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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第53話「辺境の夜明け」

戦争が終わった朝の空気は、特別な味がする。


 そんなことを前世の誰かが書いていた気がするけれど、実際に吸い込んでみると、いつもと同じ辺境の雨上がりの空気だった。少しだけ草の匂いが濃いような気もするが、それは雨季の終わりかけの、季節のせいかもしれない。


 城壁の上に立ち、東の空を眺める。地平線から光が滲み出して、濡れた荒野を薄い金色に変えていく。


 つい先日まで敵軍の旗が見えていた方角に、もう何もない。イグナーツの軍は完全に国境の向こうへ退き、エルスト砦の上にはこちらの旗。猟師の帳面には、今朝も『異常なし』。「なし」という記録が、こんなに豊かに響く朝は、なかった。


 わたくしの両腕に、鳥肌が立っていた。朝の冷気のせいだけでは、ない。


 終わったのだ。


 頭では、とうに分かっている。条約に署名がなされ、剣が卓に置かれた瞬間に。けれど身体が追いついていなかった。半年間張り詰めていた糸が、ゆるやかに——本当にゆるやかに、弛んでいく感覚。


 考えてみれば、この半年、朝をゆっくり眺めたことが一度もなかった。


 朝は報告の時間で、煙の記録の時間で、相場の確認の時間。空の色は「視界の良否」で、風は「狼煙の読みやすさ」で、雨は「敵の補給の損耗率」だった。世界のすべてを、戦争の変数として読む癖。その癖が今朝、行き場を失って、手持ち無沙汰に空を見上げている。


 変数ではない空は、ただ広くて、ただ綺麗だった。こんな単純な観測結果を、わたくしは半年ぶりに記録した。


 城壁の石はまだ夜の冷たさを残していて、掌を置くと、指の腹がひやりと締まる。遠くで雄鶏が鳴き、つられたように犬が吠え、それきり静かになった。戦時の朝は、音の順番まで疑って聞いていた。いまは、何でもない目覚ましの音である。


「眠れなかったのか」


 ディルクの声が背後から聞こえた。振り返ると、彼も城壁の階段を上がってくるところだった。外套を羽織っていない。黒い上着だけで、寒そうに見える。


「眠ろうとは、しましたわ。目を閉じると、補給路の地図が瞼の裏に浮かびますの。もう必要のない地図が」


「同じだ。陣形の配置が消えない」


「投了の済んだ盤面ほど、頭から消えにくいものはありませんわね。半年がかりの対局でしたもの」


 ディルクが隣に立つ。ふたりで、東の空を見る。


「前世で——」


 口をついて出そうになって、飲み込んだ。前世の話は、していない。する必要もないと思ってきた。


「前世で?」


「いえ。以前読んだ本に、戦争が終わった兵士は最初の3日間、自分が生きていることに気づかない——と書いてあったのを、思い出しましたの」


「気づかないのか。生きていることに」


「戦時は生存本能で動いていますから、危機が去ると、逆に実感が湧かなくなるのですって」


 ディルクが眼鏡を外し、レンズを息で曇らせてから拭いた。普段は見せない、手持ち無沙汰の仕草。


「俺は——気づいている。生きている。あなたも」


 短い言葉が、朝の空気に溶けた。


「ねえ、ディルク。あなたの10年に、こういう朝は何度ありまして?」


「……数えたことがない。たぶん、数えるほどしかなかったからだ。小競り合いの止んだ朝はあった。だが『終わった』朝は——これが、初めてかもしれん」


「では、記念に観測記録をつけましょう。気温、やや低し。風、北西より微風。視界、良好。敵影、なし。——特記事項」


「特記事項は」


「世界が、静かで綺麗ですわ。以上」


 ディルクが、ふ、と息だけで笑った。観測記録としては失格の主観だけれど、今朝に限っては、これが最も正確な記述だと思う。


 城下から、ざわめきが聞こえ始める。領民たちが起き出している。戦時は息を潜めるように暮らしていた人々。門の外を恐れていた女たち。畑を中断させられていた農夫たち。


 門番が城門を開ける。日常の音。きしむ蝶番、石を踏む足音、朝の挨拶。


「おはようございます」「今日は市場に行けるかね」「壁の修理、今日から始められるな」


 聞こえてくる言葉のひとつひとつが、平和の断片だった。


 井戸端では、女たちが洗い物を広げながら、声を潜めずに笑っている。声の大きさは、安心の単位だ。半年前の城下に、この音量はなかった。木桶の水音と笑い声が、朝の冷気に湯気のように立ちのぼっていく。


 避難していた北部の家族が、今週から村へ戻り始める。リーゼの帰還計画は、避難計画と同じ精度で組まれている。エルベンの井戸の水質の確認、フェルデンの教室の再開の日取り、ヘルガの薬草棚の運搬の手配まで。


