第34話「差別の壁」
議会の翌日、臨時の防衛会議が開かれた。
防衛費の増額が通った以上、次は具体的な配備計画を詰める番だ。クラウスの命で、ディルクが軍事顧問として正式に議場へ呼ばれていた。
わたくしは傍聴席から見守る形を選んだ。ディルクの分析を8家の前で見せれば、彼の立場はもう一段固まる。そう考えての配置だった。
始まりは、順調に見えた。
ディルクが壁に地図を広げ、国境の防衛線を説明していく。指し棒で、敵の予想侵攻路と迎撃地点を淡々と示す。
「北の峠と渓谷を第1防衛線とし、東の川筋に沿って第2防衛線を構築します。敵の兵力を分散させ——」
「待たれよ」
遮ったのは、8家の末席、ハイデン子爵。先日の議会には代理を寄越した若い貴族で、顔を見るのは今日が初めてだ。金の刺繍の上着、磨き上げた長靴、指の紋章の指輪が暖炉の火を弾いている。
「軍師殿。出自をお聞きしても?」
議場の空気が、変わった。
ディルクの手が、一瞬だけ止まる。
「平民です」
「ほう。平民風情が、貴族の議場で国防を語るとは」
声に、悪意がある。隠す気もない笑みで、周囲の視線を集めようとしている。
議場は、静まり返ったままだった。同調する者はいない。けれど、止める者もいない。沈黙とは、こういうとき、いつも刃の側に貸し出される。15年間ディルクの前で繰り返されてきたのは、たぶん罵声そのものより、この種の沈黙だったのだろう。
沈黙の質量を測りながら、わたくしは自分の鼓動を数えていた。3つ数える間、誰も動かなかった。4つ目で、わたくしの膝が立つ準備を終える。
「辺境伯閣下。いくら人手不足とはいえ、平民の軍師に国防を委ねるのはいかがなものか。血統もなく、騎士の教育も受けておらぬ者が——」
「ハイデン子爵」
わたくしの声は、自分で思ったより硬かった。
立ち上がる半瞬の間に、頭の冷たい部分が計算を済ませている。ここで黙れば、議場は「平民の軍師は庇う価値もない」と学習する。ディルク自身に反論させれば、「生意気な平民」の燃料になる。クラウスが怒鳴れば、「辺境伯は平民に篭絡された」と王都へ流れる。最適手は、第三者であるわたくしが、感情ではなく事実で潰すこと——計算は、そこまでで止めた。残りの半瞬は、純粋に腹が立っていた。
傍聴席から、立ち上がる。本来、傍聴者に発言権はない。けれど議場の誰も、わたくしを止めなかった。
「発言の許可を——」
「いただいておりませんわね。ですが、事実の訂正は許可を要しないかと存じますの」
ハイデンの眉が跳ね上がった。
「事実を申し上げますわ。この5年間の、辺境の国境案件をご存じかしら」
議場の中央へ歩み出る。靴音が石の床に響き、冷えた空気が頬を刺した。
歩きながら、視界の端でディルクを確かめる。彼は指し棒を下ろし、地図の脇に立ったまま動かない。止めてくれとも続けてくれとも言わない顔。15年この場面を、彼はいつもひとりで通ってきた。今日だけは、通らせない。
「国境の緊張案件、17件。うち12件は、ヴォルフ軍師の立案により、戦闘に至る前に収束しています。睨み合いの解きほぐし、越境部隊への先回り、補給を断っての自然退去——血を流さず収めた12件ですわ。残る5件のうち3件は膠着のまま凍結、2件は辺境伯閣下のご判断で回避」
資料は手元にない。すべて記憶からだ。リーゼのまとめた過去の戦績報告を、昨夜のうちに頭へ叩き込んでおいた。こういう日が来る予感が、していたから。予感の名前は、経験という。社交界の茶会で、出自の槍が誰かに刺さる場面を、わたくしは数え切れないほど見てきた。槍の軌道は、どの広間でも同じだ。
「一昨年の冬には、300からなる武装盗賊団の襲撃を、120の兵で掃討しています。兵力差2.5倍。それを覆したのは、ヴォルフ軍師の渓谷の地形を使った迎撃計画——しかも、辺境側の戦死者はゼロですわ」
ハイデンの顔から、余裕が剥がれ始める。
「血統で、戦は勝てませんの。紋章の指輪で敵の矢を弾けるなら、話は別ですけれど」
議場のどこかで、かすかな笑いが漏れた。シュタイン伯の方向だ。
「それに、ハイデン子爵。騎士の教育とおっしゃいましたわね。騎士の教育の中身は、剣と馬と——戦史と地形学ですわ。ヴォルフ軍師は後の2つを独学で修め、前の2つを使わずに17件を収めた。教育の名簿に載っていないだけで、教育の中身そのものは、この議場の誰より修めていらっしゃいますのよ」
「ハイデン子爵。この方の頭脳が、5年間この国境を守ってきました。平民か貴族かではなく——結果を、ご覧になって」
沈黙が落ちた。
ハイデンは唇を引き結び、何か言い返しかけて、やめた。視線を逸らし、椅子に深く座り直す。
クラウスが咳払いをして、場を収めた。
「では、ヴォルフ軍師。続きを頼む」
ディルクが指し棒を取り直す。表情は変わらない。灰色の目は地図だけを見ている。何も感じていないように、見える。
