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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第44話「将軍の誤算」

イグナーツの先鋒、およそ1000が、空になったエルスト砦に入って5日。


 そして工兵小隊が隘路と橋の工作に成功したという報せが届いたのは、出発から10日後のことだった。


 ヴェルナーからの暗号文を、リーゼが解読する。


「『岩は落ちかけのまま留め、橋は支柱を削り済み。検分には壊れず、荷駄には耐えず。小隊は全員無事、帰還中』」


 わたくしは報告を聞きながら、机のチェス盤に手を伸ばした。赤のポーンをひとつ、盤の端に寄せる。


 補給線が、締まった。


 砦を占拠した敵の内情も、猟師の帳面が几帳面に伝えてくる。『井戸の蓋、まだ開かず』『煮炊きの煙、日に2度から1度に』『馬の数、減り始め』——煙の文法は、こちらが読み方を教えた通りに、敵の台所事情を喋り続けていた。空の箱を抱えた1000人の、空腹の音まで聞こえてきそうな帳面である。


 胸は痛む。痛むけれど、手は緩めない。あの1000人を生きて家に帰す最短の道が、この空腹の先にしかないのだから。


 ディルクには「敵の空腹に胸を痛める参謀は前代未聞だ」と言われた。前代未聞で結構。空腹の重さを数字でしか知らなかった前世より、いまのほうが、よほど正確に戦争を計算できている。


 穀物相場の高騰と合わせて、前線の1000は、いま備蓄だけで食い繋いでいる。リーゼの試算では、備蓄は15日。それを過ぎれば、兵の食事を半減させるか——退くか。


「それと、お嬢様。ハンス経由で、ヴァルハイムから書状が」


 差し出された封書には、署名がなかった。けれど文面の癖と、紙の質と、数字の扱いが、書き手を雄弁に語っている。ラウフェンバッハ卿。内容は、非公式の質問状だった。『仮に、双方の交易を回復する場合の関税の想定を問う』——仮に、の2文字に、王宮の風向きの全部が入っている。


「第3段階も、動き始めましたわね」


 経済、物理、政治。3つの歯車が噛み合って回り始めている。


 歯車という言葉を使うたび、少しだけ自分を疑う。歯車の間に挟まっているのは油ではなく、人の暮らしだ。疑いながら回す。疑うのをやめた瞬間に、わたくしはあの広間の王子と同じ椅子に座ることになる。


 しかし——2日後、予期しない報せが入った。


「イグナーツが、前線部隊に移動命令を出した」


 ディルクの声が硬い。握られた伝令の紙が、かすかに震えている。


「移動? 補給が締まった状態で?」


「そうだ。しかも、第2防衛線に向けてではない。東へ迂回し——シュタイン伯の東部領を直接うかがう動きだ」


 血の気が引いた。


 東部領。議会でわたくしたちに頷いてくれた武人の土地。そして——北部の避難民の、受け入れ先のひとつ。


「これは……わたくしの想定にない経路ですわ」


「当然だ。補給の細った軍が前線をさらに伸ばすなど、兵站の常識では自殺行為だ」


 地図を広げ、敵の動きを書き込む。赤い線が東へ伸びる。非合理だ。徹底的に非合理。けれど、イグナーツは愚かではない。歴戦の将軍が常識を破るときは、常識の外の何かを握っている。


「——情報、ですわ」


 閃きは、嫌な形で来た。


「イグナーツは、隘路の件を自然の崩落と思っていない。こちらの工作と見抜いた上で、なお動いている。つまり、動く価値のある何かを知っている」


「厩番か」


 ディルクの目が、鋭く光った。


「拘束はした。だが、拘束の前に最後の便を飛ばした可能性がある」


 心臓が冷える。


 血の気が引いたまま、それでも頭のどこかが、奇妙に冷静に敵将の像を結び直していた。


 読みの修正。イグナーツ・シュヴェルトは、待てない男であると同時に——負けを、形にできない男だ。撤退も停戦も、彼の中では敗北の同義語。だから合理の盤の外で、一発逆転の手を探し続ける。この男を止めるのは、恐怖でも兵糧でもなく、最終的には「敗北に見えない出口」だけだ。出口の意匠を、もう一段、磨いておく必要がある。


「出口の意匠……?」


「撤退が敗北に見えない言葉の準備ですわ。名目、手順、それから——誰が最初に言い出したか、の演出。最後のひとつが、いちばん高くつきますの」


「リーゼ。厩番の拘束前の行動記録を、もう一度」


「はい。とはいえ、拘束前の2日間は泳がせの監視が薄く——」


「その薄かった部分こそ、要点ですわ」


 3時間後、リーゼが報告を持ってきた。


「拘束前日の夜、男が厩舎の伝書鳩に何かを括りつけるのを、夜番が目撃していました。『鳩の世話』と思って報告しなかったと。鳩は南東へ飛んでいます」


 南東。ヴァルハイムの、イグナーツの後方拠点の方角。


「送られたのは、何だと思われまして?」


「……避難の受け入れ先の一覧かと。あの男の持ち場は厩です。北部の村々から南へ向かう荷馬車の行き先を、毎日、誰よりも正確に見られる場所でした」


 つまりイグナーツは、避難民の集まる場所を知っている。そこを突けば、辺境は防衛線を捨ててでも駆けつけるしかない。狙いは領土ではなく——人質の効果だ。


「——やられた」


 呟きが漏れた。


 けれど次の瞬間、頭の中の帳面が、別の頁を開いた。


「いえ。やられて、いませんわ」


 ディルクが怪訝な顔をする。


「イグナーツが手にしたのは、鳩が飛んだ日の情報——もう4日前のものですわ。そして避難民は、もう、そこにいませんの」


「……何だと」


「リーゼ。先日シュタイン伯に打った伝令の控えを」


 リーゼが記録帳を開く。


「『東部領の避難民を、さらに南のグラオヴァルト中心部へ二次避難されたし。理由は物資の集積効率。即時実行を要請』——厩番拘束の当日に発信、翌日にシュタイン伯から受領確認」


