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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第38話「策の果て」

夜明けの砦は、鉄錆と煙の匂いに満ちていた。


 オーベル大尉の正式な被害報告。戦死1名、重傷3名、負傷11名。軽傷は数えていない。ほぼ全員が、どこかしらに傷を負っている。


 1名。


 数字で聞けば、34対200の防衛戦としては「奇跡的」と呼ばれる数字だ。実際、大尉はそう言った。敵の遺棄死体は30を超え、兵力差を思えば歴史に残る防衛戦だと。


 けれど食堂の隅に、布をかけられたひとつの影が横たわっている。その前に立ったとき、数字の意味が変わった。


 ギド・ハルトマン。わたくしが正門から抜いて、北壁へ送った5人のうちの、ひとり。


 昨日の馬房で傷めた伝令馬の脚に膏薬を塗っていた、あの大きな背中の人だと——布の下の輪郭を見て、ようやく結びついた。視察の点検表に「伝令馬3頭、うち1頭脚に故障」と書いたとき、その故障を毎晩手当てしている人がいることを、わたくしは数字の脇に書いていない。


 布の前で、膝が震えた。


「ストラテーガ様。防衛は成功です」


 オーベル大尉の声が、遠い。


「……大尉。ギドさんに、ご家族は」


「妻と、息子がひとり。麓の村に」


 峠のヨハンに、秋の式がある。トーマスに、字を覚えた妹がいる。そしてギドには、今朝から父のいない息子がいる。守っているものの目録と、失ったものの目録は、同じ頁に書かれている。


 朝の食堂は、静かだった。


 生き残った者たちが、黙って薄い豆の煮込みを啜っている。トーマスは無事だ。煤だらけの顔で、それでも椀を両手で抱えて食べている。誰も武勇を語らない。誰も泣かない。ひたすらに、食べる。戦の翌朝とはこういうものかと、わたくしは隅の席で同じ椀を抱えながら思った。生きている者は、食べる。それが何よりの点呼なのだ。


 厨房の女たちは、いつもより豆を多めに炊いたらしい。誰の指示でもなく。鍋の底の増えた分が、あの人たちの弔いの形だった。


 昼前、わたくしはディルクと向き合った。約束の——読み違いの検証である。


 左腕を三角巾で吊ったディルクが、卓に地図を広げる。かすり傷と本人は言ったが、実際は肉のえぐれる深さだったと、リーゼから聞いていた。


「始めるか」


「ええ。わたくしの読み違いは、3つありましたわ」


 指を折る。声が震えないよう、ひとつずつ、ゆっくり。


「1つ。威嚇の作法に沿った集結を見て、敵の手筋を『大規模侵攻か、威嚇のまま撤収か』の2択に絞ったこと。封じられた指揮官が小さく鋭い手に出る分岐を、確率の隅に追いやりました。自分でイグナーツを『待てない型』と分析しておきながら」


「2つ目」


「霧。猟師の網が霧の日に閉じることは、わたくしが設計した仕様でした。仕様は正しい。正しい仕様には、必ず裏側がある——敵に知られれば、そこが攻め口になる。補完の手当てを怠りましたわ。霧の日にだけ、別の目を増やすべきでした」


「待った。2つ目に、補足がある」


 ディルクが地図の峠を指した。


「霧の夜、あなたは峠へも伝令を出した。『陽動の分岐を切り捨てる余裕はない』と。あの判断は、読み違いの逆——読みの網を広げた判断だ。結果として峠は無事だったが、もし本命が峠だったら、あの1騎が辺境を救っていた。検証には、当たった読みも載せろ。外れだけ数える検証は、次の判断を臆病にする」


「……承知しましたわ。『峠への伝令、適切』と」


 失点だけを数えたがる癖も、どうやら前世からの持病らしい。検証とは裁判ではなく棚卸しだと、この軍師は手順で教えてくる。教わった手順は、いつか誰かに渡す手順でもある。そう思って、検証の型を手帳に写した。


「3つ目は」


「……ここに、いたこと」


 ディルクの眉が動いた。


「視察の日程は、議会で公表されていました。辺境伯の参謀と軍師が、揃って最前線の砦にいる夜。イグナーツの側から見れば、200の精鋭を使う価値が砦の戦略的価値に上乗せされた——そういうことではなくて?」


「……可能性は、ある。断定はできないが」


「断定できなくても、勘定には入れますわ。わたくしたちの居場所そのものが、盤上の駒の価値を変える。今後の移動は、公表の範囲と時期を分けます」


 ディルクが小さく頷き、それから、検証の続きではない声で言った。


「3つ並べたな。では俺からも3つ言う。北壁への転進判断——正しい。あれがなければ砦は落ち、死者は1名では済まなかった。瓦礫への切り替えと壁の水——どちらも、あの場で出せる最善だった。そして3つ目」


