第46話「補給を断つ」
イグナーツは、王命に従わなかった。
正確には——従わない、とは言っていない。『雨季により通信が不安定。命令の真偽を確認中』。撤退命令への返答が、それだった。確認中という名の、居座りである。
「読み通りの粘り方ですわね。命令を拒めば反逆、従えば失脚。だから第3の道——『届いていないふり』を選んだ」
返答の文面そのものも、興味深い資料だった。ルイーゼが写しを送ってくれたのだ。
『雨季により通信が不安定。命令の真偽を確認中。なお当方の戦況は良好にして、前進の好機が近い』
「最後の1文をご覧になって。『前進の好機が近い』——これは王宮向けの強がりですけれど、強がりの種類が変わっていますの。先月までの彼なら『前進する』と書いたはず。『好機が近い』は、まだ前進していない言い訳の文型ですわ」
「強がりの文法から、内実を読むか」
「ええ。それから『戦況は良好にして』の『にして』。この男の過去の報告書に、こんな文語の飾りはありませんでしたわ。飾りは、嘘の梱包材。——イグナーツの机の上では、もう、報告に飾りが要る状況になっているということですの」
クラウスが髭を撫でながら唸った。
「文の尻尾から台所の中身まで読むか。お嬢の前では、手紙も書けんのう」
「あら。あなたの手紙はいつも3行ですもの、読む場所がありませんわ」
「それは褒めとるのか」
「最高の防諜だと申し上げておりますの」
部屋に、短い笑いが落ちる。決戦前夜の作戦室には、この30秒の笑いが要る。半年かけて、わたくしはそれも覚えた。笑いの配給係は、たいていクラウスだ。本人に自覚があるのかは、半年観察してもまだ判定できていない。判定できないままでいい種類の謎も、世の中にはある。
作戦室の地図の前で、わたくしは赤い駒の群れを見下ろした。空の砦に居座る1000。その後方で、雨に濡れながら細々と続く、最後の補給。
「橋の修理は、進んでいる」
ディルクが偵察の報告を卓に置いた。
「敵の工兵が雨の合間に支柱を継いでいる。あと4日で、荷駄が渡れる強度に戻る。橋が戻れば、備蓄の時計は巻き直される。イグナーツの『確認中』は、その4日を稼ぐための言葉だ」
「つまり、ここが最後の分岐ですわ」
3日前に放った密使の報告が、今朝ようやく届いていた。蝋で封じた羊皮紙を開くと、インクの匂いがまだ新しい。ヴェルナーたちが残してきた観測網からの、橋と隘路の詳細図。
わたくしは地図と照合しながら、赤い駒を3つ動かした。
「どれほど強大な軍でも、食糧の流れが止まれば3週間で機能を失いますわ。前世——もとい、古い戦史のどの頁にも書いてあること。あとはその『止め方』ですけれど」
「橋を、今度こそ落とすか」
「いいえ。落としません。——もう一度、使えなくするだけ」
地図の一点を、指で叩く。
「敵の工兵が4日かけて継いだ支柱を、完成の前夜に、また削りますの。表からは見えない場所を。敵は完成したと思って荷駄を載せ——載せた荷駄ごと、修理が振り出しに戻る」
「……えげつないな」
「えげつないのは承知の上ですわ。けれど、落とした橋は『壊された』で終わりますの。直しても直しても渡れない橋は——『この補給線は呪われている』に化けますわ。兵の口から口へ。士気を削るのは、損害ではなく徒労ですもの」
ディルクの唇が、わずかに弧を描いた。彼が笑うのは珍しい。
「修理すべきか、架け替えるべきか、放棄すべきか。敵の軍議は、また割れる」
「割れている間に、最後のひと押しを。——東の山道の人力輸送、あれも止めますわ。例の、落ちかけの岩で」
「ブルーノの見当の岩か。手札を、全部切る日だな」
「ええ。ただし、岩を落とすのは輸送隊が通っていない時刻に。塞ぐのは道で、命ではありませんもの」
クラウスが腕を組み、唸り声を上げた。
「お嬢の策はいつも地味だが、じわじわ効いてくるのう」
「派手な勝利より、確実な兵糧攻めを。それが兵站戦の作法ですわ」
「ただな、お嬢。ひとつだけ言っておく」
クラウスの声が、珍しく低くなった。
「橋と山道を締めれば、敵の前線は飢える。飢えた兵というのはな——最後には、命令を聞かんようになる。略奪に散るぞ。若い頃、わしはそれを見た。焼かれる側でな」
歴戦の重みのある指摘だった。ディルクの故郷を焼いたのも、たぶん、ああいう散り方をした兵だ。だからこちらも、用意した答えで返す。
「ですから、締め切る前に『開いている退路』と『撤退の名目』を、先に届けてありますの。飢えの限界が来る前に、帰る道と帰る理由が揃っている状態を作る。順序が、すべてですわ。——それでも散る兵が出た場合に備えて、第2防衛線の村側に騎馬の遊軍を1隊。配置はディルクと詰めます」
「……順序、か。分かった。それなら、やれ」
クラウスは髭の奥で、何かを呑み込むように頷いた。若い日の彼の村に、この順序を知る参謀はいなかったのだろう。その不在の重さごと、頷きに乗っていた。
