第48話「敵から交渉相手へ」
イグナーツが動いたのは、援軍の旗が城壁に並んで4日目の朝だった。
——東へ。すなわち、帰る方向へ。
2度目の王命と、底をついた兵糧と、直らない橋と、増えた旗。全部を足した答えを、将軍はようやく認めたのだ。敵の縦隊は、わたくしたちが開けておいた退路——上流の浅瀬を、雨の合間に渡っていった。追撃は、しない。最初から、しないと決めてある。
名目は『雨季に伴う戦略的転進』。こちらが用意して、ルイーゼ経由でそっと差し入れた言葉が、ヴァルハイムの公式発表にそのまま使われていた。面子の出口から、敵は退場していった。
イグナーツ本人は、王都へ召喚されたという。罷免でも栄転でもない、「軍制の検討委員」という宙吊りの椅子。野心の採算が合わなくなった男の、これがいちばんありそうな終着点だった。彼を裁いたのは剣でも法でもなく、帳簿である。ギドの墓標に報告できる種類の決着かどうかは、まだ分からない。分からないまま、報告には行くつもりだ。
墓標への報告は、3日後に行った。岩山の風は、もう冷たくなり始めていた。報告は短い。敵将は剣を抜く機会のないまま退き、彼の野心は王都の委員室に仕舞われた。剣で取られた命の落とし前を、帳簿で取った。足りているとは思わない。けれど、これ以上誰の命も足さずに済んだ。その1点だけは、胸を張って報告できた。
撤退の朝のことは、峠のヨハンからの報告がいちばん雄弁だった。
『敵縦隊、峠の正面を素通り。こちらを見上げる兵が多数。手を振る者あり(敵)。振り返す者あり(うちの若いの)。叱るべきか分からず、報告します』
叱らないでいい、と返事を書いた。手を振って帰れる戦争の終わり方など、滅多にあるものではない。あの縦隊の中の誰かの故郷でも、固いパンが投げられていればいい。
空になったエルスト砦には、オーベル大尉の部隊が戻った。井戸の蓋を開け、貯蔵庫に新しい備蓄を入れ、ヘルム砦の紋章の石の上に、もう一度旗を立てる。2ヶ月かからなかった。クラウスの目は、まだ十分に黒い。
砦の再開と同時に、峠の検問は平時の手順に戻った。通行人の記録は続ける。ただし、書く欄が変わった。「武装の有無」の欄が消えて、「荷の品目」の欄が広がった。台帳の様式の変化は、リーゼに言わせれば「時代の変わり目の、いちばん正確な目撃証言」だそうだ。
そして、その報せと入れ替わるように——王都から、あの人が再び来た。
フリードリヒ・ド・ケーニヒは、相変わらず美しい男だった。
金髪に碧眼、王族の血が作り上げた完璧な造形。けれど今日の彼の目には、断罪の広間にあった冷たい算盤の色がない。代わりにあるのは——警戒と、それを自分で乗り越えようとする意志。
客間で、向かい合う。卓の上には紅茶と、白紙の羊皮紙。
「率直に言おう、ベアトリーチェ」
彼がこの距離で、この温度で、わたくしの名を呼ぶのは初めてだった。断罪の日の「ベアトリーチェ!」は、罪状の読み上げの一部にすぎなかったから。呼び方の温度は、それ自体が外交文書である。
「お前の頭脳は、脅威だ。社交界から追い出したとき、正直なところ、安堵した」
「存じておりますわ」
「だが——」
フリードリヒが紅茶の杯を置いた。陶器が卓に触れる、微かな音。
「敵にするより、味方にしたい。いまは、そう思っている」
その言葉が、胸の奥で小さく反響した。
わたくしを盤の外へ弾いた人が、わたくしを盤に呼び戻している。前世のわたくしなら、この状況を「交渉上の優位」として、冷えた手つきで使い切っただろう。いまのわたくしは——優位は使う。ただし、冷えた手つきでは使わない。それだけの違いを、この半年で覚えた。
「殿下がそうおっしゃるのは、北の問題が解決しなければ王位の足場が揺らぐから。——違いまして?」
「否定はしない。だが、それだけでもない」
フリードリヒが窓の外へ目を向けた。雨上がりの辺境。整備の進んだ道を、交易の荷馬車が走っていく。
「視察で理解した。この地は、放置すれば王国の弱点になり、育てれば盾になる。お前のやったことは——」
少し間を置いて、彼は続けた。
「正しかった。少なくとも、結果として」
認めたくなかった、という声音が滲んでいる。王族の矜持と現実認識の間で、彼なりに折り合いをつけた言葉なのだろう。摘んだ芽が、よその畑で実った——あの皮肉を、この人は呑み込んだのだ。
紅茶を一口含む。苦みの奥に、かすかな花の香り。リーゼがこの会談のために選んだ茶葉だろう。緊張を緩める配合だと、いつかの帳面に書いてあった。
「和平交渉を前に、わたくしが王家に求めるものは、3つですわ」
白紙の羊皮紙に、ペンを走らせる。
「1、辺境の自治権の正式な承認。2、辺境と王都を結ぶ交易路の整備費用の、王家による半額負担。3——官吏と軍の登用における、身分制限の撤廃」
フリードリヒの眉が、3つ目で動いた。
