第54話「粥の濃さは嘘をつかない」
王都への報告のため、馬車に揺られている。
フリードリヒ殿下は先に発った。王族用の早馬で、もう着いている頃だろう。わたくしたちは通常の旅路で7日。急ぐ理由も、もうない。
馬車の窓を、辺境の景色が流れていく。
最初にこの道を通ったとき——断罪されて、行く当てもなく、ディルクの馬車で北へ運ばれたあの日。同じ景色のはずなのに、あのときは何も見えていなかった。頭の中の帳面に「枯れていく土地」とだけ書いて、頁を閉じた。
いま、窓の向こうには畑が広がっている。半年前は手つかずだった平地に、開墾されたばかりの区画が並び、最初の麦が穂を揺らしている。東の道沿いには、新しい水路が光っていた。
昼下がりには、北へ向かう商隊とすれ違った。荷馬車が4台、護衛が2騎。先頭の商人がわたくしたちの紋を見て帽子を取り、「峠の市はまだ先ですかい」と聞いてくる。
「秋の市はヘルム砦の麓で。冬の市から、峠の新しい市場小屋ですわ」
「そりゃいい。冬の峠が稼ぎ場になるたぁ、親父の代にゃ考えられんことで」
商隊が砂埃を立てて遠ざかっていく。護衛の2騎は、よく見ればタールの傭兵組合の腕章をつけていた。国境の治安が、もう商売になっている。半年前、この街道で出会う一団といえば、徴発を逃れる避難の荷車だった。同じ車輪の音が、いまは商いの音をしている。
「ご覧になっていますわね、あの畑」
隣のリーゼに声をかけると、彼女は窓の外を見て頷いた。
「第7区画の開墾地です。免税3年の適用第1号。今年の収穫見込みは、種の量から逆算して控えめに見ても上々です。新しい鋤を入れた農家が、この区画だけで9軒」
「数字で覚えているのが、あなたらしいですわ」
「秘書ですから」
いつもの返事。けれど目元が、少し柔らかい。
馬車の前方では、ディルクが馬を並走させている。馬車には乗らない。「馬車に酔う」と言っていたけれど、嘘だろう。単に、箱に閉じ込められるのが嫌いなのだ。15年、自分の足と目で地形を確かめてきた人である。
道沿いの村を通るたび、領民が手を振ってくる。
「参謀様、戦争が終わったって本当かい」
「本当ですわ。もう、ご心配はいりませんの」
「ありがてえ……。畑が焼かれるんじゃねえかと、夜も眠れんかった」
年配の農夫が、目を赤くしている。隣の奥方が夫の腕を引っ張りながら、深々と頭を下げていた。
馬車が村を過ぎて、わたくしは窓枠に頬杖をついた。
あの農夫の赤い目。あれが、守ったものだ。数字でも図表でもなく、生きている人の顔。
前世のわたくしは、研究室の机で紛争を分析していた。画面の向こうの戦争は、データと図表に変換されて届いた。被害は折れ線で、難民は矢印で。あの矢印の1本1本に、固いパンと薬草の茶があったことを、わたくしは知識としてしか知らなかった。
いまは、違う。重さごと、知っている。
知ってしまった以上、前世の流儀の報告書は、もう書けない。王都に出す報告書には、数字の脇に小さく、固有名詞を残すつもりだ。読み飛ばされても構わない。記録の中に名前があることと、ないことの差は——半年前のディルクの地図が、いちばんよく知っている。
昼の休憩で、街道脇の丘に登った。
丘の上から、辺境の全体が見渡せた。北に峠と山脈、東に丘陵と川筋、点在する村の屋根と、伸びていく道。新しい地図の実物が、足元から地平線まで広がっている。
「ここから見ると、よく分かりますわね。半年前のわたくしたちが、どこで何をしていたか」
「ああ。あの尾根が第1線の警戒点。あの谷が、夜襲の渓谷。あの橋が——」
「呪われた橋ですわね。いまは交易の荷馬車が、1日に6台渡っていますけれど」
戦争の地形が、そのまま平和の地形に名前を変えていく。地面は同じで、使い方だけが変わった。土地というものの度量の広さに、ときどき頭が下がる。
ディルクが、足元の草を1本抜いて、風に放した。草は、まっすぐ東へ流れていく。
「風向きを読む癖が、抜けない」
「結構ですのよ、抜かなくて。風は商隊の到着も運びますし、雨の前触れも教えてくれますわ。読む対象を、戦争から暮らしに付け替えるだけ」
「……あなたは本当に、何でも転用するな」
「節約家ですの。15年の癖を捨てるなんて、もったいないでしょう」
2日目の夕方、宿場町で馬車を停めた。
半年前、薄い麦粥を出したあの宿である。女将はわたくしたちを覚えていて、今夜の粥は濃く、塩味がしっかり利いていた。
「塩がね、安くなったんですよ。商隊も週に2組は来るようになって」
女将の世間話が、どんな報告書より雄弁に、半年の成果を語っていた。
夕食の席では、宿の女将がわたくしたちの素性に気づいて、ひと騒ぎあった。