 ディルクの目が、見開かれた。


「あなた——密偵が最後の便を飛ばす可能性を、拘束の時点で計算していたのか」


「計算と呼ぶほど上等なものでは。ただ、泳がせていた密偵を網に上げるときは、『最後にひと暴れする』前提で後始末を組む——前世の教本の、基礎の頁ですわ。漏れたかもしれない情報は、漏れた前提で価値を殺しておく。それだけのこと——失礼。それが、手順ですの」


 翌日、東部領から早馬が来た。シュタイン伯本人の手による、短い書状。


『敵の先遣、わが領の北端に達するも、空の村を検分して停止。——ベアトリーチェ嬢の二次避難の指図、あれが2日遅れていたら、儂はいま弔いの手配をしていた。この借りは樽で返す。倍の樽でだ』


 筆圧の強い、走り書きの文字に、武人の慌てぶりと安堵がそのまま滲んでいた。樽で返せる借りなら、いくらでも作っていい種類の借りである。倍の樽は、宴の日にありがたく受け取ることにする。


 イグナーツが掴んでいるのは、古い地図だ。進んだ先に、人質はいない。


 補給の細った1000が、何もない東部の野を行軍し、消耗する。雨は近い。相場は高い。王宮は冷たい。


「将軍の、誤算ですわ」


 正確には——誤算は、2つ重なっている。1つは情報の鮮度。もう1つは、もっと根の深い誤算だ。イグナーツは「避難民の居場所」を弱点だと読んだ。人質に取れる急所だと。けれどこの半年の辺境で、避難の手順は『火事の備え』として練られ、世帯名簿はリーゼの帳面で生きて動き、村の旗のヘルガが先頭で荷をまとめる。——弱点だったものは、とっくに、いちばん訓練された筋肉に変わっていた。


 敵将の地図が古いのは、4日分ではない。半年分なのだ。


 ディルクが長い息を吐いて、椅子に沈み込んだ。


「あなたは——本当に、恐ろしい人だな」


「あら。今日のは褒め言葉として受け取りますわ。断罪を生き延びた身ですもの、後始末の用心だけは年季が入っておりますの」


「リーゼ。あなたも、よくやった。飼葉の帳簿から密偵を釣り上げ、二次避難の名簿を3日で回し、今日の答え合わせまで——この戦の影の半分は、あなたの帳面だ」


 ディルクが言うと、リーゼは驕りのかけらも見せずに一礼した。


「帳簿は、つけた通りにしか働きません。働く帳簿を許してくださる職場が、初めてでしたので」


 几帳面の居場所。いつかの夜の言葉が、戦の只中で、ちゃんと実を結んでいる。


 夕餉の席で、クラウスがこの顛末を聞いて、杯を置いた。


「つまり、敵は空の村に剣を振り上げて、空振りした、と」


「ええ。振り上げた腕の分だけ、疲れて帰りますわ」


「……戦というのは、わしの知っとるものと、だいぶ形が変わったんだな」


 声に寂しさはなかった。安堵が、半分。残り半分は、たぶん感心だった。明日の朝餉でこの話はもう一度、樽の追加要求とセットで蒸し返されるに違いない。


 その夜のチェスは、わたくしの白が珍しく押していた。


「今夜は、いつになく攻めるな」


「昼間の答え合わせが効いていますの。読みが当たった日は、駒が軽い」


「読みが外れた日のあなたは、守りが固くなる。霧の夜の後の3局、全部囲いから出てこなかった」


「……対局相手に心理分析をされるの、不利益が大きいですわね」


「だから言っている。俺以外と指すときの参考に」


 俺以外と、指す予定はないのだけれど。その一言は、保留箱ではなくて、もう少し手前の棚に仕舞った。最近、箱の使い分けを覚えつつある。


 対局の終わり、ディルクが盤を片づけながら言った。


「東部へ向かった敵は、3日で引き返すだろう。空の村と、減った備蓄と、濡れた靴だけを持って。——兵たちの間で、この遠征の評判は地に落ちる」


「ええ。そして兵の評判は、必ず本国の家族の耳に届きますわ。手紙で、休暇で、酒場で。王宮の文官の演説より、兵の愚痴のほうが、世論にはよほど効きますの」


 窓の外で、風が唸っている。雨季の本降りは、もう数日のところまで来ていた。盤面は、確実にこちらへ傾き始めている。


 けれど、傾いた盤の上でこそ、追い詰められた駒は跳ねる。イグナーツの次の一手は、合理の外から来るかもしれない。


 ——だからこそ、次の一手が勝負を決める。退路の口は、開けてある。あとは、あの将軍がそこへ歩き出す理由を、あとひとつかふたつ、積み増すだけだ。

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