第42話「反転の一手」
砦からの撤退は、3日で完了した。
オーベル大尉に撤退命令を伝えたとき、彼は何も言わずに敬礼した。「了解しました」の一言だけ。それから、ほんの少しだけ間を置いて、付け加えた。
「あなたの口から聞けて、よかった」
兵たちは黙々と備品を搬出し、夜明け前に砦を出た。井戸に蓋をし、貯蔵庫を空にし、ギドの墓標に全員が一度ずつ手を触れてから。振り返る者は、少なかった。振り返らないと決めている背中の形を、わたくしは馬上から、目に焼きつけて見送る。
最後に砦を出たのはオーベル大尉だった。門の閂を自分の手で下ろし、鍵を——捨てずに、懐へ仕舞った。空の箱に鍵をかける意味は、実用ではない。「戻る」という宣言の、武人の文法である。鍵の重さの分だけ、この撤退は転進だった。
第2防衛線は、グルント峠を西の要に、渓谷と東の道沿いの川筋を結ぶ線になる。峠は、退かない。ヨハンたち峠の守備隊は、半年かけて作った伐採地と罠線と鈴の網ごと、持ち場に残る。
「峠は、辺境の蝶番ですわ。ここが保つ限り、敵は第2線の正面しか選べない。——ヨハン、任せてよくて?」
撤退の調整で峠に寄ったとき、若い兵は背筋を伸ばして答えた。
「お任せください。それに……砦の連中がこっちへ下がってくるなら、なおさら退けません。マルタのパンの納め先も、増えますし」
最後のひと言は冗談の体裁だったけれど、目は冗談を言っていなかった。守る理由の目録が長い兵は、強い。目録の長さなら、この峠は辺境一だ。鈴の網も、罠線も、パンの納め先も、全部この半年で書き足された行である。
第2防衛線への移動を見届けて、本館に戻る。
ここからが、本番だ。
執務室の壁一面に、地図を張り巡らせた。ヴァルハイム領の全体図。国境線。街道。河川。山脈。そして——補給線。
「イグナーツが前線の兵を維持するのに要る物資は、1日あたり穀物3トン、薪2トン。水は現地で賄えますが、それ以外は全部、後ろから運ぶしかありませんの」
リーゼの算出した数値を読み上げ、ディルクが地図に木の駒を並べていく。赤が敵、青が味方。
「補給線は、もともと3本。西街道はヴァイスの封鎖ですでに死んでいる。中央の街道は——」
「ラーデン河の渡河点が、雨季の増水で死にますわ。あと3週間で」
「残るのは、東の山道。荷馬車2台がすれ違えない、あの隘路だ」
ディルクの指が、地図の上の細い線をなぞった。いつかの夜、「手札にあることと切ることは別だ」と保留した、あの場所である。
「3本が1本に痩せる。その1本の急所は、隘路と——その先の、山間の橋ですわ」
「ああ。荷駄が毎日渡る、1本きりの架橋だ」
手札を切る日が、来たのだ。
椅子に座り直し、紙とペンを取る。組み上げる作戦は、3段構えになる。
「第1段階、経済。ヴァルハイム国内の穀物相場に、もうひと押し入れますの。『辺境が穀物の大量買い付けに動いている』という情報を商人筋に。相場が上がれば、軍の調達価格も跳ね上がる。すでに2割上がった相場なら、噂だけでさらに動きますわ」
「買い付けの情報は、嘘になるぞ」
「いいえ。本当に買いますの。避難してきた北部の領民の、冬越しの備蓄が要りますもの。買う理由も、買う金も、本物。量の印象だけが、勝手に膨らむ仕掛けですわ」
「……徹底しているな、9割の流儀も」
「買い付けの実務は、ハンスの組合に。代金は例の交易税の余剰から。それと、買った穀物の保管はフェルデンの納屋——避難民の集まる場所の隣ですわ。冬の備蓄が目の前に積まれていく光景は、避難してきた人たちの不安を、何枚の布告より確かに鎮めますもの」
「相場を動かす策と、民心を鎮める策を、同じ袋の穀物にやらせるのか」
「1粒で2度働いていただきますの。予算には限りがありますもの」
「第2段階、物理。東の山道の隘路と橋を、使えなくします。ただし、壊しません」
「壊さない?」
「橋は落とさず、支柱を削って荷の重さに耐えられなくしますの。岩は落とさず、落ちかけの形で留める。——使えるか使えないか分からない道は、使えない道より敵の時間を食いますわ。修理すべきか架け替えるべきか、人を出して検分して、議論して。その間、荷駄は1台も進めない」
ディルクの口の端が、わずかに上がった。
「工作は少人数の工兵で足りる。地形を知り尽くした者の案内があれば、だが」
「ブルーノたちに、案内だけをお願いします。手を下すのは兵。山の人々の手は、汚させません。それと実行の時機は——敵の主力が空の砦に入って、補給の需要が膨らみ切った後。早すぎれば、敵は前進を止めて兵站を立て直してしまいますもの」
「第3段階は」
「政治ですわ。補給が軋み、相場が燃えている状態で——ヴァルハイムの王宮の穏健派に、和平の打診を入れますの。イグナーツ本人にではなく、ラウフェンバッハ卿の机に。卿はもう、こちらの交易の試算書を読んでいらっしゃる。『戦争の値札』と『和平の見積書』を並べて差し上げれば、文官たちの算盤は答えを出しますわ」
