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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第47話「援軍の旗」

雨の合間の街道の先に、旗が見えた。


 最初は見間違いかと思った。雨上がりの靄が、遠くの景色を滲ませる。けれど旗は揺れ続け、やがてその下に、長い隊列が現れた。


「——来た」


 ディルクの声が、静かに響いた。


 城壁の上から見下ろす。先頭に、灰青の旗。タール辺境伯家の紋章。その隣に、秤と帆を描いた商旗——フレーデン自由都市の傭兵団旗が翻っている。


 タールの兵が800。フレーデンの傭兵が500。合わせて1300。大国の軍勢に比べれば小さい。けれどこの1300には、数字の何倍もの意味がある。


「半年分の書簡の、成果ですわね」


 城壁の石の手すりに手を置く。雨に洗われた石が、掌にひんやりと冷たい。


 この同盟網のために、どれだけの夜にインクで指を黒くしたか。各家の利害を分析し、共通の脅威を示し、組むことの利得を数字に訳す。断られ、出直し、噂に毒され、もう一度出直して。フレーデンの評議会がようやく頷いたのは、つい先日のことだ。——ただで頷いたわけではない。向こう5年の通行税の優遇と、傭兵団の雇用契約。商人の街は、戦時にもきっちり値札をつけてきた。値札のついた同盟は、けれど、値札の分だけ長持ちする。


 ちなみに今朝、クラウスとディルクは旗の色を賭けていた。クラウスは「オットーは来る。だが兵は500まで」、ディルクは「800。あの爺さんは出すなら勝ち馬に見える数を出す」。掛け金は樽1つ。結果はディルクの勝ちで、クラウスは「お前は人の財布まで読むのか」と唸っていた。読むのである、この軍師は。


 城門が開く。タール兵の先頭で、見覚えのある髭の老人が馬を降りた。


 オットー翁——タール辺境伯、その人である。兵だけ寄越せば済むものを、本人が来た。鞍の後ろに、酒樽を2つ積んで。


「クラウス! 樽は約束通り持ってきたぞ。戦が終わっとらんのが誤算だがな!」


「おう、オットー! なら戦を先に終わらせにゃならんのう!」


 城門の下で、老人ふたりが肩を叩き合う。30年、ヴァルハイムと王都の両方に頭を下げて生き延びてきた日和見の翁が、いま、旗を掲げてこちら側に立っている。風向きの計器が、こちらを指したということだ。


 リーゼが宿営の割り振り表を持って駆け寄ってきた。


「お嬢様。タール軍の宿営はこちら、フレーデン傭兵団はこちらに。間に、空き区画をひとつ設けています」


「あら。なぜ空き区画を?」


「正規兵と傭兵は、酒場で必ず揉めます。『金で戦う奴ら』と『殿様の犬』の言い合いは、商家の前の通りで何度も見ました。離して、酒の配給も時間をずらします」


 思わず、目を見開いた。そこまで。


「リーゼ、あなたは本当に——」


「秘書ですから」


 彼女はそれだけ言って、次の書類に取りかかっている。商家の前の通りで見た喧嘩の記憶が、10年越しに同盟軍の宿営図に化ける。経験の在庫管理にかけて、この人の右に出る者はいない。


 なお王都からも報せがひとつ。第3師団の「演習」が国境寄りに延長され、あわせて王家からヴァルハイム王宮へ、2度目の働きかけ——撤退命令の再発出を促す書簡が出たという。フリードリヒは、仲裁者の椅子の座り方を心得ている。


 夕刻、オットー翁と短く言葉を交わす機会があった。老人は、あの白紙の3枚目の話を自分から持ち出した。


「14項目、書いて出した。11項目に、あんたは3日で回答を寄越した。残る3項目には『分かりません。一緒に考えさせてくださいまし』と書いてあった。——あれで決めたんだ、わしは」


「白紙の懸念に、ですの?」


「『分からん』と書ける参謀に、だ。全部に答えを持っとる奴は、答えのない日に嘘をつく。30年、両側に頭を下げて生き延びてきた儂の、人の見方だよ」


 日和見の翁の計器は、風向きだけでなく、人の正直さも測っていたらしい。30年ものの計器に合格点をいただけたことは、素直に胸に仕舞っておく。


 フレーデンの傭兵団を率いてきたのは、なんとあの武具商のロートだった。『王都の犬』と野次った男は、いまや「いやあ、あの節は商売の読み違いで」と揉み手で笑う。商人は冷たいのではなく正確で、そして正確さには、こういう厚顔も含まれている。含まれていてくれて、今日は助かるのだけれど。


 ディルクが城壁を降りてきて、隣に立った。


「1300で、戦局は変わらないと思うか」


「兵力では、変わりませんわ。でも——意味が、変わりますの」


 遠くの旗を見つめる。灰青と商旗、シュタイン伯ら8家の旗、グラオヴァルトの緑。雨上がりの光を弾いて、色がそれぞれに鮮やかだ。


「イグナーツは、辺境を孤立した獲物だと見ていました。それがいま、城壁に旗が並んでいる。さらに南には、王都第3師団が『演習中』。——孤立しているのは、もはや、あちらのほうですわ」


