の手は、存外、静かなものらしい。窓から差す朝日が、レンズの縁で小さく光る。
予定。その単語の中身を問い質す勇気は、朝のわたくしにはなかった。代わりに、参謀としてひと言だけ付け足した。
「断り方は、わたくしに設計させてくださいまし。王家の打診を素手で突き返すと、せっかくの『身分特例』の前例が死にますわ。——対案を出しますの。『王国軍事顧問・非常駐』。年に2度、王都で軍制の諮問に応じる。身分特例の適用第1号として、ですわ」
「王都は、それで呑むか」
「呑みますわ。殿下が欲しいのは、あなたの頭脳の『独占』ではなく『接続』ですもの。それに——身分制限撤廃の特例第1号が辺境に立てば、3つ目の条件が、紙の上から現実に変わりますの。あなたの断り方が、後に続く誰かの道になりますわ」
ディルクは少し黙り、それから言った。
「……断ることまで、誰かの役に立てるのか」
「立ちますのよ。断り方は、生き方の一部ですもの」
「……あなたの帳面の格言集は、いつか製本した方がいい」
「あら、もう題名は決めてありますのよ。『辺境式・盤外戦術全書』。第1章が、雇用契約の結び方ですの」
ディルクが、珍しく声に出して短く笑った。朝の作戦室に、その音はよく響く。
クラウスは、対案の説明を聞き終えると、腕を組んで唸った。
「つまり、ディルクはうちに居て、年に2度だけ王都に貸し出されて、その代わり『平民でも才があれば登れる』という梯子が王国に1本立つ、と」
「ええ。貸出料は、王家持ちですわ」
「……お嬢、お前さん、うちの軍師で商売をしとるな」
「人聞きの悪い。投資と申し上げて。——なにせ元手は、王都が一度捨てたものですもの。拾いものの運用利回りとしては、王国史に残る数字ですわ」
クラウスの笑い声が、廊下の先まで響いた。古道具屋の看板は、当分下ろせそうにない。
返書の文面は、ルイーゼに頼んだ。断りの手紙こそ、言葉の温度が命である。『辺境の防衛体制の継続性に鑑み』から始まる丁重な対案は、読みようによっては、王都への淡い皮肉にもなっている。気づく読み手は、たぶんひとりだけ。その読み手に向けて、行間は調合されている。
返答の書状はその日のうちに発送され、10日後、王都から「対案を受諾する」との返書が届くことになる。フリードリヒは、損のない取引を見分ける目だけは、本当に確かだ。
さて——その間に、もうひとつの大仕事が進んでいた。
辺境の地図の、全面改訂である。
ディルクの12年の原図を土台に、リーゼの記録方たちが測り直した新版が、執務机に広げられた。羊皮紙のインクがまだ乾き切っておらず、鉄粉混じりの匂いがする。
「——増えましたわね」
思わず、声が出た。
原図の頃、地図に載せる価値のある道は2本だった。砦と国境を結ぶ軍道と、王都へ続く街道。それ以外は獣道に毛の生えた小径ばかり。
新版には、道が7本ある。村と村を結ぶ生活の道。市場へ向かう通商路。水路に沿って整備された農道。東の道と桟道。道があるということは人が行き来しているということで、人が行き来しているということは、暮らしが動いているということだ。
「この印は——」
リーゼが、地図の一角を指した。小さな四角が3つ。
「教室ですわ。フェルデンにひとつ、エルベンにひとつ。3つ目は、タールとの境の村に建設中」
半年前には、ひとつもなかった。辺境の子どもの道は、畑か兵営の二択だった。いまは文字を学び、計算を覚え、いつか——地図そのものを描く子が、出てくるかもしれない。
ディルクが地図に屈み込み、国境沿いの新しい印をなぞった。
「非武装地帯の合同監視所。こちらから3名、あちらから3名の6名体制。……元敵同士が、同じ小屋で同じ湯を沸かす」
「半年前には、考えられない景色ですわね」
「半年前は、あなたがこの地図を描くとも思わなかった」
合同監視所の当番表は、リーゼの様式で両国語併記になっている。湯沸かしの当番まで決まっているのは、こちらの流儀だ。「湯の当番を巡る国際紛争は、起こさせませんわ」と、起案者は真顔だった。
描く。その言葉が、不意に胸に響いた。
ひとりで描いたのではない。ディルクの原図、クラウスの人望、リーゼの帳簿、ルイーゼの言葉、ハンスの荷馬車、領民たちの汗と笑い声。全部が重なって、この1枚になっている。
そして地図の隅、凡例の下に、小さな1行があった。
