第39話「駒と人のあいだ」
砦に留まって、3日目の夕暮れ。
本部からの援軍が到着し、守備の体制が整った。新しい矢の束と毛皮の外套も、荷馬車2台分が先行して届いた。発注から3日足らず——リーゼが初日の夜の伝令に起案を託し、本部の在庫から先行で回させた甲斐である。オーベル大尉は矢の束を抱えて、しばらく言葉が出ない様子だった。3年間届かなかったものが、3日で届く。それだけで、兵たちの背筋が目に見えて変わった。
明日には砦を発つ。けれどその前に、立ち会うべきことがあった。
ギドの、葬儀である。
麓の村から、妻と息子が登ってきた。息子は8つくらいだろうか。父によく似た、骨の太い手をしていた。
葬列は短く、祈りの言葉も短かった。辺境の葬儀は飾らない。オーベル大尉が経歴を読み上げ、兵たちがひとりずつ土を入れ、最後に遺品が墓標の前に置かれた。使い込まれた蹄鉄やすりと、馬の毛で編んだ小さな紐飾り。馬の世話の名手の、商売道具と手すさび。
紐飾りは、息子が欲しがって、まだもらえていなかったものだという。妻が小さな手にそれを握らせると、子は泣かずに、強く握り返した。骨の太い手は、握る力も父譲りらしい。
ギドの妻は、涙を見せなかった。土を入れ終えたわたくしに、深く頭を下げて、こう言った。
「うちの人は、馬を任されとることを、誇りにしとりました。……砦の皆さんと、お国の偉い方に、よくしてもろうたと」
お国の偉い方。その言葉が、胸のいちばん柔らかい場所に刺さった。彼を北壁へ送ったのは、その「偉い方」なのだ。
言うべき言葉を、わたくしは持っていなかった。持っていないことを誤魔化さずに、黙って頭を下げ返した。謝罪は、遺族のためではなく自分のための行為になりやすい。今日のわたくしに許されているのは、頭の角度だけだと思った。
葬儀が終わり、兵たちが食堂へ戻っていく。妻子は村へ降りた。わたくしは、墓の前に残った。
木の墓標に、名前が刻まれている。ギド・ハルトマン。名前、ひとつきり。年齢も、馬の腕前も、息子の手の形も、板には書かれていない。
「——あなたを、駒として動かしましたわ」
声に出すと、言葉の重みが変わった。
北壁への転進を命じたとき、わたくしの頭にあったのは盤面だった。正門の構造強度、北壁の脆弱性、敵の侵入の型。すべてを数字と図形の問題として処理した。あの5名に、顔はない。「5名の兵力」という抽象でしかなかった。
ギドが毎晩、脚を傷めた馬を診ていたことを、わたくしは命令のあとで知った。
「わたくしは、人を駒として見ていた。——あの夜だけではなく、ずっと」
風が吹き、葬儀の松明の残り火が瞬いた。
背後で枯れ枝を踏む音がして、振り返ると、ディルクが立っていた。三角巾は、もう外している。
「まだここにいたのか」
「もう少しだけ」
彼は隣に来て、墓標を見下ろし、しばらく無言だった。
「駒として見ていた、と言ったな」
「聞こえていまして?」
「声が大きい」
沈黙。遠くで梟が鳴いている。低く、短く、繰り返し。
「軍師は、人を駒として見る。そうしなければ、判断ができないからだ」
ディルクの声は、いつもより低かった。
「北壁へ5名を送ると決めた瞬間、あなたは5人の顔を見ていなかっただろう。俺も同じだ。前線で指示を出すとき、ひとりひとりの名前は考えない。配置と数と地形しか見ない。——考えていたら、判断が遅れる。遅れれば、5人どころか34人が死ぬ」
「それが……正しいのかしら」
「正しいかどうかは知らん。だが、代わりの方法を、俺は10年探して見つけていない」
理屈は分かる。前世の教科書にも書いてあった。指揮官は感情を排し、合理的に判断せよと。教科書は正しい。正しくて、その先を書いていない。その先は、たぶん教科書には書けないのだ。書いた瞬間に一般論になって、一般論になった瞬間に、嘘になる種類のことだから。
「でも——」
「ただし」
ディルクが、わたくしの言葉を遮った。
「戦が終わったあとに名前を思い出せない者は——軍師ではなく、ただの機械だ」
灰色の目が、墓標を見つめている。
「盤の前では駒として見ろ。盤を降りたら、人として悼め。その行き来ができなくなった日が、軍師を辞める日だ」
厳しい言葉だった。けれどその声には、どこか祈りに似た響きがあった。
「あなたは、おできになっていて? その行き来が」
「できているかは分からん。だが、辞めてはいない」
ディルクが懐から、小さな手帳を取り出した。革の表紙が擦り切れ、角が丸くなっている。
「10年分の名前が、ここにある。俺の判断の結果として、戻らなかった全員の」
手帳を開きはしなかった。重みを確かめるように掌で包んで、また懐へ戻す。最初の戦の5人も、あの頁のどこかにいるのだろう。怒りは棚に仕舞い、名前は懐に持ち歩く。この人の、10年かけた答え。
