第36話「奇襲の夜」
それは、砦を発つ予定の前日の夜だった。
就寝前のリーゼとの打ち合わせを終え、あてがわれた小部屋の寝台に横になる。毛布は薄く、壁の隙間から風が吹き込んで、爪先が冷えた。それでも1日歩き回った疲労が勝って、意識がぼんやり沈み始める。
夕方から、谷に霧が出ていた。濃い、白い霧。ブルーノの言葉を思い出しながら、わたくしは眠りに落ちた。霧の日は、山の民は動かない——。
角笛が鳴ったのは、その直後だった。
甲高い、3度の長音。緊急を知らせる信号。
身体が先に動いた。寝台から跳ね起き、外套を掴んで部屋を飛び出す。廊下ではすでに兵たちが走り回り、松明の火が壁の影を乱暴に踊らせていた。
「何が起きた!」
オーベル大尉の怒声が響く。
「南壁の哨戒から報告! ヴァルハイム軍、推定200が渓谷を越えて接近中! 距離、すでに半里を切っています!」
200。砦の守備は30。視察団の護衛を足しても34。
ディルクが廊下の向こうから駆けてきた。眼鏡はかけているが、上着は羽織っただけ。それでも目は、完全に覚めている。
「発見が遅い。渓谷の通過には最低4時間かかる。哨戒が4時間、気づかなかったのか」
「霧です」
オーベル大尉が歯噛みした。
「夕方から谷が霧で。視界が利かず——」
霧。
その一語が、わたくしの腹の底を刺した。
霧の日は、報せを期待しない。霧の日に無理をさせる仕組みにはしない——猟師の帳面の取り決めは、わたくし自身の設計だ。山の掟として、正しい設計。そして敵は、その正しさの裏側を正確に突いてきた。霧の夜は、こちらの目と耳が約束通りに閉じる夜だと、知った上で。
設計の正しさと、設計の死角は、同じ紙の裏表に印刷されている。裏返して読む癖を、敵将のほうが先に持っていた。授業料は、これから夜明けまでかけて払うことになる。
いいえ——それだけではない。
わたくしの読みそのものが、外れていた。集結は昼間、隊列は堂々。威嚇の作法。王都の牽制で会議は重くなり、雨季の砂時計が彼を縛る。だから大規模な侵攻はまだ先——そう読んだ。読み自体は、たぶん正しい。正しいまま、見落としていた。大きな手を封じられた攻撃的な指揮官が、小さくて鋭い手に出る分岐を。追い詰められた獣がいちばん危ないと、自分の口で言ったくせに。
「ベアトリーチェ」
ディルクの声が、思考の渦を断ち切った。
「自分を裁くのは後だ。いまは目の前の200を裁け」
「——ええ」
息をひとつ。声を、紅茶の温度に戻す。
「オーベル大尉、門の封鎖を。それから伝令を1騎、いま、峠へ。グルント峠にも同時刻の圧力がかかる可能性があります。ヨハンたちに、霧の側を向かせて」
「峠にも、ですか」
「来ない可能性のほうが高い。けれど、ここが陽動で峠が本命という分岐を、この霧の夜に切り捨てる余裕はありませんわ」
「承知!」
「ディルク、防衛配置を」
「南壁に弓兵10。東の回廊に槍兵8。残りは正門だ。渓谷側から来るなら、登坂中の敵を上から射る形になる。地形の利はこちらにある」
「付け加えますわ。視察団の護衛4騎は、遊軍に。配置を固定せず、破られかけた場所へ回す消火役。それから——負傷者の搬送路を、いま決めておきます。東階段は搬送専用、西階段は補給専用。すれ違いで詰まった廊下は、それだけで人を殺しますの」
オーベル大尉が一瞬だけ目を見開き、それから大声で復唱した。籠城の教科書のいちばん地味な頁が、いちばん人命を拾う頁だ。前世の机で読んだだけの知識に、今夜、初めて本物の体重が乗る。
兵たちが散っていく。動きは速い。日々の訓練が、こういう夜のためにある。訓練の費目に渋い顔をした半年前の自分がいたら、今夜の廊下を見せてやりたい。
階下では、リーゼがすでに動いていた。厨房の女たちと砦付きの老従卒——戦えない者たちを貯水槽の脇に集め、水汲みと瓦礫運びの列を組んでいる。誰の指示でもない。「籠城の献立表」を作った人間は、籠城の人員表も頭に入れていたのだ。
「リーゼ。あなたは地下の倉へ。記録と帳簿を抱えて」
「お断りします。水の列に、数を数える者が要ります」
言い合う時間が惜しかった。それに——正しいのは、彼女のほうだ。
わたくしは屋上へ上がる。霧の薄れた闇の中、渓谷の方角に松明の列が見える。蛍のように揺れる、無数の火。近づいてくる。
その光景に、胃の奥が冷えた。
書類の上の「敵兵力200」と、闇の中で実際に迫る松明の列は、まるで別物だ。数字は恐怖を運ばない。けれどいま、あのひとつひとつの灯りの下に、武器を持った人間がいる。こちらの壁の上にも——手紙を書きかけの二十歳が、いる。
数字が恐怖を運ばないのは、数字の欠陥ではない。数字を運ぶ側の、想像力の欠陥だ。前世の論文の自分に、いまなら赤を入れられる。
「リーゼ」
「はい」
いつの間にか、隣に立っていた。表情は固い。それでも手には、伝令用の書付がもう挟まれている。
