第43話「包囲の外」
作戦の第1段階は、予想より速く効いた。
穀物の買い付け——本物の買い付けの情報は、商人の網を5日で駆け巡り、ヴァルハイムの穀物相場をさらに2割押し上げた。軍への納入価格も連動して跳ねる。ハンスの報せでは、イグナーツの兵站担当が本国に追加予算を泣きついているという。
まだ第1段階。焦る場面ではない。
第2段階の工作は、ディルクが選んだ古参兵2名——ヴェルナーとカスパルの率いる6名の小隊で実行する。ブルーノの甥のカイが、隘路までの獣道を案内する。出発は3日後。
昼に、その顔合わせがあった。
ヴェルナーは岩のように無口な工兵で、カスパルは逆に、喋りながらでないと手が動かない型。カイは砦の兵たちを前に最初こそ硬くなっていたが、地図のない獣道の説明を始めた途端、目つきが山の男のそれに変わった。
「この道は、雨の3日目までなら使えます。4日目からは沢が太って、戻りの道が1本消える。だから——往きで2泊、仕事に1晩、戻りは別の尾根で」
「戻りの尾根の水場は」
「2箇所。ただし1箇所は熊の水場なんで、朝は避けてもらう」
ヴェルナーがようやく口を開いて、「いい案内だ」とだけ言った。兵と猟師の噛み合う音が、ちゃんと聞こえた気がする。
顔合わせの終わりに、カイが遠慮がちに訊いた。
「あの……橋を壊すんじゃ、ないんですよね」
「壊しませんわ。『修理したのに軋む』ように細工しますの。落とすのは橋ではなく、橋への信用ですわ」
「……山じゃ、信用できない橋がいちばん怖い。落ちた橋なら、諦めて別の道を探すんで」
カイの実感は、そのまま作戦の核心だった。山に生きる人の語彙には、ときどき兵法書より正確な一節がある。手帳の語彙の頁に、いただいておいた。
そして今夜は、出発前の最終確認である。
執務室の地図を挟んで、ディルクと向かい合う。ランプの火が揺れ、地図の上の影が動く。インクと紙の匂い。
「隘路と橋が使えなくなったあと、イグナーツの選択肢は2つありますわ」
地図を指しながら、話す。
「1つは、復旧に兵を割いて補給線を立て直す。『落ちかけの岩』と『渡れるか分からない橋』の検分と修理で、最低10日。その間、前線の兵は備蓄だけで食い繋ぐことになる。雨季はその10日を、確実に削りに来ますわ」
「もう1つは」
「撤退。来た道を引き返す。——そして重要なのは、この2つの外側に、第3の選択肢を生やさせないことですの」
ディルクの目が鋭くなった。
「第3の選択肢?」
「玉砕的な全面攻撃ですわ。補給が尽きるなら、食糧のある場所——こちらの村と備蓄を、力ずくで奪えばいいという発想。追い詰められた指揮官の頭には、必ずこの選択肢が浮かびますの」
「……それが、いちばん厄介だな」
「ですから——包囲しては、いけませんの」
ディルクが眉をひそめた。
「包囲しない? 補給線を断つのは、包囲の一種だろう」
「物理的には。けれど心理的には、別物にできますわ。前世の——独学の戦略書に、こういう言葉がありましたの。『囲師必闕』。敵を囲むときは、必ず一箇所、口を開けておけ」
「逃げ道を、残すのか」
「ええ。断つのは荷駄の道。兵の足の道は、断ちません。中央街道は、荷馬車は雨季で渡れなくなりますけれど、兵員だけなら上流の浅瀬をしばらく渡れますわ。そこの監視を——わざと、緩めますの。敵の偵察が『帰り道は開いている』と確認できる程度に」
立ち上がって、地図に印を書き加える。国境からヴァルハイム領へ戻る、細い退路。
「塞げるのに、塞がない」
「塞いだ瞬間、前線の兵全員が『帰れない軍』になりますの。帰れない軍ほど危険なものはありませんわ。逆に、帰り道が見えている軍は——戦況を、冷静に計算できる。補給は細り、相場は燃え、王宮の風向きは変わり、雨は強くなる。全部を足し算すれば、撤退が最善だと、イグナーツ自身の算盤が答えを出しますわ」
「ひとつ、数えておきましょう。イグナーツの側から見た、撤退の損得を」
指を折る。
「撤退の損——武功の喪失、鷹派内での立場の低下、本人の自尊心。撤退の得——兵の保全、責任の回避、そして『雨季のせい』という言い訳の存在。現状、損の皿が重い。ですから得の皿に、こちらから分銅を足していきますの。王宮の撤退命令で『従っただけ』の形を。雨季の本降りで『天候のせい』の形を。援軍の旗で『状況の変化』の形を。——彼が自分に嘘をつくための材料を、3つも4つも、卓に並べて差し上げますわ」
「敵に言い訳を供給する参謀か。前代未聞だな」
「言い訳は、退却の通行料ですもの。払えない者は、退けませんのよ」
「将軍が、合理的に計算するとは限らないぞ。あの男は待てない型だと、あなたが言った」
「ええ。ですから第3段階——王宮の穏健派からの撤退命令が、保険になりますの。本人の算盤が壊れていても、上の算盤が動けば兵は引きます。本人の面子のためには『雨季による戦略的転進』という立派な名目も、ご用意して差し上げますわ」