「あなたの帳面は、まだ1人だ。その1人を忘れるな。次に判断を迫られたとき——ギドの重みが、あなたを機械にさせない」
風が止んで、松明の火がまっすぐに伸びた。
「ディルク」
「何だ」
「わたくし、人を駒として見ることを、やめられないかもしれませんわ。前世から——生まれつき、そう組み上がった頭ですもの。フレーデンの夜に思い知って、改めたつもりで、それでもあの夜、5名はやはり数字でしたの」
「やめる必要はない」
即答だった。
「駒として見ることと、人として見ることは、矛盾しない。同じ目で同時に見ようとするから、引き裂かれる。——時間で分けろ。盤の上では駒を動かせ。盤を降りたら、その駒に名前があったことを思い出せ。行って、帰ってくる。その往復を死ぬまで続けるだけだ」
「……往復の旅程表としては、ずいぶん過酷ですわね」
「だから、ひとりでは続かない。帰り道を覚えていてくれる人間が、隣に要る」
言ってから、ディルクは少しだけ沈黙して、付け足した。
「——一般論だ」
「ええ。一般論として、承りましたわ。……では一般論ついでに、ひとつ聞いてもよくて? 帳面の最初の頁——20歳のあなたは、5人の名前を書いたあと、どうやって次の朝、盤の前に座りましたの」
ディルクは少し黙った。梟が、もう一度鳴いた。
「座れなかった。3日な。4日目に、クラウスが俺の部屋に盤を運んできて、何も言わずに白を並べて、待っていた。負けたよ、その一局は。20手で。——それでも、指せた。指せたことが、あの朝は全部だった」
「……あの方は、ああ見えて」
「ああ。人が立ち上がる速度を測るのがうまい」
「まあ。猪肉と麦酒の人だとばかり」
「猪肉と麦酒で測っているんだ、あれで」
冗談の形をした、たぶん本当の話。今朝、わたくしの部屋の前に毛布と林檎茶が黙って置かれていたことを、ふと思った。この土地には、人が立ち上がる速度を測る者が、何人もいる。測られていることに気づかないふりをするのが、この館の礼儀作法らしい。毛布の礼を言えば、リーゼは「在庫の整理です」と答えるに決まっている。決まっている答えのある場所を、人は家と呼ぶのかもしれない。
ギドの墓標に、月の光が落ちている。木の板の上で、刻まれた名前が白く浮かんでいた。
ふと、気づいたことがあった。
「ディルク。その手帳——いつも、懐の左側に入れていらっしゃるのね」
「……心臓の側だ。別に、洒落た理由じゃない。内ポケットがそこにしかないだけだ」
「ええ。そういうことに、しておきますわ」
15年磨いた盤と、10年分の名前の手帳。この人の戦歴は、その2つに全部入っている。勝った数は盤が覚えていて、失った名は手帳が覚えている。どちらか片方しか持たない軍師に、わたくしは隣にいてほしくなかっただろう。
「それが、駒と人のあいだだ」
ディルクが背を向け、砦へ戻っていく。足音が遠ざかり、梟の声だけが残った。
わたくしは墓標の前に、もう少しだけ立っていた。
——ギド・ハルトマン。あなたの名前は、忘れませんわ。あなたを駒として動かした判断も。あなたが毎晩、馬の脚を診る人だったことも。あなたの息子の手が、あなたに似ていたことも。
頭の中の帳面の、いちばん最初の頁に、その全部を書き込む。数字の頁とは、別の頁に。両方の頁を持ったまま、明日からも盤の前に座る。
それが、わたくしの選んだ椅子の——本当の値段なのだから。
翌朝の砦は、視察に来た日とは別の砦のようだった。
建物は同じだ。欠けた紋章も、ひびの入った壁も。違うのは、人の立ち方だった。門までの道に兵たちが並び、誰に号令されたのでもなく、姿勢を正す。トーマスは包帯の手で敬礼をし、オーベル大尉は短く言った。
「次の視察は、3年も空けんでください」
「ええ。次は矢の数ではなく、樽の数を数えに参りますわ。——収穫祭の」
砦に、低い笑いが満ちた。笑いの輪のいちばん端に、ギドの不在が静かに座っている。誰もそれに触れず、誰も忘れていない。そういう朝だった。
馬車が動き出す。窓の外で、岩山の砦が小さくなっていく。盤の隅のルークが、朝日の中に立っている。中の灯りごと、立っている。
向かいの席で、ディルクが手帳を開いていた。10年分の名前の手帳ではない。作戦用の、もう1冊のほう。霧の夜の戦訓が、几帳面な字で並んでいく。わたくしも自分の手帳を開いた。最後の頁——『ピアの弟、自分の名前が書けた』の下に、1行書き足す。
『ギド・ハルトマン。馬の世話の名手。息子の手が、父に似ている』
数字の頁と、名前の頁。両方を膝に載せて、馬車は南へ走る。
車輪の音の合間に、ディルクがふと言った。
「戻ったら、一局指すか」
「ええ。——白を、いただきますわ」
「先手の要求が早いな」
「立ち上がりの儀式ですもの。先手で」
立ち上がる速度を、測られている。測られながら、わたくしはたぶん、もう立ち上がり始めている。
雨季まで、あと1ヶ月。盤面は、ここからが本番だ。