けれど、わたくしは気づいていた。指し棒を握る手の、かすかな震えに。あの震えは怒りではない。怒りなら、この人はとっくに棚へ上げて鍵をかけている。あれはたぶん——15年分の既視感が、骨に触れた音だ。
会議の残りは、何事もなく進んだ。
ディルクの配備案は、聞けば聞くほどよく出来ていた。8家それぞれの領兵を、得意と地縁で割り振る。山に強いシュタイン領の兵は峠の支援に、騎馬の多い北部の家は伝令網に、人数だけは多いヴェーバー領の兵は後方の輸送に。誰の面子も潰さず、誰の兵も死地に置かず、それでいて全体としては隙のない網になっている。
「ヴォルフ軍師。我が領の兵に、峠の冬装備はあるのか」
シュタイン伯の問いに、ディルクは即答した。
「ありません。ですから峠の支援は雨季前までの輪番とし、冬装備は新予算で年内に整えます。装備のない兵を山に置く配置は、組んでいません」
シュタイン伯は深く頷き、具体的な兵の融通まで申し出た。武人は、兵を粗末にしない計画を一目で見分ける。ハイデンは最後まで、一言も発しなかった。発しない声にも、種類がある。学んだ沈黙か、拗ねた沈黙か。見分けは次の議場でつくだろう。どちらでも、配備案は今日、通った。
散会の間際、リーゼがそっと議事録を見せてくる。ハイデン子爵の発言の欄には、こうあった。『ハイデン子爵より、軍事顧問の経歴について質疑。ストラテーガ参謀より、過去5年の戦績17件の詳細をもって回答』。
悪意は記録に残さず、事実だけを残す。この秘書の議事録は、それ自体がひとつの政治文書だった。書き手の品性は、消した行に出る。リーゼの頁は、今日もどこより静かで、どこより鋭い。
散会後、クラウスがわたくしの横に立った。
「お嬢。助かった。——が、ひとつ教えとく。ハイデンの家はな、母方が王都の宮廷貴族と繋がっとる。今日のことは、ひと月後には王都の茶会の噂話だ」
「存じておりますわ。ですから、ああいう言い方をしましたの」
「ん?」
「『平民の軍師を、断罪された令嬢が庇った』では、王都向けの醜聞ですわ。でも『戦績17件の軍師に、紋章の指輪では矢を弾けないと言った』なら——茶会で笑うのは、ハイデン子爵のほうですもの。噂は、王都へ流れる前に味付けしておくに限りますわ」
「……お嬢は、敵に回したくないのう」
2度目のその台詞を、わたくしはありがたく頂戴しておいた。
夕刻、廊下の窓辺に立っていると、背後に足音が聞こえた。振り返らなくても分かる。革靴の、硬い音。
「余計なことを」
ディルクの声は平坦だ。怒りなのか、照れなのか、判別がつかない。
「事実を述べただけですわ」
「俺は、自分で——」
「ええ、ご自分で対処できたでしょう。15年、そうしてこられたのですもの。でも」
振り返る。ディルクが眼鏡の奥で、わずかに目を見開いた。
「対処できることと、対処させられ続けていいことは、別ですわ。才能は出自を選びません。それを認められない側こそが、よほど無能ですのよ。——わたくしは、無能の発言を訂正しただけ」
風が窓から吹き込んで、髪を揺らした。ディルクは何も言わない。
言わない数秒の間に、わたくしは気づいてしまった。この人は、礼の言い方を知らないのではない。庇われた経験の側が、足りないのだ。嘲られたときの受け流し方は15年かけて極めたのに、隣に立たれたときの作法だけ、持ち合わせがない。
数秒の沈黙のあと、彼は背を向けた。
「……紋章の指輪で矢を弾く、か」
肩越しに、声だけが届く。
「悪くない切り返しだった」
足音が遠ざかっていく。
わたくしは息を吐いて、窓枠に手をかけた。石の冷たさが、掌に染みる。
——差別は、数字では消せない。17件の戦績を並べても、ハイデンのような目は明日も議場のどこかにある。あの目は、ディルクが何を成しても見ない。何者であるかしか、見ないから。
それでも、声を上げることはできる。盤を払い落とされた人の隣で、今度は払い落とさせない側に立つことは。
今日のは、その一歩目にすぎない。一歩目にしては、悪くない踏み込みだったと思うけれど。
その夜、チェス盤の前で、ディルクは一手目を指す前に言った。
「ひとつ、聞いておく。昼のあれは——計算か」
「半分は。あそこで潰しておかないと、議場が『平民は庇う価値がない』と学習しますもの。残りの半分は」
「半分は」
「ただ、腹が立ちましたの。盤を払い落とす側の、あの手つきに」
ディルクは黙って、e4にポーンを進めた。いつもの開局、いつもの夜。けれど今夜の駒音は、心なしか柔らかい。
15年前に払い落とされた駒たちが、今夜は誰にも払われずに、盤の上に立っている。手彫りのキングが、蝋燭の灯りの中で泰然と座っている。差別は今日も消えなかった。消えなかったけれど——この盤の上の景色を守る側の人間が、ひとり増えた。今夜のところは、その勘定で帳を閉じることにする。