 灰色の目が、まっすぐにこちらを見た。


「読み違いを3つ、自分で数えられる指揮官は、多くない。大半は、霧のせいにして終わる」


「……慰めなら、結構ですのよ」


「慰めじゃない。査定だ」


 その夜も、眠れなかった。


 目を閉じると、瞼の裏に松明の列が見える。石の落ちる音。叫び。布をかけられた、ひとつの影。


 どれほど横になっていたか。ノックの音で、意識が戻った。


「どうぞ」


 ディルクだった。腕を吊ったまま、入口に立っている。


「眠れなかったか」


「……ええ」


「そうだろうな」


 彼は椅子に座り、窓の外を見た。月の光が差し込んで、埃の粒が宙に浮かんでいる。


「軍師として最初の実戦で、俺は部下を5人失った。20の歳だ。あの夜も眠れなかった。もっといい策があったはずだと、3日考え続けて、飯も喉を通らなかった。——クラウスに言われたよ。『完璧な策はない。あるのは、その時点での最善だけだ』と」


「慰めには、なりませんわね」


「慰めじゃない。事実だ」


 ディルクが視線を戻す。灰色の目に、厳しさと、ほんのわずかな温かさが同居している。


「ギドの死を背負え。それは指揮を執った者の務めだ。だが、背負うことと自分を潰すことは違う。潰れた指揮官は、次の誰かを守れない」


「……ディルク。あなたは、10年前の5人を、いまも覚えていらして?」


「全員の名前を言える」


 即答だった。嘘の気配は、どこにもなかった。


 ふと、思い出す。盤を払い落とされた話をした夜、この人は言った。怒りは棚に上げて鍵をかけた、と。けれど5人の名前には、鍵をかけていないのだ。怒りは仕舞い、名前は仕舞わない。10年かけて作った、喪の作法。今夜のわたくしは、その作法を借りる。借りて、いつか自分の型に直していく。喪というものに既製品はないのだと、布の前で覚えたばかりだから。


 わたくしはカップに残った冷えた茶を飲み干した。苦い。けれど、飲み込めた。


「ギド。32歳。砦勤め7年。馬の世話の名手。妻と、息子がひとり」


「忘れるな」


「忘れませんわ。それから——遺族への扶助を、制度にします。今回限りの見舞金ではなく、恒久の規定として。リーゼと起案しますわ。戦死者の子の、教室の席も」


「……それは、ギドのためか。それとも次の誰かのためか」


「両方ですの。弔いと制度は、両方やって初めて『忘れない』と言えますもの」


 翌朝、リーゼと扶助規定の骨子を立てた。戦死者の遺族に終身の扶助。遺児には教室の優先席と、望めば砦か役所での職。重傷で務めを退く者にも、段階の手当を。リーゼは一度だけペンを止めて、「この規定、平時の兵の募集にも効きます」と言った。それから、もっと小さな声で付け足した。「……第2号の適用が、ないことを祈ります」。祈りと実務を同じ机に載せられる人と、わたくしは働いている。


「ええ。『死んだら終わり』の軍と、『家族は領が守る』の軍では、立つ兵の腰の据わり方が違いますもの。……そういう計算ごと、ギドさんに教わった規定ですわ」


 それから、本部から届いたクラウスの伝令にも、返事を書かなければならなかった。文面は短い。『無事か。敵は何だ。わしは何をすればいい』——3行に、あの人の全部が入っている。


 返信の起案で、わたくしはひとつの方針を決めた。


「この奇襲、外交の武器に変えますわ」


「……ほう」


「イグナーツは交渉継続中の相手に、宣戦布告なしの夜襲をかけた。これは軍事的には小さな失敗ですけれど、政治的には大きな失点ですの。ヴァルハイム外務省は面子を潰され、ラウフェンバッハ卿の『軍は暴走している』という論に、最高の証拠が転がり込んだ。——王都のフリードリヒにも、王家経由でヴァルハイム王宮へ抗議を入れる口実ができましたわ」


「夜襲の請求書を、3方向から送りつけるか」


「ええ。ギドさんの命の値段を、イグナーツの政治生命で払っていただきますの」


 声が、自分でも分かるほど冷えていた。ディルクは何も言わなかった。止めなかった、ということだ。


「ひとつだけ、技術的な注文がある。抗議の文面に『撃退した』と書くな。『防いだ』と書け」


「……違いは」


「『撃退』は武勇で、武勇は反撃の口実を呼ぶ。『防いだ』は被害で、被害は同情を呼ぶ。請求書の宛先は将軍ではなく、将軍の周りの文官たちだ。文官の言葉で書け」


「採用ですわ。——あなた、外交官になれましてよ」


「ならん。3日で胃に穴があく」


 立ち上がる。足はまだ少し震えている。けれど、立てる。


「それと、霧の穴を塞ぎます。霧の日の特別輪番、鈴線の増設、全砦への瓦礫と貯水の常備——昨夜の支払いで買った教訓は、ひとつ残らず制度に変えますわ。もう一度同じ手は、食らいません」


 ディルクが軽く顎を引く。言葉より確かな、承認の仕草。


 扉の前で、彼は一度だけ振り返った。


「ベアトリーチェ。今夜は、眠れ。眠れなくても、横になれ。——盤の前に戻る速度は、こちらで測っている」


 クラウスの流儀の、ディルク版である。測られていると知っていて悪い気がしないのは、測る側の手つきが、信用できるからだった。


 窓の外で、夜の鳥が一羽飛び立つ。枝の揺れる乾いた音。


 策の果てには、いつも人がいる。救えた人と、救えなかった人が。両方を数えられる場所に、わたくしは立ち続けると決めた。


 その両方の名前を抱えて、それでも次の一手を考えるのが——盤の前に座り続けるということなのだ。

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