「あんた——いや、あなた様、もしかして辺境の参謀様じゃ」
「ただの旅の者ですわ」
「嘘をおっしゃい。商隊の連中がみんな噂してますよ。『辺境の頭脳』が戦争を止めたって。塩の値を下げたのも、道を通したのも——」
「それは、辺境のみんなの仕事ですの。わたくしは帳面をつけただけ」
女将は信じない顔で、それでも「今夜の麦粥は大盛りです」とだけ言って、本当に大盛りにしてくれた。噂は誇張されて旅をする。されるものだ。せめて塩の値の話だけでも正確に伝わっていることを、よしとする。
夕食の後、中庭でディルクが向かいの席に座り、干し肉を噛んでいる。
「王都は、何年ぶりだ」
「半年ぶり、ですわね。最後にいたのは——断罪の日」
「嫌な思い出しかないな」
「そうですわね。でも——」
星の出始めた空を見上げる。宿場町の空は辺境ほど澄んでいないけれど、それでも、数え切れない光が瞬いている。
「あの日があったから、いまがある。断罪されなければ辺境には来ませんでしたし、辺境に来なければ——あなたにも、会いませんでしたもの」
言ってから、少し恥ずかしくなった。まるで感謝しているみたいに聞こえる。——いえ、実際、しているのだけれど。
ディルクは干し肉を飲み込み、水を一口飲んでから答えた。
「断罪した王子に、感謝するのか」
「感謝はいたしませんわ。結果としてここにいることを、受け入れている——それだけですの」
「そうか」
灰色の目が、一瞬だけ温かくなった。蝋燭の灯りのせいかもしれないけれど。
彼の鞍袋から、見慣れた木箱の角が覗いている。旅の荷を限界まで削る人が、チェス盤だけは置いてこなかったらしい。
「王都までの7日で、何局できると思う」
「夜に1局ずつとして、5局。残る2晩は、あなたが負けた局の検討に潰れますわ」
「先に勝敗まで予測するのか」
「予測ではなく、希望的観測ですの。参謀の職権で」
リーゼが宿の手配を済ませて戻ってくる。
「お部屋は2階の角です。それと——王都の貴族街の地図を入手しました。報告の場の議事堂までの経路、3案あります」
「リーゼ。あなたも休みなさいな。王都まで、まだ5日ありますのよ」
「はい。では経路は明日。——それと、王都の文具街の地図も入手済みです。記録庫の備品の買い付けに、半日いただきたく」
「あなた、王都で楽しみにしているのが、それですの」
「上質の帳簿用紙は、王都でしか手に入りませんので。……はい。楽しみです」
最後のひと言だけ、秘書ではなく、商家の娘の声だった。おやすみなさいませ、と一礼して、彼女は下がっていく。
彼女が下がったあと、ディルクとふたり、中庭に残された。
虫の声がする。秋が、近い。ヨハンの式の季節が。
「王都で、何を報告するつもりだ」
「事実を。戦争の経緯と、和平の中身と、自治の枠組み。感情は入れませんわ」
「入れたほうがいい場面も、ある」
「——あら。それは、あなたが教えてくださるの」
ディルクは答えなかった。代わりに、宿の窓から旅人たちの笑い声が漏れてきた。戦争の終わった祝いの声が、街道のあちこちで上がっている。
王都に近づくほど、不思議な感覚が育っていった。
あの玉座の間に、もう一度立つことになる。28歩を数えて出てきた、あの広間に。今度は罪状ではなく、報告書を持って。膝が笑うだろうか。笑わない気がする。あの日のわたくしと今日のわたくしの間には、峠と、帳簿と、墓標と、チェス盤が挟まっている。挟まっているものの厚みが、そのまま膝の強さになっている。
それでも、広間の蜜蝋の匂いを嗅いだら、少しだけ動悸はするのだろう。するに違いない。それは弱さではなく——記憶が正しく保管されている証拠として、受け取っておくことにする。
半年前、追われる罪人としてこの道を北へ運ばれた女が、いまは報告者として南へ向かう。同じ道で、逆向きの旅。これは王都への旅ではなくて——たぶん、あの日のわたくしを迎えに行く旅なのだ。
寝る前に、手帳の数字の頁に明日の行程を書き、名前の頁に1行だけ足した。
『宿の女将、麦粥を大盛りにしてくれた。半年前は薄かった粥』
書きながら、ふと思う。この手帳が一冊埋まる頃、辺境の粥はどこまで濃くなっているだろう。粥の濃度の推移表——帰ったらリーゼに相談してみよう。彼女なら、真顔で様式を作ってくれるはずだ。
粥の濃さで国勢を測る分析官など、前世の学会では鼻で笑われただろう。笑えばいい。粥の濃さは、わたくしの知る限り、もっとも嘘をつかない経済指標である。
ランプを消す前に窓の外を見ると、辺境の方角に星がひとつ、やけに明るく光っていた。寝る前に方角を確かめる癖は、当分抜けそうにない。




