第33話「全会一致」
辺境の領内議会は、月に一度、砦の大広間で開かれる。
石壁に掛かった獣の剥製が見下ろす議場に、革張りの椅子が半円に並び、グラオヴァルト領を構成する8家の当主——あるいは代理人——が着席する。暖炉の煙が梁に沿って流れ、部屋全体がうっすら白く霞んでいた。
今日の議題は、国境防衛費の増額。国境の向こうに3000の兵が立っているいま、これ以上ない実戦的な議題である。実戦的だからといって、すんなり通るわけではないのが、議会というものだけれど。
議場というのも、ひとつの盤だ。8家の当主が8つの駒で、それぞれに利害という動き方の決まりがある。違うのは、チェスの駒は黙って動くが、議場の駒は喋ることだった。喋る駒は、説得できる。そこだけは、こちらの盤より良心的にできている。
前夜、クラウスとは予行演習をした。
「わしの台詞は」
「『防衛費を倍にしたい。理由はベアトリーチェが説明する』。以上ですわ」
「短いのう。もうちっと格好のつく口上は」
「短いから格好がつきますのよ。長い説明は、自信のない者の癖と読まれますの。数字の説明で恥をかく役は、わたくしが引き受けますわ」
「恥をかく前提か」
「議会で数字を出す者は、必ず一度は恥のふちを歩きますの。歩き慣れている者がやるべきですわ」
「辺境伯閣下、正気でおられるか。防衛費を倍にせよと?」
真っ先に声を上げたのは、南部のヴェーバー男爵。50過ぎの痩せた男で、金勘定には聡く、軍事には疎い。
クラウスが咳払いをした。
「うむ。その、つまりだな——」
目が、こちらに助けを求めてくる。豪快で人のいい武人だけれど、議場の論戦は彼の戦場ではない。わたくしは頷いて、席を立った。
「ベアトリーチェ。発言を許可する」
クラウスの声に、議場が静まり返る。断罪された元公爵令嬢が、辺境伯の参謀として議場に立つ——この光景そのものが、8家にとっては異物なのだ。
案の定、ヴェーバー男爵が鼻を鳴らした。
「王都を追われた御仁の数字を、我らに信じろと仰るか」
議場の空気が、一段冷えた。クラウスの眉が逆立つ気配がしたので、その半瞬前に、わたくしは口を開く。
「ご懸念はもっともですわ、男爵。ですから本日は、わたくしを信じていただく必要のない資料をご用意しましたの。——数字は、出自を問いませんもの」
リーゼが各家の机に紙束を配っていく。1週間かけてまとめた分析資料。ヴァルハイム軍の配置、過去10年の国境紛争の推移、領の税収、防衛費の内訳。すべて出典つき、すべて検算可能。
配り終えたリーゼが、わたくしの斜め後ろに控える。資料には彼女のひと工夫があった。各家に渡す写しの表紙に、その家の領地の地図と、最寄りの国境までの距離が書いてあるのだ。「3000の兵」と「自分の畑までの里程」が同じ頁にあると、人は資料を読む速さが変わる。
「現在の国境防衛費は、年間1万2000リーグ。5年前の水準のまま据え置かれています」
壁に貼った大判の図表を指す。リーゼ謹製、色分けの棒グラフだ。
「一方、ヴァルハイムの軍事費は同じ5年で2.3倍。この差をこのまま放置すれば、3年以内に国境の均衡は崩れます。——いえ、訂正しますわ。すでに崩れかけているからこそ、国境の向こうに3000の兵が立っていますの」
ヴェーバー男爵が資料をめくりながら、眉をしかめる。
「数字は結構。だが、財源はどこから出す。我が領はすでに税収の3割を辺境伯家に納めておる。これ以上の負担は、民が耐えられん」
予想通りの反論だ。頁を指定する。
「資料の7頁をご覧くださいまし。現防衛費の内訳を洗ったところ、3割が旧式装備と遊休拠点の維持に流れています。使われていない砦の補修に年間800リーグ。10年前から見直されていない巡回路の人件費に1200リーグ」
議場がざわめいた。
「つまり予算の3割は、戦略的に意味のない支出ですの。これを組み替えれば、新規の増額は6000リーグで済みます。各家の追加負担は、年間750リーグ」
「待たれよ。旧式装備の維持を止めろと? あの砦は——」
「ヘルム砦のことでしたら、築120年。構造の劣化で、軍事拠点の機能をすでに失っています。維持するより解体して、資材を現役の防衛線に回すべきですわ」
ヴェーバーが口をつぐんだ。ヘルム砦が象徴の意味しか持たないことは、軍に関わる者なら誰でも知っている。知っていて、誰も言い出さなかっただけで。
次に口を開いたのは、東部のシュタイン伯爵。がっしりした体格の武人で、クラウスとは旧知の仲だ。
「数字は認めよう。だがベアトリーチェ嬢、ひとつ聞きたい。あんたの分析が正しいとして——6000リーグで、何が変わる」
