第55話「チェスの告白」
王都での報告を終えて、辺境に戻って3日目の夜。
作戦室で、チェスを指している。
王都の報告は、つつがなく済んだ。貴族院は和平の成果に拍手し、自治の枠組みに渋い顔をし、それでも署名済みの条約の前では渋い顔のまま頷くしかなかった。フリードリヒは約束通り、仲裁の手柄を綺麗に持ち帰り——わたくしたちは、綺麗に忘れられて辺境へ戻った。忘れられるのは、悪くない。忘れられている間に、土地は育つ。
そして、いつもの夜と、いつもの盤である。
これはふたりの習慣になっていた。議論の尽きた夜、蝋燭の下で盤を挟む。最初は純粋な頭脳の対決だった。互角の相手を見つけた、潤いのない喜びで。
いまは——何だろう。「隣に立つ人」と言い合ったあの夕方から、わたくしたちは何も名前を決めないまま、この盤を挟み続けている。習慣と呼ぶには、少し心臓が騒がしい。
対局の前には、決まった手順がある。わたくしが白の駒を並べ、ディルクが黒を並べる。盤の向きを揃え、蝋燭を1本、盤の右に立てる。左だと駒の影が長く伸びて、彼の見えにくい目には盤面が読みづらいのだ——と、これは半年かけて観察で突き止めた。本人は「気分の問題だ」と言い張っているけれど。
今夜も、その手順で始まった。違っていたのは、最初の1手までの沈黙が、いつもより3呼吸ぶん長かったこと。
今夜の対局は、序盤から妙だった。
ディルクの黒が、慎重なのだ。普段なら駒の損得に厳しいあの指し方が、今夜はやけに丁寧で、まるで盤の上の時間を引き延ばそうとしているような——分析しかけて、やめた。対局相手の心理分析は不利益が大きいと、当人に言われている。
わたくしの白のビショップが、黒のナイトを取った。
「独学で学んだ定跡では、ここからクイーンサイドに展開するのが最善手ですわ」
「俺もそう読んでいる。だから、あえて逆を突く」
ディルクの指が、黒のルークを動かす。長い指が駒に触れ、盤の上を滑る。剣を握るには細すぎて、ペンと駒を扱うのにちょうどいい手。
窓の外は、秋の入りの夜。虫の声が途切れ、風が窓枠を鳴らしている。蝋の溶ける甘い匂い。この匂いを嗅ぐと、いまでも一瞬だけ、玉座の間を思い出す。思い出して、すぐに上書きされる。蜜蝋の匂いの記憶は、もう、断罪の広間のものではなく——この盤の脇の、何十夜分の蝋燭のものになった。記憶の上書きにかかった夜の数を、わたくしはたぶん、一生数え直さない。
ルークの狙いを読み、受けの手を考える。3手先までは見えている。けれど4手目が読めない。この人はいつも、わたくしの計算の一歩外側に手を置いてくる。
「ベアトリーチェ」
駒を動かしかけた手が、止まった。
声が、いつもと違う。分析するより先に、身体が反応していた。心拍数、上昇。原因の仮説——今夜は、検証してもいい気がする。
「何かしら」
「ひとつ、聞いてもいいか」
盤の上では、白と黒が向かい合っている。中盤の膠着。どちらも攻め切れず、守り切れない均衡。
「あなたは——いつまで、ここにいる」
質問の意味を、一瞬、測りかねた。辺境に、という意味か。この砦に、という意味か。それとも——
測りかねたまま、頭の冷たい部分が状況を整理し始める。辺境は自治を得た。和平は成った。つまり「断罪された令嬢の避難先」としての辺境の役割は、論理的には終わっている。王都に戻る道も、よその宮廷に招かれる道も、いまのわたくしには開いている。開いてしまっている。——この人は、その開いた扉の数を、わたくしより正確に数えていたのだ。軍師だから。退路の専門家だから。
扉は、開いているだけでは風を通すだけだ。くぐるかどうかを決めるのは、扉ではない。分かっていて、わたくしはこの半年、どの扉の前でも立ち止まらなかった。立ち止まる理由が、この部屋にあったからだ。理由の名前を、いまから聞かされるのだと思う。
「辺境は自治を勝ち取りましたわ。わたくしの役目は——」
「役目の話をしていない」
灰色の目が、まっすぐにこちらを見ている。蝋燭の灯りがレンズに映って、表情を読みにくい。いつもなら、その反射まで計算に入れるのに。いまは、頭が働かない。
「俺は——」
ディルクが言葉を切った。盤に視線を落とし、黒のキングに指先で触れる。触れるだけで、動かさない。
「あなたの隣で、チェスを指し続けたい。——役目が終わっても。盤の上の戦争が、全部終わっても。ずっとだ」
心臓が、跳ねた。比喩ではなく、物理的に。
その言葉の意味を、分析しようとする自分がいる。「チェスを指し続けたい」は「知的な関係の維持」の婉曲か、それとも——だめだ。分析癖が出ている。いまは計算を止めなければ。止め方を、わたくしはまだ習得していないのだけれど。