リーゼが書記の卓から顔を上げる。
「補給途絶後の敵の行動を、3通り想定して資料にまとめました。配ります」
ディルクが資料を受け取り、目を通して頷いた。
「想定Bが最も濃い。イグナーツは自尊心が高い。途絶を認めず、備蓄で押し切ろうとする」
「その場合、彼の前線は10日で食糧が底をつきますわ。そして10日後——焦りが、判断を歪め始める」
焦った指揮官は、兵を無駄に動かす。動けば消耗し、消耗すれば、撤退の名目が「転進」から「救出」に変わっていく。彼の面子の値段が、日ごとに下がっていく。値段が下がり切る前に、買い手を用意する。それが第3段階の要諦だ。面子は、暴落してからでは誰も買わない。
「ところで、お嬢様。実行部隊の編成に、志願がひとつ」
リーゼが言いにくそうに付け足した。
「トーマス・ベッカーです。砦から戻って以来、3度目の志願です」
迷った。あの細い背中は、もう十分に働いた。けれど——前線に出たがる目に搬送の役を与えた夜のことを、思い出す。役を与えられた人間は、育つ。
「夜目は利きまして?」
「砦の同僚日く『梟なみ』と」
「では、隘路の見張り役で。手は出さず、目だけ。ヴェルナーの指揮下で、一歩も独断しないこと——本人にそう伝えて、それでも行くと言うなら」
「行くと言うと思います」
言うのだろう。妹の村を守った砦の兵は、今度は守る側の腕を上げに行く。止める理屈を、わたくしは持っていなかった。持つべきでも、なかった。
「実行は、明後日の夜。月が雲に隠れる時間帯に」
わたくしの声に、部屋の空気が引き締まった。
ディルクが眼鏡を押し上げながら立ち上がる。
「工兵の選抜は俺が行う。橋の構造を知っている者が、もう3名いる」
「お願いしますわ」
実行部隊が発つ夕暮れ、中庭で短い見送りをした。
ヴェルナーは黙って頷き、カスパルは「土産話を3つ仕入れてきます」と軽口を叩き、カイは山の男の顔で空の雲行きを読んでいる。トーマスは、わたくしの前で立ち止まり、敬礼して言った。
「妹に、手紙を書いてきました。今度のは——帰ってから、自分で渡します」
「ええ。そうなさい」
布の切れ端ではなく、ちゃんとした紙に書けるようになった字で。出した手紙より、手渡す手紙のほうがいい。全員、そういう手紙を懐に入れて、帰ってくること。
見送りの列の最後で、リーゼが4人分の携行食の包みを配っていた。包み紙に、小さく日付と中身が書いてある。様式は、こんな夜にも崩れない。崩れない様式が、見送る側の祈りの形だった。
散会の後、ふたりで地図の前に残った。
「これで、詰みの形ですわね。盤の上では」
「ああ。あとは、相手が投了の作法を知っているかどうかだ」
「知らなければ——退路の口へ、歩きたくなる材料を増やしますの。次の手は、もう仕込んでありますわ」
「援軍か」
「援軍、ですわ。旗の色は——届いてからのお楽しみ、ということで」
ディルクが眉を上げたけれど、追及はしてこなかった。詮索しない男の、いつもの距離。その距離が、いまは信頼の形をしている。
窓の外で、辺境の雨が屋根を叩いている。乾いた砂の匂いの代わりに、濡れた土と石の匂いが部屋まで届く。この雨の向こうに、イグナーツの陣営がある。
実行の夜、わたくしは作戦室で待った。
待つ仕事は、慣れない。指揮の数十秒の何倍も長い、数刻の沈黙。リーゼが2度、茶を替えに来た。3度目の手には、茶ではなく毛布。クラウスは「わしは寝る。起きて待つのは2人で十分だろう」と言って、本当に寝た。あの豪胆さは、もはや戦略資産である。
ディルクは地図の前から動かず、わたくしは盤の前から動かない。会話はほとんどない。なくて、よかった。沈黙を分け合える相手と待つ夜は、沈黙の重さが半分になる。
報せは、夜明け前に届いた。
『両所、仕事済み。全員無事』
ヴェルナーの暗号文は、今回も詩情の欠片もなく、だからこそ美しかった。
ディルクが地図の赤い線を2本、静かに消した。線を引くより、消すほうが重い仕事であることを、この半年で知っている。消した線の分だけ、誰かが家に帰る。
夜が明ける。盤上の駒は、動いた。
数日後、トーマスが戻ってきた。約束通り、手紙を懐に入れたままで。報告のついでに、彼は照れくさそうに付け足した。
「あの……隘路の見張りの最中、ヴェルナーさんに言われました。『お前の目は、いい目だ。10年磨けば物になる』って。自分、工兵を志願しようかと」
「砦の守備とどちらが好きか、半年考えてから決めなさいな。——どちらでも、推薦状は書きますわ」
帰り道のある作戦は、人を育てて戻ってくる。それも、この盤の配当である。配当の出る盤だけを、これからも指していきたい。
——ただし今回も、わたくしが動かすのではない。信頼した人々が、自分の意志で、それぞれの持ち場へ動いていく。半年かけて編んできた網の、目のひとつひとつが。




