第35話「砦の灯り」
エルスト砦まで、馬車で丸2日。
防衛費の再配分を実行するにあたって、現地の視察は欠かせなかった。書類の上の数字と現実は違う。前世で嫌というほど思い知らされた教訓だ。それに——国境の向こうに3000がいる今、最前線の実情を見ずに配備を語る資格は、誰にもない。
道中の2日間は、半年分の答え合わせでもあった。
街道沿いの畑には、新しく拓かれた区画が増えていた。開墾免税の3年を当て込んだ畑だ。エルベン村の市には行商の荷が2つ、フェルデン村の納屋からは、子どもたちが文字を唱える声。半年前のわたくしが馬車の窓から見た「痩せていく辺境」は、少なくとも逆向きに動き始めている。
「半年前、この道で女将が嘆いていましたのよ。商隊が月に1組来ればいいほう、と」
「いまは週に2組だ。桟道が馬車を通すようになってからな」
守るものの目録が、また少し長くなった。長くなった目録を抱えて、最前線へ向かう。
砦は、岩山の中腹に張りつくようにして建っていた。
石壁は風雨に削られ、ところどころひびが走っている。正門の紋章は半分欠け落ち、残った半分にも苔が這う。防壁の上の見張りが2名、こちらの馬車を認めて姿勢を正した。
「辺境伯参謀、ベアトリーチェ・ストラテーガ様、並びにヴォルフ軍師がご到着です」
リーゼが声を張る。護衛4名を含めて、総勢7名の小さな視察団だ。
砦に入ると、焼いた麦と獣脂の匂いが鼻をついた。食堂を兼ねた広間に、兵たちが集まっている。
30名ほど。装備は擦り切れ、革鎧の留め具が壊れたまま針金で応急処置されているものもある。けれど表情は暗くない。むしろ来客を珍しがる、好奇心の混じった目でこちらを見ている。
指揮官のオーベル大尉が出迎えてくれた。40代の日焼けした男で、右頬に古い刀傷がある。
「ようこそ、こんな辺鄙な場所まで。正直、本部から人が来るのは3年ぶりです」
「3年も、視察がなかったんですの」
「はい。予算の報告書を送るだけで、現地の確認は省略されとりました」
ディルクが無言で砦の壁を見上げている。灰色の目が、ひび割れをひとつずつ数えるように動いた。
砦の中を歩くと、兵たちの目がわたくしたちを追った。値踏みの目ではない。期待と、期待することへのためらいが半々の目だ。3年間来なかった「本部の人間」が、何を持ってきたのか。手ぶらの視察なら、期待した分だけ傷が増える——そういう計算を、辺境の兵は身体で知っている。
だからこそ、帰る前に最初の発注を済ませると決めていた。視察とは、見ることではなく、見た責任を取ることだ。
視察は、半日かけて行った。
防壁の状態、武器庫の在庫、食糧の備蓄、水源、伝令馬の頭数。わたくしが点検の項目を読み上げ、リーゼが現状を記録し、ディルクが軍事的な評価を添えていく。
馬房では、大柄な兵がひとり、伝令馬の脚に膏薬を塗っていた。手つきが医者のそれで、馬のほうも全幅の信頼で脚を預けている。「故障1頭」と記録した数字の隣に、こういう手があるのだ。点検表は、いつも手の存在を書き漏らす。
結果は、想像より厳しかった。
矢の備蓄は定数の4割。寒期用の毛皮外套は人数分に足りず、兵たちは2人で1枚を回している。伝令馬は3頭のうち1頭が脚を傷めて、実質2頭。ここから砦の異変が本部に届くまで、最低2日かかる計算だ。
「これでは、奇襲を受けたら——」
「3日、持たない」
ディルクが短く言い切る。オーベル大尉に、反論の色はない。代わりに、低い声が返った。
「3年前から、報告書には書いとります。『矢が足りん』と。毎年同じ文面で」
3年間、同じ文面で却下されてきた報告書。ディルクの顔は動かなかったけれど、動かないことが、何よりの返事だった。書く側も読まれない側も、この10年、同じ壁の前にいたのだ。
「大尉。今年の報告書は、読まれましたわ。だから、わたくしたちがここにいますの」
「新しい予算の最優先は、ここですわ。矢、外套、馬、そして例の中継拠点。リーゼ、発注の起案を今夜中に」
「砦で起案して、今夜の伝令に託します。本部の倉に在庫のある分だけでも、先行で回させましょう」
夕刻、兵たちと同じ食事をとった。黒パンと豆の煮込み。塩味は薄く、肉の姿はない。けれど温かい。冷えた身体に、湯気が沁みた。
食事の席で、オーベル大尉の頬の刀傷の由来を聞いた。20年前の盗賊討伐で、隊列の最後尾の新兵を庇った傷だという。
「その新兵は」
「いまは麓の村で鍛冶をやっとります。毎年、収穫祭に酒を持ってきよる。20年分で樽が20——飲み切れんですよ」
大尉は笑い、兵たちも笑った。この砦の30名は、そういう樽の数で繋がっている。兵力表の「30」という数字の中身を、わたくしはまたひとつ知ってしまった。知るたびに、盤が重くなる。重くなるほうへ、自分から歩いている自覚はある。
