第16話「夜のチェス」
作戦室の蝋燭が半分ほど溶けた頃、ディルクが盤を運んできた。
「まだ起きていると思った」
黒檀と楓の駒が、蝋燭の炎を受けて長い影を落とす。わたくしは羽根ペンを置き、インクの滲んだ指先を布で拭いた。
「眠れないだけですわ」
嘘だ。眠れないのではなく、眠りたくない。国境の煙の報告が、頭から離れないのだ。ヴァルハイムの動きを示す断片。点と点を繋げようとするほど、嫌な線が浮かんでくる。眠ってしまえば線の続きを誰も引いてくれない——という強迫は、前世から治っていない持病である。持病と付き合う最良の方法は、同病の相手と盤を挟むことらしい。処方箋には、どこにも書いていないけれど。
ディルクが白の駒を、わたくしの前に押し出した。
「先手をどうぞ」
「お気遣い、痛み入りますわ」
e4。最も基本的な開局。ディルクは即座に、攻撃的な変化で応じてきた。今夜の彼は、守りに入る気がないらしい。
数手が進む。蝋燭の芯がぱちりと弾けて、影が一度だけ揺れた。
「煙の件、続報をどう見る」
駒から目を離さずに、ディルクが問う。執務中にはない柔らかさのある声。深夜の、この部屋だけに許された声色だ。
「材料が2つ増えましたわ。1つは、ブルーノたちの帳面。荷駄の列の目撃が、この10日でさらに2件。場所はどちらも峠の北東——例の、雨季に沼になる緩斜面の先ですわ。乾季の入りを待って動かす気なら、理にかなった集積地ですの。もう1つは、行商人の話——ヴァルハイム側の国境の町で、小麦の買い付けが急に増えているそうですの」
「軍の備蓄か」
「その可能性が高い。それで思い出したのが、リーゼの資料にあった数字ですわ。ヴァルハイムの穀物輸入量は、この3年で5割増。あの国はもともと食糧を自給できていない。そこへ来て国境の町での買い付け増——」
「内地の港から運ぶより、現地で買うほうが速い。前線に近い場所で兵糧を積み上げている、と読める」
「ええ。煮炊きの煙、荷駄、小麦。点が3つ。引ける線は、もう1本しかありませんわ」
兵站拠点の構築。演習でも焼き畑でもなく、誰かが本気の準備をしている。
前世の手法が頭の中で回る。軍事的兆候の分析——衛星画像の代わりに、猟師の帳面と行商人の世間話と穀物の相場がある。情報源の見てくれは違っても、原理は同じだ。物と人と金の流れは、嘘の口より正直に喋る。違うのは、届く速さと肌触りだ。衛星は嘘をつかないが、寒くもない。猟師の帳面の文字は、書いた朝の指のかじかみまで一緒に届く。
「規模の推定は」
「小麦の動いた量が分かれば。何袋単位ではなく荷馬車何台分かで聞き直すよう、行商人に頼んでありますわ。台数なら、商人は正確に覚えていますもの」
「煙の記録のほうは、20日分が溜まった」
ディルクが懐から折り畳んだ紙を出し、盤の脇に広げた。日付、時刻、地点、持続時間。几帳面な手跡で、煙の語った言葉が並んでいる。
「定時連絡は1日3回で変化なし。ただし——6日前から、夕方の煙だけ持続時間が倍になっている」
「倍。……伝える内容が増えた、ということですわね。夕方の便にだけ」
「そう読める。夕方は、その日の作業の報告だ。作業量が増えている」
盤を挟んで、ふたりで紙を覗き込む。蝋燭の灯りの輪の中に、数字と駒の影が同居している。煙は几帳面に、毎日、自分たちの忙しさを教えてくれていた。几帳面な敵の、几帳面な進捗報告。敵の几帳面さに感謝する日が来るとは、敵のほうも思っていないだろう。
「土木作業でしょうね。兵站拠点の設営が、佳境に入った」
「完成までの推定は」
「夕方の煙が元の長さに戻った日が、完成の日ですわ。——そこから先は、いつでも動ける状態になる」
ディルクのビショップが斜めに走り、わたくしの防衛陣に圧をかけてきた。盤の上も、盤の外も、圧が強い夜である。
「——キャスリングさせていただきますわ」
「逃げたな」
「戦略的後退と呼んでくださいまし」
ディルクの口元が、わずかに緩んだ。笑みとは呼べない。けれど、鉄のように硬い表情が一瞬だけほどける。
「以前から思っていたが」
と、彼は言った。
「あなたの戦略は、盤上で完結しない。物流、人心、時間、相場。すべてを変数に組み込んでいる。並の軍師が3つの要素で組むところを、あなたは10を見ている」