「名目まで、こちらで書くのか」
「ええ。撤退の作文は、撤退する側にはいちばん書きにくい文章ですもの。ルイーゼにお願いして、ヴァルハイム軍の公式文書の文体で起草していただきますの。彼らの語彙で、彼らの誇りの文法で。——自国の言葉で書かれた言い訳だけが、自国の布告に載れますのよ」
「敵の面子の世話までするのか」
「面子は、暴発の最後の燃料ですもの。抜いておくに限りますわ」
言いながら、断罪の広間を少しだけ思い出していた。あの日のわたくしには、退路も名目も用意されていなかった。だから笑うしかなかったのだ。追い詰める側に回ったいま、あの日の設計の杜撰さが、よく見える。
ディルクが椅子に座り直し、長い息を吐いた。ランプの火が、眼鏡に映って揺れる。
「……あなたの策は、敵を殺す策ではないな」
「え?」
「補給を断ち、政治を動かし、退路と面子を残す。——結果として、敵が自分の意志で帰っていくように仕向ける。殺さず、帰らせる策だ」
言われて初めて、自覚した。
確かに、この作戦には「敵を討つ」という項目がない。誰も殺さずに、戦争そのものを萎ませようとしている。
ギドの墓標が、頭に浮かんだ。それから、退いていく松明の列の下にいた人たちのことも。
「……殺さなくていい戦いがあるなら、殺さない方法を選びたいだけですわ。あちらの兵にも、固いパンを投げる誰かが、たぶんいますもの」
ディルクの目が、一瞬だけ柔らかくなった。本当に一瞬。次の瞬間には、軍師の顔に戻っている。
「甘いな。だが——嫌いじゃない。それに、甘さの収支なら合っている。殺さず帰した兵は、次の戦の反対票だ。ヴァルハイムの酒場で『辺境は追撃しなかった』と語られる夜が増えるほど、次にこの国境へ兵を出す王宮の腰は重くなる」
「あら。あなたのほうが、よほど先を読んでいらっしゃる」
「あなたの甘さを、兵站の言葉に翻訳しただけだ」
彼が窓の外を見た。雨の合間の月が出ていて、濡れた屋根瓦が青白く光っている。
「工兵の出発は3日後。退路の監視の『緩め方』は、俺が設計する。緩めすぎれば不自然に見える。偵察兵が苦労して見つけた抜け道だけが、信用されるからな」
「お任せしますわ。苦労の演出は、あなたの領分ですもの」
「具体的には、浅瀬の正面の見張り小屋を1棟、わざと焼いて放棄する。『辺境は浅瀬の監視を維持できなくなった』という絵だ。焼け跡は、偵察兵の好物だからな」
「自分の小屋を焼く軍師と、自分の噂で商談を壊した参謀。この盤の味方は、つくづく自傷の芸が細かいですこと」
「効く自傷だけを選んでいる。あなたに教わった」
教えた覚えのない教えが、また1つ増えた。この人の独学の速度は、戦術書より人間のほうで上がる。
言い返せなかったので、紅茶を飲んだ。
紅茶はリーゼの夜用の配合で、いつもより薄い。眠りを妨げない濃さ、という気遣いである。作戦の前夜に深く眠れる人間などいないことは、彼女も知っているはずだけれど、気遣いの様式は守られる。
ディルクが立ち上がり、扉へ向かう。
「ディルク」
「何だ」
「この作戦が成功したら——誰も死なずに、終わるかもしれませんわ」
彼は振り返らなかった。けれど扉の前で足を止め、背中越しに低い声が届いた。
「それなら——成功させるしかないな」
足音が廊下に消えたあと、わたくしはランプの火を見つめた。
包囲の外に、口をひとつ開けておく。敵を追い詰めず、選択肢を渡す。
——チェスでは、鮮やかな詰みは美しいとされる。けれど現実の相手は、詰む前に盤を蹴り飛ばすことができる。だから、投了の余地を残す。頭を下げずに駒を仕舞える形を、相手の手元に置いておく。
それが、人間を相手にする盤の——作法というものだ。
ランプの油が減って、火が小さくなる。手帳を開いて、今日の頁に作戦の骨子を書き込み、それから少し迷って、余白に1行を足した。
『囲師必闕。開けた口の向こうに、帰る家があること』
あの言葉を書いた古い兵法家は、口を開ける理由を「敵を油断させるため」と説いた。きっとそれが正解で、試験ならそう答える。けれどわたくしの盤では、もうひとつの読みを採用する。開けた口の向こうに、固いパンと、熱を出す子どもと、脚の悪い馬が待っているから——人は、刃を捨てて歩き出せるのだ。
油断ではなく、引力。それが、わたくしの囲師必闕。
前世の研究室で、この一節を「心理的圧力の緩和による合理的撤退の誘導」と要約したことがある。間違ってはいなかった。ただ、要約で削った部分にこそ、人間の本体が入っている。それが分かるまでに、2つの人生が要った。
ランプを消す。暗闇の中で、雨の音だけが残った。3日後の夜、工兵たちが闇の中を発つ。彼らの背中にも、帰る場所の引力が効いていますように——と、柄にもないことを考えながら、わたくしは眠りに落ちた。