「それは——」
口が、勝手に動いていた。
「戦略的提案、ですの?」
なぜそんなことを聞くのか、自分でも分からない。癖だ。感情を戦略の言葉に翻訳してしまう、年季の入った悪い癖。
ディルクが、ゆっくりと首を横に振った。
「個人的な、提案だ」
その6文字で、盤上の均衡が崩れた。
指先が冷たい。白のクイーンを握ったまま、動けない。駒の角が、掌に食い込んでいる。
個人的な提案。
前世のわたくしは、恋愛をほとんど知らずに終わった。研究と分析と論文の日々。誰かの「個人的な提案」の受け方を、教科書は教えてくれなかった。今世でも、断罪以来、計算と戦略の中で生きてきた。その帳面のどこにも、この提案の処理手順は書いていない。
「……わたくしは」
声が震えている。みっともない。元防衛省研究員が、元悪役令嬢が、チェスの相手のひと言で声を震わせるなんて。
「わたくしは、人を駒として見る人間ですわ。それは、あなたがいちばんよくご存じでしょう」
「知っている」
「治りかけては、ぶり返す。霧の夜も、北壁の5人も。そんな人間の隣に——」
「だから、いたい」
遮り方に、迷いがなかった。
「言っただろう。あなたの値づけで、信用していないのは1点だけだと。あなたは自分という駒を、いつも捨て値で盤に置く。——その癖の見張り番を、生涯の役職として希望する。これでも、王国軍事顧問より割のいい職だと思っている」
「……お給金は、お出しできませんわよ」
「『働きに応じて後から』でいい。誰かさんの雇用契約の、前例がある」
最初の夜の、あの条件。回廊で交わした雇用契約が、半年かけて、まるで違う契約の前文になって戻ってきた。
ディルクが立ち上がる。盤を挟んだまま、彼の手が伸びて——わたくしの手に、ではなく、盤上の黒のキングを動かした。
わたくしの白のクイーンの、真横に。
チェスでは、あり得ない悪手だ。キングを自分からクイーンの射程に入れるなど。
「俺も、人を駒として動かして生きてきた。これからも動かす。あなたも動かす。——その同じ手で、盤を降りた後に名前を思い出す往復を、俺たちはもう何度も一緒にやってきた。帰り道を覚えていてくれる人間が隣に要ると、いつか言ったな。あれは、一般論じゃなかった」
蝋燭がちりちりと音を立てる。蝋が尽きかけて、影がふたりの間で揺れた。
わたくしは、白のクイーンを動かした。黒のキングの横に。並べる。取らずに。
「……これは、チェスとしては成立しませんわね」
「チェスはもう終わりだ。盤の外の話をしている」
灰色の目が、蝋燭の灯りを受けて、銀に近い色に見える。
答えを言葉にする方法が、分からなかった。計算でもなく、戦略でもなく、均衡理論でもなく——この人の隣にいたいという、理屈のつかない、検証済みの事実だけがある。
「提案を——受理しますわ」
受理。なんという事務的な言い方。自分で、笑ってしまった。
言い直す機会は、たぶん今夜を逃すと当分ない。でも、言い直さなかった。事務的な言葉の奥行きを、この人はわたくしの誰より正確に測れる人だから。
ディルクも笑った。静かに、口元だけで。けれど目が、確かに笑っている。15年分の独学と、10年分の名前と、半年分のわたくしを乗せて。
窓の外で、止んでいた虫の声が、また鳴き始めた。世界の音が戻ってくる。心臓はまだ騒がしいのに、頭の芯は不思議なほど静かだった。検証は終わり、結論は出た。再現性の確認は——これから一生かけて、すればいい。
蝋燭が1本、燃え尽きた。残る1本の灯りが、盤とふたりの影を照らしている。
隣り合う、白のクイーンと黒のキング。盤の上では、決してあり得ない配置。
でも——盤の外でなら、並んでいい。今夜から、ずっと。
立ち上がる前に、ディルクが盤に手を伸ばしかけて、止めた。
「……片付けるか」
「いいえ。このままに」
並んだ2枚を、崩したくなかった。明日の朝の誰かが見たら、下手な詰みの放置だと笑うだろう。笑わせておけばいい。この盤面の意味は、指した2人だけが知っている。
なお、翌朝。
朝食の席に現れたクラウスは、わたくしたちの顔を3秒ずつ見比べて、何も訊かずに厨房へ向かって叫んだ。
「樽だ! いちばんいい樽を、夜まで冷やしとけ!」
「クラウス、何のお話ですの」
「何の話か当ててみい。お嬢の頭脳なら、3秒で解ける問題だわい」
解けた。解けたけれど、答案の提出は差し控える。リーゼが議事録の端に『本日、慶事につき樽1(特級)』と書き込むのが見えて、この館に隠しごとというものは存在しないのだと、改めて思い知った朝だった。