「打診の文面は、誰の名で出す」
「クラウスの名で。王家を絡めるのは、まだ早い。辺境同士の『国境の安定に関する実務的な協議』の体裁——大きな言葉を使わないことが肝要ですの。『和平』は、まとまってから刻む言葉。最初に掲げると、まとまらなかったとき双方の面子が死にますもの」
「言葉の順序まで、兵站で考えるか」
「言葉こそ、いちばん補給の利く武器ですもの。在庫は無限、輸送は一瞬。——ただし、暴発したときの被害も最大ですけれど」
「将軍を飛び越えて、王宮を動かすか」
「ルイーゼにも書簡を。外務省の線と、財務の線。2本同時に引けば、王宮の中でイグナーツは——会議室に包囲されますの」
ディルクが椅子に深く座り、腕を組んだ。長い沈黙。目が地図とわたくしの顔を往復する。
「3段構え。経済と物理と政治。どれかひとつが転んでも、残り2つで圧力が保つ」
「ええ。それから第2防衛線は、攻めません。守るだけ。敵の損害はすべて、雨と相場と会議室に出していただきますわ。剣の出番のない勝ち方が、和平の卓をいちばん近くしますもの。——血の流れた和平は10年で軋みますけれど、算盤の上で結ばれた和平は、算盤が合う限り保ちますの」
「危険の見積もりも、述べておきますわ。最大の弱点は、わたくしたちの読みが『イグナーツは合理の枠の中で焦る』という前提に立っていること。枠の外へ跳ねた場合の受けが、第2防衛線とタールの騎兵だけ。——薄い受けですの。薄いと知った上で、これ以上は厚くできない。そういう種類の薄さですわ」
「全部の盤で同時に厚くは打てない。どの盤を薄くするかを選ぶのが、指し手の仕事だ」
「ええ。選んだ責任ごと、引き受けますわ」
「実行の期間は」
「第1段階は、即日。相場は明日から動きます。第2段階は3週間以内——雨季と同時に効かせるのが理想。第3段階は、1と2の結果を見てから。リーゼ、各段階の工程表を」
「本日中に。督促対象は、例によって全員です」
督促、の一語に部屋の空気が引き締まった。敵の包囲より、リーゼの工程表のほうが、この館では逃げ場がない。
ディルクが立ち上がり、地図の前で赤い駒——イグナーツの本陣の駒を摘まみ上げ、掌の上で転がした。
「大胆な策だ。だが、ひとつ穴を聞く。イグナーツが工作に気づいたら、報復に出るぞ。手近な的——村を、焼きに」
「北部の避難は完了しています。リーゼが世帯名簿と突き合わせて、一軒ずつ。第2防衛線の外に、領民はもうおりませんわ」
「全員か」
「全員です。ヘルガさんが最後まで『婆は逃げん』と粘りましたけれど——孫の通う教室が南に移ると聞いて、荷物をまとめてくださいました」
ディルクが赤い駒を、元の位置にことりと戻す。口元に、微かな笑み。
「あなたは時々、俺より3手先を読んでいる」
「断罪された身ですもの。先を読まないと、生き残れませんでしたの」
「ヘルガ婆の説得、本当に『教室』の一言で動いたのか」
「正確には、こうおっしゃいましたわ。『あたしが残りゃ、教室の先生が迎えに来ちまう。年寄りひとりに若いもんの足を使わせるのは、勘定が合わん』——あの方、わたくしより費用対効果に厳しくてよ」
ディルクが、珍しく声を出して短く笑った。それから真顔に戻って、地図の赤い駒を見る。
「笑っていられるのも、あと数日だな」
「ええ。次に笑うのは——全部終わってから、まとめて」
まとめ笑いの予約台帳があるなら、この半年でずいぶん厚くなっているはずだ。利息をつけて回収する日を、楽しみにしておく。
夜、ひとりになってから、撤退の日のオーベル大尉の顔を思い出していた。
「あなたの口から聞けて、よかった」
あの言葉の重さを、わたくしはたぶん、まだ半分しか受け止め切れていない。守ると約束した砦を、守ると約束した本人が「捨てましょう」と言いに行く。それを兵たちが呑んでくれたのは、計画の正しさのせいではない。あの夜、同じ壁の上に立った——その一点のせいだ。
信用とは、結局のところ、同じ場所に立った回数のことなのだろう。書簡では1枚も稼げず、盤の前では半分しか稼げず、壁の上でだけ満額が積まれる通貨。
だとすれば、この反転の作戦が終わるまでに、わたくしはまだ何度か、どこかの壁の上に立つことになる。怖い。怖いけれど、その通貨でしか買えないものを、もう知ってしまった。
手帳の名前の頁を開く。砦の30人の名前は、半年前から全部書いてある。撤退の日付を書き添え、その横に、まだ空欄をひとつ残した。取り返した日付を書くための欄である。空欄は、約束の別名だ。
窓の外で、雨が一度上がっていた。雲の切れ間から差した光が、地図の上に細い筋を落とす。
盤面が、動き始める。砦を手放したのは、この一手のため。下げた駒の分だけ、盤の奥に道が開いている。
——反転の、始まりだ。