「身分制限の撤廃は、王都の貴族たちが黙っていないぞ」
「まずは辺境限定の特例で構いませんの。実績は、こちらで作りますわ。ディルク・ヴォルフのような人材が出自だけで弾かれない仕組みは、辺境だけでなく、王国全体の利益になりますもの。——人材を出自で捨てる国と、拾う国が戦争をしたら、長期では必ず拾う国が勝ちますのよ。殿下なら、この算術はお分かりのはず」
ディルクの名を出した瞬間、フリードリヒの表情に複雑なものが走った。平民出身の軍師。学院を統制した王子が、最も警戒してきた種類の存在。
「……お前は、あの軍師のためにそれを言っているのか」
「彼のためだけでは、ありませんわ。けれど、彼がいなければわたくしはこの椅子に座っておりません。それは、単なる事実ですの」
沈黙が落ちる。窓から入る風が、羊皮紙の端をかすかに揺らした。
やがて、フリードリヒが口を開いた。
「対価は、何を出せばいい」
取引の言葉を、対等の順序で使っている。断罪の日のこの人からは、想像もつかない順序で。
「和平交渉の席で、王家が『仲裁者』の椅子にお座りになることですわ。辺境とヴァルハイムの和平を、王太子殿下が取りまとめた——その形でお持ち帰りくださいまし。王都での殿下の声望は、軍を1個も動かさずに上がりますわ」
「……手柄を、寄越すというのか」
「手柄は、いちばん高く買ってくださる方に売るのが商いの基本だと、わたくしの秘書が申しますの」
フリードリヒは一瞬黙り、それから値踏みの目でわたくしを見た。値踏みの結果は、すぐに出た。
「1と2は、即答できる。王家にも利益がある。3は——交渉が要る。だが、反対はしない」
「それで十分ですわ。『王太子は反対しなかった』という事実が、いずれ貴族たちへの圧力になりますもの」
「……交渉の場でお前と同じ卓に着く貴族たちに、いまから同情する」
「あら。お優しくなられましたのね」
「学習した、と言え」
言い直しの速さに、思わず口元が緩んだ。この応酬の速度は、嫌いではない。あの断罪の広間で、この人との会話に速度などなかった。あったのは、読み上げられる罪状の遅さだけだ。
「計算ずくだな」
「計算はいたしますわ。けれど打算ではありませんの。この3つは、戦のあとにこの地域が立ち続けるための、最低限の設計図ですわ」
フリードリヒが、わたくしの目を見た。碧い瞳の奥で、何かが動いている。
「断罪の日。お前は、笑っていた」
唐突な言葉だった。
「あれは——何だったんだ」
ああ。あの日のこと。『全て計算通りですわ』と、嘘をついた瞬間のこと。
「笑うしか、なかっただけですわ。計算など、何ひとつしておりませんでしたの。——ただ、あの嘘をついた瞬間から、嘘を本物にする仕事が始まりましたのよ。半年かけて、ようやく『計算通り』が嘘でなくなりつつあるところですわ」
フリードリヒが一瞬目を見開き、それからゆっくりと、苦笑に似た表情を浮かべた。
「そうか。あの笑みに、私はあれから怯え続けていたのだがな」
「もう怯える必要はありませんわ。いまのわたくしは——本当に、計算しておりますもの」
冗談めかして言うと、フリードリヒは短く笑った。断罪の広間では決して見せなかった種類の、年相応の笑い方で。
会談の終わり際、フリードリヒはふと、窓の外へ目をやった。中庭で、教室帰りの子どもたちが衛兵に手を振っている。避難解除で戻ってきた、北部の子たちだ。
「……あの子らは、字が読めるのか」
「読めますわ。自分の名前と、税の通知と、地図の読み方を。最後のは、卒業の頁ですけれど」
「私が学院を統制したのは、知が王権に向くのを恐れたからだ。お前は知を領民にばら撒いて、結果として領が固まった。……どちらが正しかったのか、いずれ歴史が決めるのだろうな」
「歴史を待つ必要はありませんわ。10年後の徴税の記録と、20年後の戸籍が決めますの。数字は、王宮の歴史家より早くて正直ですもの」
フリードリヒは、何も言わずに小さく首を振った。否定の仕草ではなかった。
卓の白紙だった羊皮紙に、3つの条件と、ふたり分の署名が並ぶ。正式な条約ではない。けれどこれは——敵が、交渉相手に変わった証文だ。
「和平交渉の席で、お前の力を借りたい。——頼めるか」
王子が頭を下げることはない。けれど「頼めるか」は、命令ではなく依頼の言葉だった。あの日に駒を弾いた手が、いまは盤の同じ側から差し出されている。
「喜んで。会議室の戦場は、わたくしの本職ですもの」
見送りの馬車が出たあと、ディルクが廊下の角から現れた。聞いていたらしい。
「身分制限の撤廃。……あれは、いつから温めていた」
「あなたの名前が、名簿のどこにも載っていないと知った日から、ですわ」
冗談の調子で言ったのに、半分は本当だった。半分が本当の冗談がいちばんよく届くことを、わたくしはクラウスから学んでいる。
紅茶は冷めていた。けれど胸の奥は、不思議と温かかった。




