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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第15話「平民の軍師」

その夜のチェスは、いつもと違った。


 ディルクの手が荒い。序盤から攻撃的な型を選び、中盤でナイトを犠牲にして、わたくしのキングサイドへ殺到してくる。普段の精密な指し回しとは、明らかに別人の手つきだ。


「今日はずいぶん、好戦的ですわね」


「……ああ」


 一言だけ返して、駒を叩きつけるように置く。黒檀のルークが板を打つ音が、いつもより大きい。


 何かあったのだ。税制改革の議論ではない。あれは建設的に終わった。チェスを始めてから——いや、夕刻に早馬が着いてから、この人の気配はおかしい。


 わたくしはあえて速度を落とし、守りに徹した。相手が荒れているときは、こちらが凪いでいればいい。盤面が膠着すれば、頭は勝手に冷える。


 15手目で、ディルクの攻撃が止まった。


「……すまない。雑に指している」


「気づいておりましたわ」


 彼は椅子の背にもたれ、眼鏡を外した。ひびの入った右レンズを蝋燭にかざす。虹色の筋が、壁に細く映る。


「王都から書状が来た」


「書状?」


「防衛強化の報告書への、中央の返答だ。3年間送り続けている、あの報告書の」


「返答は——」


「『辺境の防衛態勢は現状で十分と判断する。追加の予算配分は見送る』。3年間、同じ文面だ。一字一句変わらん。——定型文だよ。誰も読んでいない」


 声は平坦だった。怒りですらない。諦めとも違う。もっと古い、もっと深い場所から来ている何かだ。


「ディルク」


「何だ」


「その棘は、今日の書状だけのものではないでしょう」


 沈黙。蝋燭の炎が揺れ、眼鏡のない目は暗い灰色で、どこを見ているのか分からない。


「……あなたは鋭いな。嫌になるほど」


「分析が仕事ですもの」


「仕事か」


 彼は眼鏡をかけ直し、盤面に目を戻した。けれど、駒には触れない。


「農家の三男に土地はない。跡取りにもなれない。先のある道は2つだけだった。傭兵になるか、誰かの下働きになるか。——俺は、頭だけは良かった」


 駒に触れない手が、卓の上で握られる。


「字を覚えたのは7歳の頃だ。市場の看板を見て、ひとりで覚えた。数字も同じだ。商人が帳簿をつけるのを後ろから覗いて、計算の仕方を盗んだ」


「独学」


「独学だ。何もかも」


「14で、領主の館に書記見習いの口を見つけた。読み書きができる、というだけで拾われた。初めて軍学書に触れたのはそこだ。併設の兵舎で廃棄される古い教本を、ゴミ捨て場から拾った」


「ゴミ捨て場から」


「貴族の子弟は最新版で学ぶ。古い版は捨てられる。俺は捨てられたもので学んだ。——皮肉なことに、古い教本のほうが基礎が固かった。最新版は見栄えばかりで、中身が薄い」


 口元が、わずかに歪んだ。自嘲に近い笑み。


「18で眼鏡を手に入れた話はしたな。あれで地形が見えるようになった。遠くの稜線が読めるようになって、地図の腕が変わった。あの作戦室の地図は、眼鏡をかけた日から数えて12年分の蓄積だ」


 12年。ひとりで山を歩き、ひとりで地形を読み、ひとりで描き続けた12年。


「20で軍師を名乗った。——名乗っただけだ。誰も認めなかった。平民の三男が軍師? いい笑い話だ。仕官を求めて回った先で、貴族の将校に言われたよ。『平民が盤に触るな』と。目の前で、盤ごと駒を床に払い落とされた」


 似た音を、わたくしも知っている。


 前世の会議室で、入って間もない頃に分析結果を報告した日。資料を読み上げ終えたわたくしに、年配の幹部が言ったのだ。「で、これは誰の分析? 君がまとめただけだよね」。わたくしの分析だと答えたら、彼は資料を閉じて、隣の男性研究員に「君はどう思う」と訊いた。あの日の会議室の空調の音まで、まだ覚えている。


 払い落とされる盤の音と、閉じられる資料の音。国も時代も身分制度も違うのに、音の質は同じだ。お前のものは、お前の席は、ここにはない——という音。


 手が、止まった。わたくしの手が、白のポーンの上で。


「——それで、彫ったのですね」


「……何の話だ」


「この駒。最初の数個は廃材で彫ったと言ったでしょう。盤ごと買う金がなかったから、と。でも、それだけではなかった」


 ディルクは答えなかった。答えない、ということが答えだった。払い落とされた駒の代わりに、誰にも払い落とせない駒を、自分の手で彫ったのだ。15年前のどこかの夜に、安物の小刀で。