「伝令馬を1頭、本部へ。クラウスに状況を。もう1頭は——」
「東の中継拠点に。援軍要請ですね」
「ええ。ただし、援軍が届くまで最短2日。それまでは——」
「この34名で、持ちこたえる」
リーゼが頷き、階段を駆け下りていった。
頭の中で、盤面を回す。敵の狙いは何か。200で砦は落とせるか——落とせる。30の砦なら。落として、何を得るか。辺境の防衛線の要、王都への外聞、そして交渉の卓をひっくり返す既成事実。イグナーツは戦争を始めたいのではない。「始まってしまった」状態を作りたいのだ。後戻りの利かない一点を、先に打ってしまいたい。
胸の奥で、恐怖が定位置に座ろうとする。座らせてから、働かせる。怖いからこそ頭が回る——いつかディルクに言った台詞を、今夜は自分に処方する番だった。
なら、敵が知らない数字がこちらに2つある。
1つ、この砦の守備が「30」ではなく「34」であること。視察団の4騎は、ディルクが選んだ精鋭だ。1割の上積みは、夜の白兵では1割以上に働く。2つ——この砦に、いま軍師と参謀がいること。イグナーツの作戦図のエルスト砦に、その2枚の駒は描かれていないはずだ。描かれていない駒は、盤の上でいちばん高く働く。皮肉なことに、わたくしたちの存在が砦の的としての価値を上げ、同時に守りの値も上げている。
差し引きがどちらに振れるかは——夜明けに分かる。
角笛から、まだ四半刻も経っていない。なのに昨日の昼の、豆の煮込みと樽の笑い話が、もう遠い国の記憶のようだった。平時と戦時の間の壁は、地図のどの国境線より薄くて、越えるのに1秒もかからない。その1秒を遅らせるために、わたくしたちは半年働いてきたのだ。今夜を凌いだら、また、その仕事に戻る。
だとすれば、この砦を守り切ることの意味は、砦ひとつ分ではない。戦争そのものの入り口を、ここで閉じられるかどうかだ。
砦の下で、最初の矢が放たれた。弦の音が夜気を裂き、続いて金属のぶつかる鈍い音。短い叫び。
始まった。望まなかった夜が、それでも、来てしまった以上は——指し切るだけだ。
屋上から見る戦場は、奇妙なほどチェスに似ていて、決定的に似ていなかった。駒の配置、進路、交換——構造は同じ。違うのは音だ。盤の上の駒は、ぶつかってもコツリとしか鳴らない。本物の駒は、ぶつかると人間の声で鳴る。
その声を聞きながら頭を冷たく保つ訓練を、わたくしは受けていない。受けていないなら、いまここで身につけるしかなかった。深呼吸をひとつ。盤を見る目で、壁を見る。
ディルクが屋上に上がってきた。髪が風に乱れ、レンズに松明の火が映り込んでいる。
「読み違えの検証は後で付き合う。いまは聞け。俺は前線に出る」
「待って。あなたは——」
「軍師が前線に出るのは邪道だ。分かっている。だが34で200を凌ぐには、現場で判断を変え続けるしかない。配置図の通りに戦える夜じゃない」
反論の言葉を、わたくしは持っていなかった。代わりに、別の言葉を渡す。
「南壁の弓は、敵の2列目を狙わせて。1列目は登坂で勝手に消耗します。それから——夜明けまでに3度、貯水槽の水を壁にかけて。岩肌が濡れれば、登攀の速度は半分に落ちますわ」
「……それは使える。採用だ」
ディルクが背を向ける。その肩に、声をかけた。
「——必ず、戻ってくださいまし」
振り返らない。けれど足が一瞬止まり、小さく頷いたのが見えた。
階段を駆け下りていく足音。それから、彼の声が前線の喧噪に混ざって、聞こえなくなる。
屋上から、敵の松明の流れを読む。
列の進みが、左右で揃っていない。右翼が速く、左翼が遅い。地形のせいではない——指揮の音が、届いていないのだ。夜と霧は、攻める側の目と耳も塞ぐ。200の精鋭といえど、闇の中では200の別々の人間になる。
「伝令! 南壁の弓は、右翼の先頭集団に集中と伝えて。速い側を叩けば、遅い側はさらに待ちますわ。敵の足並みの乱れは、こちらの増援と同じ価値ですの」
兵が駆け下りていく。わたくしは屋上の縁に手を置いた。石が、夜気で氷のように冷たい。
読みは外れた。霧は晴れない。敵は6倍。手元に残っているのは、地形と、水と、34人の名前と——夜明けまでの時間だけ。
ならば、それで指す。
手すりを握る手に、何か硬いものが触れた。手袋の内側——ピアの白い小石だった。いちばん強い石。あの日から、ずっとここにいたのだ。
「……あなたの出番は、まだ先よ」
小石に向かって、そう囁いた。験を担ぐ趣味はない。ないけれど、握った拳の中の小さな硬さが、今夜だけは計算より頼もしかった。お守りの効能を信じたわけではない。信じている人の顔を覚えているだけだ。覚えている顔の数が、たぶん、今夜のわたくしの本当の装備である。
闇の中で、松明の列が砦の壁に取りつき始めた。
——終わらせない。この砦も、ここにいる人も、誰ひとり。