「兵糧は尽きかけ、橋は呪われ、後ろの王宮は冷たく、前の獲物には旗が並ぶ。……俺が奴の参謀なら、今夜のうちに撤退具申を書く」


「ええ。そして退路の口は、開けてありますの。あとは、あの将軍の足が動くのを待つだけ」


 ディルクの灰色の目が、少しだけ柔らかくなった。


「外交で戦局を動かす。あなたの戦い方は、俺とは違う」


「違うから、組む意味があるのでしょう?」


 彼は答えなかった。けれどその沈黙は、否定ではなかった。


 城壁に、新しい旗が次々と掲げられていく。


 風が変わり始めている。雨に湿った土の匂いに、遠くの草の青い香りが混じる。季節の替わり目と、戦局の替わり目が、同じ風の中にあった。


 夜、城は半年ぶりの宴になった。


 クラウスとオットーの樽が開く。タールの兵とフレーデンの傭兵はリーゼの設計通りに別の中庭で別の樽を囲み、それでも歌だけは壁を越えて混ざり合う。ヴィム爺が教室の子どもたちの書いた「かんげいのことば」の紙を旗竿に貼り、ロートが「これは売れる字だ」と妙な褒め方をしていた。


 わたくしは宴の輪の少し外で、杯を持ったまま、その全部を眺めている。


「輪に入らないのか」


 いつの間にか、ディルクが隣にいた。彼も輪の外の人である。


「ここからのほうが、よく見えますもの。……半年前のこの城に、この光景を予測する材料は、ひとつもありませんでしたわ」


「ああ。予測の外の結果だ。——あなたの言う『人を信じる投資』の、配当だな」


「投資理論として論文にしたいところですけれど、再現性の証明が困難ですわね。標本数1ですもの」


「増やせばいい。これから」


 標本数を増やす、という言い方の中身を問い質すのは、やめておいた。問い質さなくても、この人の「これから」には、いつも具体的な工程表がある。


 宴の人波の向こうから、ルイーゼがこちらに杯を掲げた。和平の下準備で3度目の辺境入りをした彼女は、今夜は外交官の顔を半分だけ脱いでいる。半年前の中庭の朝、この景色を予想する材料は、お互いにひとつも持っていなかった。予想できないものを一緒に作ることを、たぶん、人は同盟と呼ぶのだ。


 ——これが、孤立しないということ。


 前世のわたくしは、ひとりで机に向かい、ひとりで論文を書いていた。協力の理論を研究しながら、自分自身は、誰とも協力せずに。会議室で資料を閉じられて、改札で友人を見送って——それでも、ひとりの机がいちばん効率的だと信じていた。


 効率は、たぶん本当に、ひとりの机のほうが良かったのだ。書簡を14往復して、噂に商談を壊されて、樽の数で信用を測るような半年は、論文1本分の時間で言えば大赤字である。けれど効率の物差しでは測れないものが、いまこの城壁の下で、別々の旗の歌を歌っている。物差しのほうを、買い替える時期だったのだ。とっくに。新しい物差しの目盛りは、樽と、旗と、名前の数で刻まれている。


 いまは違う。この城壁の旗は、どれひとつ、わたくしが「動かした」駒ではない。それぞれの利害と、それぞれの意志で、ここへ来てくれた人たちだ。


 城門の下では、クラウスとオットーが早くも樽の栓の話をしている。豪快な笑い声が、城壁まで届いた。


「ひとつ、付け加えておきますわ。この旗は、抑止のためだけではありませんの」


「ほう」


「和平が成った後の、絵の下書きですわ。タールと、フレーデンと、ヴァイスと、レーヴェと、グラオヴァルト。この旗の並びが、そのまま戦後の交易圏の地図になる。戦の終わり方を設計するときは、終わった翌朝の市場まで設計しておくものですの」


「戦が終わる前から、戦後を売っているのか」


「商人達はもう買い始めていますわ。ロートの目をご覧になって。あの目は傭兵の親方の目ではなく、新しい市場を検分する卸商の目ですもの」


「イグナーツに、この旗が見えているとよろしいのですけれど」


「見えている。偵察がこちらを監視しているのは確認済みだ。——今夜の報告で、奴の机に旗の数が並ぶ」


「では、彼の次の一手が楽しみですわね」


 宴の終わり際、ヴィム爺の貼った「かんげいのことば」の紙の前で、オットー翁が長いこと足を止めていた。


「タールにも、教室というのを作れるか」


「作れますわ。教本の写しと、教師の選定基準と、費用の試算——3点セットで、明日お渡しできますの」


「……商売が早いのう」


「教育は商売ではありませんけれど、商売より速く動かすべきものですわ。子どもは、待ってくれませんもの」


 翁は紙の不揃いな文字をもう一度眺めて、「樽がまた1つ増えたな」と言った。この同盟の帳簿は、本当に樽で記帳されていくらしい。通貨としての樽の強みは、決済のたびに宴が立つことである。


 補給を断たれ、孤立を突きつけられ、王命に背を向けた将軍が、何を選ぶか。わたくしの計算では、まず焦りが来る。


 焦りの後に来るのは——過ちか、投了か。


 退路の口は、開けてある。面子の出口も、用意してある。あとは、あの男が盤を蹴る前に、駒を仕舞う作法を思い出してくれることを——少しだけ、祈っておく。祈りは専門外だけれど、保険はいつだって多いほうがいい。

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