第37話「退かない理由」
砦の防壁から見下ろす景色は、地獄絵図に近かった。
渓谷の斜面を登ってくるヴァルハイム兵に、南壁の弓兵が矢を射続けている。弦の音、矢が風を裂く音、それに混じる悲鳴と怒号。松明の煙が渓谷に溜まり、視界は断続的に塞がれる。
「南壁、矢の残数は!」
「残り60!」
弓兵のひとりが叫び返す。攻撃開始からまだ一刻も経っていないのに、備蓄の半分以上が消えている。
わたくしは屋上から全体を見渡し、指示を出し続けた。前世の知識が役に立つ場面ではない。早乙女律は研究者であって、指揮官ではなかった。けれどいま、屋上に立てる頭が他にない。ディルクは前線、オーベル大尉は門。なら、わたくしが立つしかない。
立ってみて分かったことがある。指揮とは、判断の連続ではない。判断と判断の間の、何もできない時間の連続だ。指示を出す。伝令が走る。結果が届くまでの数十秒——その数十秒を、悲鳴を聞きながら直立で耐える仕事。机上の演習が教えてくれなかったのは、戦術ではなく、この数十秒の長さだった。
数十秒を測る道具は、屋上にはない。だからわたくしは自分の脈で数えた。脈が速くなれば数え間違える。数え間違えれば判断が狂う。落ち着くために数え、数えるために落ち着く。妙な循環で、頭は冷えていった。
「東の回廊から槍兵を3名、南壁へ。弓兵の間に入れて、壁を越えた敵を突き落とします」
伝令が走る。
搬送路の指定は、早くも効いていた。東階段をトーマスたちの担架が駆け下り、西階段を瓦礫と水が駆け上がる。2本の流れは一度も交わらず、詰まらない。籠城の教科書のいちばん地味な頁が、いちばん人を拾う頁だと——前世の机で読んだだけの知識に、今夜、本物の体重が乗っている。
壁の下では、ヴァルハイム兵が梯子を立てかけ始めていた。岩壁の割れ目に手をかけ、よじ登ってくる者もいる。34対200——全周は、守り切れない。
「北側、梯子2本!」
見張りの声が闇を裂いた。北壁にも敵が回っている。渓谷からの正面は陽動で、本命は北からの浸透か。
判断を迫られる。兵力を割れば各個に潰され、集めれば手薄な壁から抜かれる。
——考えなさい。持っている知識を、全部使いなさい。
籠城の原則。守る側の武器は地形と時間。攻める側は、時間が経つほど消耗する。特に夜の攻城は視界が悪く、指揮が乱れやすい。
「オーベル大尉、正門の守備から5名を抜いて、北壁へ」
「正門が手薄になりますが——」
「正門はこの砦で最も堅い構造です。梯子では越えられない。敵もそれを知っているから、正面には来ません。賭けではなく、構造上の判断ですわ」
大尉が一瞬ためらい、頷いた。
北壁へ走っていく5人の背中を見送りながら、わたくしは拳を握った。爪が掌に食い込む。震えているのは、寒さのせいだけではない。
この判断が間違っていたら、5人が死ぬ。正しくても——死ぬかもしれない。盤の上の5枚ではない。さっき食堂で、同じ豆の煮込みを啜っていた5人だ。
それでも送る。送る判断を遅らせることが、いちばん多く人を死なせる——知識として知っていた文を、今夜、体温で覚え直している。
階下から、金属の衝突音が連続して響いた。南壁を越えた敵と、槍兵の白兵戦が始まっている。
「ストラテーガ様!」
トーマスが駆け上がってきた。頬に煤がつき、手に短剣を握っている。
「南壁の弓兵から伝言です。矢が——矢が、尽きかけています」
残り60と聞いたのは、ついさっきのはずだ。消費が想定を超えている。
「武器庫の予備は」
「20本だけです」
合わせて80。夜明けまで、保たない。
そのとき、東の回廊から叫びが上がった。聞き覚えのある声——ディルク。
駆け寄ると、回廊の角で、ディルクが3人の兵と壁を背にしていた。梯子を越えた敵兵5名と対峙している。彼の左腕の袖が裂け、暗い色で濡れていた。
「下がれ!」
オーベル大尉が槍兵を率いて突入し、敵を押し返す。短い乱戦の末、壁を越えた5名は排除された。
「腕は」
「かすり傷だ。騒ぐな」
ディルクが袖を押さえながら、壁の外を覗く。
「数が減り始めている。あと一刻、凌げれば——」
「退いてくれるかしら」
「夜間攻城の限界だ。日が昇る前に決着がつかなければ、引いて立て直すしかない。それが定石だ」
あと一刻。けれど、矢が尽きる。
「ディルク。矢を節約する方法は」
「射たなければいい。——壁の上から石を落とせ。この砦は岩山の上に建っている。足元の瓦礫を使え」
単純な解だ。単純で、盲点だった。「武器」という棚ばかり探して、足元の岩山を忘れていた。武器とは、敵に届く質量のことだというのに。
「全弓兵に伝達! 矢の使用を中止、瓦礫に切り替え!」
オーベル大尉の号令で、兵たちが壁際の石を抱え上げる。
重い石が落ちる鈍い音。梯子の折れる音。悲鳴。3度目の水が壁を伝い、濡れた岩肌で敵の手が滑る。
それでも攻撃は続いた。壁にかかる手を槍で払い、瓦礫を投げ、松明を蹴り落とす。