視察団に上等な皿を出そうとしたオーベル大尉を、わたくしは止めた。同じ釜の味を知らずに帰ったら、何のための2日の道のりか分からない。この豆の煮込みの薄さも、報告書に載るべき数字なのだ。
食堂の隅で、若い兵が手紙を書いていた。羊皮紙ではなく、薄い布の切れ端に。インクの代わりに、炭を水で溶いたもので。
「ご家族に?」
声をかけると、兵は驚いたように顔を上げた。二十歳前後。頬にあどけなさが残っている。
「は、はい。妹に。字を覚えたてなもので、読めるかどうか怪しいんですが」
「拝見しても? ——あら。この字、ヴィム爺の教え方ですわね。『と』の結びに癖が出るの」
「えっ。先生をご存じで?」
「教師の選定に、少しだけ関わりましたの」
トーマスの顔が、ぱっと明るくなった。教室の話を、彼は妹の手紙の文面ごと暗記するほど読み返しているらしい。盾の黒板の話。地図を最後に習う話。国境の砦に、教室の話が手紙で届いている。設計したどの効果測定にも載らない、その事実だけで、あの予算は元が取れたと思った。
「お名前は」
「トーマスです。トーマス・ベッカー」
「妹さんは、お近くにいらっしゃるの?」
「麓の村に。教室ってのができたそうで、妹のほうが俺より字がうまくなっちまって」
トーマスが笑う。欠けた前歯が見えた。
「ここの暮らしは、大変でしょう」
「いえ——まあ、寒いのと飯が薄いのはキツいですが。仲間がいますから。それに、ここを守らなきゃ、後ろの村がやられちまう。妹も、そこにいるんです」
胸の奥が、きゅっと締まった。
この子は、国のためにここにいるのではない。妹のためだ。紋章でも誇りでも俸給でもなく、字を覚えたてのたったひとりの家族のために、矢が定数の4割しかない砦に立っている。
夜。砦の屋上に出ると、星が異常なほど近かった。
王都では見えない光の粒が、空一面に散っている。風が頬を切り、耳の先が痛い。
ディルクが隣に来た。無言で、夜空を見上げている。
「地図の上では、この砦は駒のひとつですわ。盤の隅のルーク。失えば防衛線が崩れる、戦略上の要点——そう書いて、そう扱ってきました」
「実際、その通りだ」
「ええ。その通りで——そのルークの中で、二十歳の子が、炭を溶いたインクで妹に手紙を書いていますの」
ディルクが視線をこちらに向けた。眼鏡に星明かりが映り込む。
「戦略家がそれを言うのか。感情で判断すれば、盤面を読み誤るぞ」
「感情ではありませんわ。現実ですの。トーマス・ベッカーが妹のために国境に立っている——その事実を勘定に入れない戦略こそ、机上の空論ですわ。兵の士気とは、つまりああいう手紙の枚数のことですもの」
ディルクは眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。手元を見つめたまま、低い声で言う。
「……俺が15で軍学書にのめり込んだ理由も、似たようなものだ。家を出た2年後、故郷の村が国境の小競り合いの巻き添えで焼けた。家族は無事だったが、隣の家は——そうじゃなかった。二度と繰り返させないために、この道を選んだ」
初めて聞く話だった。この人の過去の扉が、ほんの少しだけ、また開いている。
「だから、あなたの言うことは分かる。分かるからこそ、危ういとも言っておく。守りたいものの顔が見えるほど、判断は鈍る。鈍った判断は、守りたいものごと失わせる」
「では、どうすれば」
「守りたいものを忘れるな。だが、守り方は冷徹に選べ。——順番の問題だ。あなたが前に言った通りだよ。計算の後に、名前を思い出す。逆にしてはいけないだけだ」
ディルクが眼鏡をかけ直す。星明かりの下で、灰色の目が静かに光った。
しばらく、ふたりで星を見ていた。
「ねえ、ディルク。眼鏡を作り直す前のあなたには、この星空はどう見えていましたの」
「……白い砂を撒いたようには、見えていた。粒は、分からなかった」
「いまは」
「数えられる。数える気は起きないほど、ある」
遠くの山に木が1本ずつ生えていることを知った人は、空に星が1粒ずつあることも知ったのだ。世界の解像度が上がるというのは、守るものの数が増えるということと、たぶん同義である。
砦の窓から、食堂の灯りが漏れている。トーマスは、まだ手紙を書いているだろうか。布の切れ端の、炭の文字。教室帰りの妹が、指でなぞって読む文字。
——あの灯りを、消させるわけにはいかない。
盤の隅のルークに灯りがともっていることを、わたくしは知ってしまった。知ってしまった駒は、もう、ただの駒には戻せないのだった。