いい質問だった。反対のための反対ではなく、納得するための問い。議場には2種類の質問しかない。座らせるための質問と、立たせるための質問。シュタイン伯のそれは後者で、後者にだけは、全力で答える価値がある。
「3つ、変わりますわ」
指を立てる。
「1つ。国境の巡回を週1回から隔日に。ヴァルハイムの偵察の侵入を、早期に捕捉できます。2つ。伝令網の整備。いま国境からこの館まで情報が届くのに最短2日かかりますが、中継拠点を3ヶ所置いて半日に縮めます。3000の敵を相手に、2日遅れの情報は無いのと同じですもの。3つ。冬季の兵站の安定。昨年の冬、国境の駐屯地で食糧が不足し、兵の士気が落ちました。補給路の二重化に1500リーグを充てますわ」
議場が沈黙した。暖炉の薪が爆ぜ、火の粉がひとつ舞い上がる。
シュタイン伯が、ゆっくり頷いた。
「——増額に賛成する。ただし条件がある。四半期ごとに、支出の報告を出せ」
「もちろんですわ。報告書はすべての家に。棒グラフつきで」
「棒グラフ、とは何だ」
「数字を、棒の長さで描いた図ですの。数字の苦手な方でも、長い短いは一目で分かりますわ」
「……わしにも分かるか」
「閣下にこそ、ですわ」
議場に、今日2度目の笑いが起きた。今度はシュタイン伯本人も笑っている。
ヴェーバー男爵は不満げに唇を噛んでいたが、他の6家が次々と賛意を示すと、最後には渋々手を挙げた。
全会一致。
なお採決の直前、ヴェーバーは最後の抵抗として「では追加負担の750リーグ、初年度は半額にせよ」と言い出した。わたくしは3秒考えて、呑んだ。初年度の不足分は、ヘルム砦の資材売却で埋まる計算が立っていたからだ。男爵は「勝った」という顔で署名した。
交渉ごとには、相手に勝たせる場所をひとつ用意しておくものだ。それも、こちらの帳尻が合う場所に。リーゼの言う「商談の基本」を、議会という市場に応用させていただいた。
散会のあと、シュタイン伯がすれ違いざまに足を止めた。
「ベアトリーチェ嬢。昨年の冬の食糧不足——あれを資料に載せた者は、あんたが初めてだ。王都の役人は10年来、兵を数としか数えん」
「兵站の数字は、兵の腹の数字ですもの。載せない理由がありませんわ」
「……クラウスは、いい拾い物をしたな」
武人は答えを待たずに歩き去った。あの一言が、今日の議決の本当の中身だったのだと思う。
議場を出ると、廊下でディルクが壁に背を預けて待っていた。
「聞こえていたぞ。壁が薄い」
「盗み聞きですの。軍師ともあろう方が」
「情報収集と呼べ」
口元が微かに緩んでいる。この人なりの賛辞だろう。
「ヘルム砦の解体は、俺も3年前に提案して却下された。あなたは数字で通したか」
「感情では、壁を越えられませんもの。数字なら、壁に穴を開けられますわ」
ディルクが眼鏡を押し上げ、何か言いかけて、やめた。背を向けて歩き出す足音が、石の廊下に硬く響く。
——でも、本当のところは知っている。数字だけでは、人は動かない。
シュタイン伯が頷いたのは、彼が国境の兵の腹を気にかけていたからだ。ヴェーバーが最後に手を挙げたのは、750リーグという数字が、彼の面子を守れる大きさだったからだ。3年前のディルクの提案が通らなかったのは、数字が間違っていたからではなく——提案者の名札だけを見る人々の議場だったからだ。
数字は、扉を開ける鍵にすぎない。扉の先で何が動くかは、いつだって人が決める。鍵を磨く仕事と、扉の先の人を見る仕事。参謀の職務記述書には、その両方を書いておくべきなのだった。
議決の翌日から、金は動き始めた。
矢の発注、外套の手配、中継拠点の杭出し。そしてヘルム砦の解体には、思わぬ抵抗がひとつあった。解体班を率いる老兵が、作業の前に半日だけ猶予を求めてきたのだ。聞けば、若い頃にあの砦で番をしていたという。
わたくしは半日を与え、それから老兵に頼みごとをした。解体した石のうち、紋章の彫られた1個を、エルスト砦の補修部分の礎に据えてほしい、と。
「砦が、砦を守る形にしたいの。ヘルム砦は退役ではなく、転属ですわ」
老兵は石塀のような顔をくしゃりと崩して、「転属なら、文句はありませんや」と言った。
象徴には、象徴の退き方がある。数字で通した解体だからこそ、仕舞いは数字以外のもので結ぶ。鍵と扉の話の、これが実地のほうだった。
その夜、国境の見張りからの定時報告が机に載った。『煙、なし。動き、なし』。
なし、という記録が3日続いている。増額された防衛費が形になるまで、最短でひと月。敵の静けさとこちらの工期と、どちらが先に尽きるか。議会の盤では勝った。けれど本物の盤の砂時計は、誰の採決も待たずに落ち続けている。