トーマスは、負傷者の搬送を任せた。前線に出たがる目をしていたから、先に役を与えたのだ。「運ぶ速さで生存率が変わりますの」と言うと、彼は短剣を鞘に納めて走り出す。それから一刻、あの細い背中は倒れた仲間を4人、矢の届かない場所まで引きずり続けた。
水を運ぶ列は、一度も途切れなかった。列の先頭でリーゼの声がする。「次、3番桶! 空いた者は東へ!」——算盤の速さで人を回す声。彼女の数えた水が壁を濡らし、濡れた壁が敵の手を滑らせ、滑った分だけ、こちらの矢と石が間に合う。
一刻が、永遠に感じられた。時間の感じ方まで、壁の内と外では違うのだろう。あちらにとってこの一刻は、たぶん一瞬で——だからこそ、こちらは長さで勝つしかない。
そして夜明け前の最後の波が、いちばん高い。
敵も分かっているのだ。日が昇れば終わりだと。北壁と南壁に同時に梯子がかかり、瓦礫の在庫が乏しくなり、槍兵の腕が上がらなくなる。オーベル大尉の声が嗄れ、それでも号令は途切れなかった。
わたくしは最後の手札を切った。厨房の鍋という鍋で湯を沸かさせてあったのだ。煮えた湯が壁を伝い、悲鳴が梯子を降りていく。残酷な手だと、手配したときから分かっていた。分かっていて、手配した。この壁の内側の34人と、壁の外の200人の間で、わたくしはとっくに内側を選んでいる。選んだ重さも、湯気と一緒に立ち上っていった。
前世の論文なら、この手は1行で書ける。『防御側は熱湯の使用により城壁の維持に成功した』。1行の外側にあるものを、今夜のわたくしは全部知っている。
やがて——東の空が、かすかに白み始める。
角笛が鳴った。今度は、敵の角笛。撤退の合図。
退いていく敵は、来たときよりはるかに少ない松明で、ずっと遅く歩いていた。あの列のひとつひとつの下にも、人がいる。今夜わたくしが滑らせ、煮え湯を浴びせ、石を落とした人たちが。その勘定を、頭の帳面は几帳面に記録していて、消させてくれない。消えないまま、抱えていくしかないのだろう。ディルクの手帳が10年分そうであるように。
渓谷を下っていく松明の列を見届けたとき、わたくしの膝から力が抜けた。
壁に背を預けて、座り込む。全身に汗が張りつき、夜明け前の風が一気に体温を奪っていく。歯の根が、合わない。
「終わったか」
ディルクが隣に腰を下ろした。左腕に布を巻きながら、長く息を吐く。前線に立ち続けた人の、煤と鉄の匂い。その匂いの主が隣で呼吸をしていることを、わたくしは数秒かけて、確かめるように聞いていた。
「敵は引いた。だが、再攻撃の目はある。霧がまた出れば」
「いいえ。来ませんわ、たぶん」
「根拠は」
「奇襲は、奇襲だから安かったの。失敗した奇襲のやり直しは、ただの攻城戦。200では足りないし、本隊を回せば『戦争を始めた』ことになる。イグナーツが欲しかったのは安い既成事実で——今夜、それは高くつくと学習したはずですわ」
「……戦いながら、そこまで回していたか」
「回すしか、できることがありませんでしたもの。剣は、振れませんし」
「退くわけには、いかなかったのよ」
自分の声が、掠れているのが分かった。
「ここを失えば、辺境が裸になる。トーマスの妹の村が、何もない野原に変わる。それに——ここが落ちれば、戦争が『始まってしまう』。イグナーツが欲しいのは砦ではなく、後戻りできない既成事実ですもの」
「ああ。だから、今夜こちらが守り切った意味は、砦ひとつ分ではない」
ディルクが何も言わずに、白み始めた空を見る。わたくしも見る。砦の下からは、負傷者を運ぶ声。水を求める声。仲間の名を呼ぶ声。
報告は、夜が明け切ってから届いた。
負傷、11名。うち重傷3名。そして——戦死、1名。
北壁で梯子を押し返した兵のひとり。わたくしが正門から抜いて、北へ送った5人のうちの、ひとりだった。名はギド。32歳。砦勤め7年。馬の世話が巧くて、傷めた伝令馬の脚を毎晩診ていた人だと、オーベル大尉が教えてくれた。
馬の世話の巧い人。伝令馬の脚。それだけの情報が、夜のうちに「兵員34分の1」だった人を、二度と戻れない形に変えていく。知らなければ軽かった。知ってしまえば重い。重いほうを選んだのは、わたくし自身だ。
「あなたの判断は正しかった」
ディルクが言った。
「北壁を抜かれていれば、死者は1名では済まなかった。10名でも済まない」
「ええ。……ええ、分かっていますわ。計算は、合っています」
計算は合っている。それでも、ギドという名前は、もう帳面の「兵員34」の中に戻らない。計算の後に名前を思い出す——その順番を守った結果がこれなら、順番を守るとは、こういう重さを引き受け続けるという意味なのだ。
夜が明けた。砦は、立っている。
けれど、これは終わりではない。始まりですらない。——始まらせないための戦いが、今夜から本当に始まるのだ。