 昼前に、北へ戻る第1陣が城門を出た。荷馬車が6台。ハンスの馬車が先頭で、荷台にはヘルガの薬草棚が、毛布で3重に巻かれて積まれている。


「割れ物より丁重ですわね」


「割れ物だよ、参謀さん。50年分の配合の覚えが、あの棚の並び順なんだ。1段ずれたら、あたしの頭ん中もずれちまう」


 ヘルガはそう言って、荷台の隣にどっかり座った。並び順が記憶の形をしている棚。リーゼが聞いたら、目を輝かせて様式化したがりそうな話である。


 見送りの列の中で、ピアが荷馬車を追いかけて、途中で立ち止まり、大きく手を振った。ポケットの上から、何かを握って。あの小石は、まだ役目を続けているらしい。お守りの任期は、戦争より長い。


 それから、もうひとつ。今朝いちばんにリーゼが処理した書類は、扶助規定の適用第1号だった。ギド・ハルトマンの妻への終身扶助と、息子の教室の席。規定の番号は、記録方の台帳の最初の頁に記された。この制度が2号、3号と増えないことを祈りながら、それでも初号だけは、誰よりも丁重に発行する。制度の弔い方とは、そういうものだ。


 それから——峠のヨハンから、リーゼ経由で届け物があった。固いパンが、1つ。


『マルタの店、今朝から竈に火が入りました。これは開店一番のやつです。固さは平常通りとのこと。式は予定通り、秋に挙げます。参謀様もぜひ』


 パンは、本当に固かった。固くて、温かかった。戦争を止めるという仕事の成果物を、手に持てる形で受け取ったのは、これが最初かもしれない。


 不意に、目の奥が熱くなった。


 わたくしは前世でも今世でも、泣くのが苦手だ。感情を分析して、名前をつけて、棚に並べる癖がある。いまこの目の奥にある熱の名前は——安堵だろうか。それとも、もっと単純な、何か。


「ベアトリーチェ」


 ディルクの声に振り返ると、小さな布が差し出されていた。白い、洗い込まれたハンカチーフ。軍師の装備品目録には、絶対に載っていない品。


「使え」


「泣いてなど、おりませんわ」


「目が赤い」


 受け取る。顔に押し当てたりはしない。手の中で、握りしめるだけ。綿の柔らかさが、指先に伝わってくる。


 ハンカチーフの隅に、小さな焼き焦げの痕がある。野営の焚き火の火の粉だろうか。洗っても消えない種類の歴史を、この布も1枚だけ持っている。持ち主に似て、自分からは語らない。語らないものを読む技術なら、この半年でずいぶん鍛えられた。


 城壁の下で、クラウスの大声が響いた。


「おーい! 今日は祝いだ! 酒蔵の鍵を開けい!」


「朝から飲む気ですか、辺境伯閣下」


 リーゼの呆れた声が追いかける。


「戦が終わったんだ! 飲まんでいつ飲む!」


「正式な祝賀の宴は3日後です。本日は『開栓の予行演習』として樽1つまで、と記録します」


「……予行演習か。うむ、予行は大事だな!」


 3日後の宴は、城下ごと巻き込む祭りになるだろう。リーゼの起案書には、市場の屋台の区割りから、子どもの迷子の対応係まで書き込まれている。戦の備えと同じ精度で、祭りの備えをする館である。たぶん、それでいいのだ。備える対象が祭りであることこそが、勝ち取ったもののすべてなのだから。


 厨房からは、もう試作の匂いが漏れ始めている。香草と、揚げた粉の匂い。廊下を通りかかったヴィム爺が鼻を鳴らして、「祭りの前に、教室を再開せにゃならん」と独り言のように言った。


「式典がお嫌いですの?」


「嫌いだ。だがな、参謀殿。子どもらに『戦争が終わった』を教える授業は、わしの教本のどの頁にもない。——だから早く、普通の授業がしたい。足し算と、字のけいこをな。普通ってのが、終わったことの、いちばん確かな証明だ」


 老兵の教育論は、今日も教本より正しい。再開初日の時間割は、もう廊下の壁に貼り出されている。


 帳簿の上で大人を転がす秘書と、転がされて上機嫌な辺境伯。この館の平和は、初日からこの調子である。わたくしの口元が、勝手に緩んだ。


「——ディルク」


「何だ」


「平和って、こういう匂いがするのですね」


 朝露と、濡れた土と、どこかで焼いているパンの香り。城下の竈に、次々と火が入っていく。


 ディルクは答えなかった。けれど彼もまた、深く息を吸い込んでいるのが分かった。


 城壁を降りる前に、もう一度だけ、北の方角を見る。


 グルント峠。エルスト砦。ギドの墓標のある岩山。霧の夜と、松明の列と、湯気の立つ壁。この平和な朝の値段を、わたくしは1枚ずつ数えられる。数えられることが、参謀の職業病で——たぶん、職業倫理でもある。


 忘れずに数え続ける限り、この朝は安くならない。安くならない限り、誰も簡単には手放さない。平和の維持とは、つまるところ、値段を忘れない作業のことなのだと思う。


 辺境の夜が、明ける。長い、長い夜が。


 手の中には、固いパンと白いハンカチーフ。どちらも返さなければいけないけれど——もう少しだけ、このまま。

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