第40話「立ち向かう声」
本館に戻った夜、クラウスは何も訊かずに、猪肉の山と麦酒を食堂に並べた。
「報告は明日でいい。今夜は食え」
例の測定である。わたくしたちは測定に従い、黙々と食べた。リーゼは戻って1時間で執務室の書類の山を「視察前の状態」に復元し、「明日の議会資料、3部できています」と言って、わたくしの杯に林檎茶を注いだ。砦の夜を越えて帰ってきた者への、この館なりの迎え方が、骨身に沁みた。猪肉は、いつもより塩が利いていた。厨房なりの「よく帰った」の味付けらしい。塩加減で語る言語が、この館には確かに存在する。
そして翌日。臨時の領内議会が招集された。
議題は、国境での奇襲の報告と、今後の防衛方針。けれど分かっていた。本当の嵐は、軍事の話が終わったあとに来る。
予兆は、開会前からあった。
「お嬢様。ハイデン子爵の従者が、昨夜のうちに2軒の家を回っています。ヴェーバー男爵家と、東の分家筋」
リーゼの朝の報告である。彼女は議会のたびに、前夜の「馬の出入り」を厩の帳面で確かめる癖をつけていた。例の厩番の一件以来、厩の帳面はこの館でいちばん正直な政治記録になっている。
「根回しですわね。標的は、十中八九——」
「ヴォルフ軍師かと。奇襲の責任問題は、出自を叩くのにいちばん使いやすい薪ですので」
「……承知しました。資料を1部、追加で。過去5年の国境案件の一覧——例の17件の詳細版を、念のため鞄に」
使わずに済めばいい。使わずに済まないことも、たぶんない。
案の定だった。
奇襲の報告が終わり、防壁の補修費の追加承認に話が移ったところで、ハイデン子爵が口を開いた。
「辺境伯閣下。このたびの奇襲、そもそも警戒網の不備が原因ではないのか。霧の夜に穴が開くと知れていた網——猟師頼みの素人くさい仕掛けを国境に置いたのは、誰の判断か」
議場が静まる。
その網を設計したのは、わたくしだ。けれどハイデンの視線は、議場の端に立つディルクに注がれている。前回の屈辱への報復に、攻撃しやすい的を選んだのだ。
「結果として、兵が1名落命した。軍師としての重大な失態ではないか」
ヴェーバー男爵が便乗する。
「そもそも平民の軍師に、国境の防衛全体を委ねること自体が——」
わたくしが立ち上がりかけた、その瞬間。
「待ってくれ」
ディルクが、一歩前に出た。
議場の全員の視線が集まる。石壁の獣の剥製が、彼を見下ろしている。
「警戒網の設計は、参謀と私の合議で決めた。霧の夜の穴も、把握した上での設計だった。補完を怠った責任は、私にもある。その点は、認める」
ハイデンの目が光った。自ら非を認めた——追い込めると踏んだのだろう。
「しかし」
ディルクの声が、変わった。平坦な報告の声ではない。低く、芯のある声。
「ハイデン子爵に問いたい。あなたは、国境の砦に行ったことがあるか」
ハイデンが眉をひそめる。
「それが何の関係が——」
「答えてくれ」
「……ない」
「ヴェーバー男爵は」
「わ、私もない」
「この議場の8家のうち、エルスト砦を実際に訪れたことのある方は」
沈黙。シュタイン伯がひとり、手を挙げた。
「私は行った。7年前だがな」
「ありがとう、シュタイン伯」
ディルクが議場を見渡す。眼鏡の奥の灰色の目が、ひとりひとりを捉えていく。
「砦には30名の兵がいる。寒期の外套は人数分に足りず、2人で1枚を分けている。矢の備蓄は定数の4割だった。食事は黒パンと、薄い豆の煮込みだけ。本部からの視察は、この3年間で1度もなかった。——その条件で、彼らは200の夜襲を退けた。死者を、1名にとどめて」
議場から音が消えた。暖炉の火さえ、静かになった気がする。
わたくしは、傍聴席で動かなかった。
膝の上の鞄には、リーゼの整えた17件の詳細資料がある。立てば、前回と同じように数字で潰せる。潰せるけれど——立たなかった。視界の端のディルクの肩が、「立つな」と言っていたからだ。誰かの代弁で守られる10年と、自分の声で立つ1日。どちらが彼に必要かは、考えるまでもなかった。
ただし、彼が崩れたら3秒で立つ。鞄の留め金に指をかけたまま、わたくしは3秒の距離で待った。守るとは、いつでも盾を出せる位置で、盾を出さずにいることでもある。留め金の冷たさが、指先の汗を吸っていく。3秒は、出番が来なければ、ただの3秒のままで終わる。終わらせるのが、今日のわたくしの仕事だった。
「私は、平民だ」
ディルクが言い切った。声に、震えはない。
「平民で、血統もなく、騎士の名簿に名はない。ハイデン子爵の言う通りだ」
ハイデンの表情に、戸惑いが浮かぶ。認めるとは思っていなかったのだろう。
「だが——この10年、国境に立ち続けてきたのは、名簿ではなく人間だ」
一語一語が、議場の石壁に反響する。
「私は部下を失い、敵を退け、冬の砦で凍えながら次の策を練ってきた。先日の夜も、壁の上にいた。私の血が赤かろうと青かろうと、その事実は変わらない。失態を裁きたいなら、裁けばいい。ただし——」