『製図原本——D・ヴォルフ』
リーゼの記録方の仕事である。名簿にも系図にも載らずに生きてきた男の名前が、この土地の公式の地図に、初めて活字として刻まれた。本人は気づいて、何も言わずに眼鏡を一度押し上げる。押し上げた指が、少しだけ長く、フレームに留まっていた。
地図には、道と教室のほかにも、新しい記号が増えていた。水車の印が2つ。井戸の印が9つ。東の桟道には『冬季通行可』の注記。そして国境沿いの非武装地帯には、武器の印の代わりに、市の立つ日を示す小さな旗の印。
「武器の記号が、ひとつも要らん。……12年描いてきて、初の地図だ」
原図の主が、誰にも聞かせない声量で呟いたのを、わたくしの耳が拾っただけだ。聞かなかったことにして、旗の印をひとつ、指先でなぞった。紙の上の小さな旗が、武器の印より広い面積を守ることを、この半年で教わった。
「それと、お嬢様。もうひとつ、ご提案が」
リーゼが、見慣れない書類を差し出した。見慣れないのは当然で——それは、わたくしの指示で作られた書類ではなかったのだ。
『辺境文書院 設立案——起案者 リーゼ・ブルーメンタール』
「自治政府には、記録の中枢が要ります。条約、規程、台帳、地図、戦訓。散逸すれば、いまの辺境の知恵は1代で消えます。お嬢様の税制も、ヴォルフ様の防衛の戦訓も、ヘルガ様の薬草の知識さえ——書かれなければ、人と一緒に消えるのです。わたしは商家で、祖父の代の取引の知恵が、帳簿1冊の焼失で消えるのを見ました。文書の作成と保存の規程を、一から設計させてください。それから——」
彼女は、ほんの少しだけ言い淀んだ。見たことのない種類の、言い淀みだった。
「規程の奥付に、わたしの名前を入れることを、お許しいただきたいのです。……いつか、自分の名前で帳簿の様式を作るのが、商家にいた頃からの、その、夢でしたので。兄に『女の几帳面は嫁入り道具にしかならん』と言われた日から、ずっと」
わたくしは設立案を最後まで読んだ。完璧だった。完璧で、そして、彼女自身の欲の形をしている。
思えばこの半年、リーゼは常に、誰かの仕事を完璧にする側にいた。わたくしの試算、ディルクの報告、クラウスの帳簿、ルイーゼの条文。彼女の名前は、すべての仕事の影に居て、どの表紙にも載らなかった。載らないことを、本人は一度も不満に言わなかった。言わないことと、望んでいないことは——別なのだ。それを見落としていたのは、人を見る目を養ったつもりの、わたくしのほうだった。
「許可しますわ。——いいえ、訂正します。お願いしますわ、ブルーメンタール文書院長」
リーゼの目が見開かれ、それから、深い、深い一礼が返ってきた。算盤を抱えて門に駆け込んできた日の彼女と、同じ姿勢で。中身だけが、まるで違う一礼だった。
報せを聞いて廊下から乱入してきたクラウスは、杯もないのに「文書院長に!」と乾杯の真似をし、リーゼ本人に「祝いの樽の支出様式を、院の第1号文書にしてくれ」と頼んで、即座に却下されていた。第1号は文書院設立規程。第2号が樽。譲歩の速さに、新院長の有能さが出ていた。
窓の外に、新しい地図に載っている景色が広がっている。城下の屋根、畑、立ち上る竈の煙。人が暮らしている煙だ。
「次の地図は、もっと賑やかになりますわよ」
「楽しみだな」
ディルクの「楽しみ」という言葉を、わたくしは聞いた覚えがない。この人は未来を語るとき、いつも「備える」「想定する」と言う人だった。
夕方、新しい地図の写しが、議事堂の壁に掲げられた。
見物に来た領民たちが、自分の村を探して指をさす。「うちはここだ」「道が載っとる、うちの前の道が」。地図に載るということは、世界に居場所の証明書が発行されるということだ。ヴィム爺の教本の、最後の頁の通りに。
人垣の後ろでは、ハンスが自分の荷馬車の通った道を端から端まで指でなぞり、「この線の砂利は、半分はうちの車輪が運んだ」と誰にともなく自慢している。誰も笑わない。事実だからだ。地図の線の1本1本に、運んだ者の名前がある。載っていなくても、ある。
窓から入る秋の風が、地図の端を揺らす。道の線が、一瞬だけ動いたように見えた。
まるで、これからも伸び続けるように。次の改訂の日付は、まだ誰も知らない。知らないまま、線は今日も、1歩ずつ先へ延びている。