「その将校の顔は、覚えていらっしゃるの」


「忘れた」


 即答だった。それから彼は、少しだけ間を置いて言い直した。


「……忘れたことにしている。覚えていると、戦略眼が濁る。怒りは、読みの精度をいちばん安く損なう感情だ。だから棚に上げて、鍵をかけた」


「鍵をかけた棚は、なくなりませんわよ」


「ああ。なくならない。——だが、開ける日は自分で選べる」


 棚に上げる、という技術。わたくしのそれは「保留箱」と呼んでいる。呼び名が違うだけで、同じ間取りの部屋に住んでいる。


「クラウスだけが、俺を使った。あの男は身分を見ない。腕っぷしと頭の中身しか見ない。武人にしては珍しい男だ」


「最初に任された仕事は、何でしたの」


「砦の薪の調達経路の見直しだ。軍師見習いに与える仕事ではない。——だが俺は3日で、薪の費用を2割落とした。クラウスは黙って、次は冬の巡回路を寄越した。そうやって、仕事の大きさだけが少しずつ変わっていった」


「試験の連続でしたのね」


「試験のない世界より、よほど居心地がいい。試験は——少なくとも、出自を問わない」


「認めてくださったのね」


「認めた、というより——試した。戦術を立てさせて、機能するかどうかだけで判断した。結果を出せば使う。出さなければ切る。分かりやすい男だ」


 クラウスの話をするときだけ、この人の声から棘が抜ける。


「それで10年、この辺境にいる。毎年報告書を書き、毎年無視される。王都の貴族にとって、辺境の平民軍師の報告書など——」


「——紙くず、ですのね」


「ああ。紙くずだ」


 盤の上で、白と黒が向き合ったまま止まっている。


「今日の書状で、分かったことがある」


「何かしら」


「王都は、辺境を見捨てているのではない。——見えていないんだ。期待して裏切るのではなく、最初から視界に入っていない。報告書を送ろうが狼煙が上がろうが、彼らの地図にこの辺境は描かれていない」


 その言葉が、胸の深いところに刺さった。


 地図に描かれない場所。存在しないことにされる土地。それは、ディルク自身の来歴とそっくり同じ形をしている。平民の三男。軍学書に名前の載らない人間。名簿にも、系図にも、記録されない存在。


「ディルク」


「何だ」


「わたくしも、王都の地図には描かれておりませんのよ」


 灰色の目が、わたくしを見た。


「断罪されて追放された公爵令嬢。社交界からは抹消、貴族名簿からも遠からず消されるでしょう。存在しない女ですわ。——あなたと、同じ」


 手を伸ばして、止まったままの白のナイトを持ち上げる。木の感触が、掌に馴染む。


「けれど。描かれていないなら、自分たちで描けばよろしいのよ。この辺境の地図を、この盤を、わたくしたちの手で。王都の地図に載る必要なんて、最初からありませんわ。——あちらの地図のほうが、いずれ古くなるのですもの」


 ディルクが、しばらく黙っていた。


 蝋燭の炎がふっと持ち直して、部屋が明るくなる。替えの蝋燭に、いつの間にかリーゼが火を移してくれていたらしい。扉の隙間から、かすかな足音が遠ざかっていった。あの秘書は気配の消し方まで有能である。


 そして翌朝、わたくしの机には『王都報告書・過去3年分・要点抜粋(棒グラフ付き)』が置かれることになる。誰の指示でもなく。聞いていたのだ、全部。聞いた上で、慰めの言葉ではなく抜粋資料を作るのが、リーゼという人の優しさの文法だった。——という後日譚は、このときのわたくしはまだ知らない。


「……指すか」


「え?」


「チェスだ。途中で止めるのは気持ちが悪い」


「……そうですわね」


 ディルクがビショップを動かした。今度は乱暴ではない、いつもの精密な手。わたくしもナイトを盤に戻し、次の手を考える。


 再開した対局は、20手ほどで決着がついた。わたくしの負けである。


 中盤に乱れた陣形は、立て直したつもりでも歪みが残る。ディルクのルークがその歪みを正確に突いて、王手までの手順は教科書のように無駄がなかった。


「——投了ですわ。お見事」


 通算最初の決着が、わたくしの負け。悔しさは、ある。大いにある。けれど不思議と、嫌な悔しさではなかった。荒れた夜の終わりに、この人の頭が普段の精度を取り戻したことの証明でもあるのだから。


「ディルク。ひとつだけ」


「何だ」


「あなたの報告書は、紙くずではありませんわ。わたくしが読みました。分析は正確、提言は適切、3年分の観測データは——この辺境の防衛にとって、何にも代えがたい資産ですわ。読んだ人間が、ここに1人いる。記録なさい」


 駒の上で、彼の手が止まった。ほんの一瞬。


 それから、何も言わずに次の手が打たれた。


 ——あの一瞬の沈黙が、この人なりの感情の表現だと、もう知っている。


 窓の外で風が松の梢を鳴らしていた。夜は深く、蝋燭は明るく、握った駒はほんのり温かい。


 平民の軍師と、追放された公爵令嬢が、辺境の砦で盤を囲んでいる。王都の地図には載らない、小さな小さな光景。


 けれどこの盤面は、王都のどんな宮廷劇よりも——緊張していて、正直だった。

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