ディルクの手が、懐に触れた。10年分の名前の記された、擦り切れた革の手帳のある場所に。
「その前に、砦へ行ってくれ。2人で1枚の外套を分け合って国境を守っている者たちの顔を見てから、もう一度、同じ言葉を言えるかどうか——試してみてくれ」
長い沈黙のあと、シュタイン伯が腰を上げた。
「ヴォルフ軍師の言う通りだ。儂は7年前に砦を見た。あの場所を守る人間を貶める資格は、この議場の誰にもない。——儂にもだ。7年も放っておいたのだから」
ひとり、またひとりと、各家の当主が頷き始める。
「ならば、議長。提案がある」
シュタイン伯が続けた。
「次の議会は、エルスト砦——は今、状況が許さんなら、第2防衛線の陣で開こう。8家全員でだ。守っている場所を見もせずに、守っている者を裁く議会は、もう終わりにする」
賛同の声が、今度はためらいなく上がる。防壁の補修費は満場一致で可決され、ついでのように、砦の冬装備の増額まで通った。反対の声はない。反対できる空気では、もうないのだ。
ハイデン子爵は唇を噛んで黙り込み、ヴェーバー男爵は視線を机に落としている。昨夜の根回しの薪は、火がつく前に、雨に濡れて終わった。
リーゼが傍聴席の隅で、議事録の頁を音もなくめくった。あの帳面には、根回しの馬の出入りも、今日の採決も、同じインクで並んでいる。歴史の下書きは、いつも経理の字で書かれる。
クラウスが、深く息を吐いた。
「ヴォルフ軍師。報告は以上か」
「以上です」
「……ご苦労だった。下がってよい」
ディルクが一礼し、議場を出ていく。わたくしは傍聴席から、その背中を見送る。まっすぐで、揺らぎのない背中。
今日のわたくしは、一度も発言していない。する必要が、なかったのだ。必要のない日のために準備する。参謀の仕事は、半分はそれでできている。
会議が終わって廊下に出ると、ディルクは窓辺に立っていた。外を見つめながら、眼鏡を外してレンズを拭いている。
近づくと、その手が微かに震えているのが見えた。
「緊張なさっていたのね」
「黙れ」
「ご立派でしたわ」
「黙れと言っている」
けれど、その声に棘はなかった。
「——10年、かかったな」
ディルクが呟く。眼鏡をかけ直し、窓の外へ目を向ける。午後の光が、灰色の目に映り込んでいた。
窓の下の中庭では、援軍要請に応えたシュタイン領の兵たちが到着の列を組んでいる。指揮を執るのは、ディルクの配備案で動く各家の隊。あの議場の8つの駒が、いまは同じ盤のこちら側に並んでいる。半年前、「お飾りの令嬢」と「平民の軍師」を値踏みしていた目たちが。
「砦の視察、シュタイン伯は本気で行く気だ。8家全員を連れて」
「ええ。次の議会は、豆の煮込みつきになりますわね。……ヴィム爺の検査表もお持ちしましょうか。あの議場、遠目の利かない方が多そうでしたもの」
「やめておけ。半分は政治的に目が悪いだけだ。レンズでは直らん」
「10年間、言えなかった。言っても無駄だと、棚に上げて鍵をかけてきた。……あなたが議会でヘルム砦の数字を突きつけたのを見て、思ったんだ。言葉で壁を壊す方法が、あるんだと」
胸の奥が、熱くなった。
「わたくしは数字で壁に穴を開けただけですわ。あなたは今日、ご自分の声で壊しましたのよ。10年分の鍵ごと」
「……ひとつ、白状する。昨夜、原稿を書いた」
「あら」
「3枚書いて、3枚とも破った。立ってみたら、原稿の言葉はひとつも出てこなかった。出てきたのは——砦の、あの食堂の匂いの記憶だけだ」
「それでよろしいのよ。原稿の言葉は議事録に残り、匂いの言葉は人に残りますの。今日の議場が動いたのは、後のほうですわ」
ディルクが何か言いかけて、やめた。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ柔らかくなる。
「——戻るぞ。夜襲の請求書を、3方向に発送する仕事が残っている」
歩き出す背中を追いながら、思う。
あの議場で立ち上がったのは、軍師ではなかった。盤を払い落とされ続けたひとりの人間が、10年分の矜持を背負って、自分の声で立った。
駒ではない。この人は最初から、駒であったことなど、一度もないのだ。
そして、ふと思う。あの演説を聞いた8家の中の誰かの家で、今夜、平民の家庭教師や、商家出身の家令の扱いが、ほんの少しだけ変わるかもしれない。変わらないかもしれない。けれど石壁に反響したあの声は、もう議事録に残ってしまった。残った声は、消えない。消えない声から、時々、芽が出る。
——教育の種を蒔いたのは、わたくしだけではなかったらしい。
夜、リーゼが密偵調査の中間報告を持ってきた。厩の帳面に、また小さなずれ。「飼葉の減りが、馬の数と合いません」。半年前なら見過ごした種類の、髪の毛ほどのずれ。
戦時の盤は、まだ閉じていない。明日からは、このずれの正体を追う。