「買いかぶりですわ」
「事実を述べている」
盤面を見下ろすと、わたくしのクイーンが孤立しかけていた。歯の裏を舌で触れる。さっき飲んだ紅茶の渋みが、まだ口に残っている。事実を述べられている間に、盤では着実に削られているのだから、世話はない。
「ディルク」
「何だ」
「あなたこそ。戦略を語るときのあの目——あれは、教本だけでは育ちませんわ」
駒を動かす手が止まった。ほんの一瞬。蝋燭の灯りでは見逃しそうな間。
「実戦で覚えた。それだけだ」
「それだけ、とは思えませんけれど」
彼は答えず、ビショップでわたくしのナイトを取った。
「チェック」
声に揺らぎはない。けれど、話題を切ったのは明らかだった。昨夜あれだけ語った人が、今夜は扉を閉めている。人の扉は、開いた翌日ほど固く閉まるものだ。急かさない。
ルークでビショップを取り返す。交換。盤上の駒が減って、終盤が近づく。
「ひとつ、聞いてもよくて?」
「却下する権利は残しておく」
「辺境を守りたい理由。それは義務ですの? それとも——」
「あなたは」
ディルクが遮った。
「いつも核心を突くな。チェスでも、会話でも」
褒め言葉なのか苦言なのか。灰色の目が、蝋燭の炎を映して揺れている。
「義務ではない」
長い沈黙のあとで、彼は言った。駒が盤を打つ音が、妙に大きく響く。
「この土地の人間は、俺が何者かを問わなかった。平民だろうが、よそ者だろうが、眼鏡の度が合っていなかろうが。——守る理由として、それだけでは足りないか」
「十分ですわ」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
問われなかった、ということ。出自を、名札を、資格を問われずに、ただ盤の前に座らせてもらえたということ。それが人ひとりの忠誠の根になるのを、わたくしはこの数ヶ月で——自分の身で、知り始めている。断罪の広間でわたくしが問われたのは、結局、何者であるかだけだった。何をしたかは、誰も見ていなかった。
「あなたは」
今度はディルクが訊いた。駒を持つ手は止めないまま。
「あなたの守る理由は、何だ。王都に追われた土地を、なぜそこまで」
「最初は、雇用契約でしたわ。閲覧権限と発言権とお給金——未払いですけれど——の対価。次は、知的な興味。この詰みかけの盤面を、どう立て直すかという問題への」
「いまは」
「……名前が、増えましたの」
駒を置く。こつ、と小さな音。
「ヨハン。マルタ。ピア。ヘルガ。ブルーノ。エーリッヒ。リーゼ。クラウス。——名前を知っている人の数だけ、盤面が重くなりますのよ。重くなった盤は、もう、ただの問題ではありませんわ」
ディルクは何も言わなかった。けれど次の一手まで、普段より長い間があった。
盤面を見つめる。残る駒はわずか。互いのキングが中央に寄っていく。膠着——いや、これは。
「ステイルメイトですわね」
「引き分けか」
ディルクが椅子の背に身を預けた。革の軋む音。
「悪くない結末だ」
「チェスの規則の中で、いちばん奇妙で、いちばん好きな規則ですわ。動ける手が何もないのに、王手はかかっていない。——詰みではなく、引き分け」
「追い詰めた側からすれば、理不尽な規則だがな」
「追い詰められた側の規則ですもの。完全に動けなくなる寸前まで粘った者には、敗北ではなく均衡が与えられる。……国と国も、この規則で裁いてくれればよろしいのに」
「現実の盤に、審判はいない」
「ええ。ですから審判の代わりに、均衡を自分たちで作るしかありませんのよ」
駒を箱へ戻しながら、わたくしは付け加えた。
「昨夜の1敗のあとの引き分けですもの、これは実質、防衛成功ですわ」
「負け越している側の算術は、面白いな」
「戦略的会計と申しますの」
蝋燭がまた1本短くなって、夜の深さを思い出す。窓の外に星はない。雲が厚いのだろう。
「もう一局——」
と言いかけて、口を閉じた。続けたい。けれど明日も早い。国境の煙は、こちらの睡眠時間を待ってくれない。
「また明日」
駒を片づけながらディルクが言う。
「明日も、負けないつもりですけれど」
「引き分けを勝ちとは言わない」
「負けなかった。それは勝利の一形態ですわ」
駒を箱へ戻す手つきは、いつ見ても丁寧だ。ポーンから先に、彫った3個は最後に。順番が、一度も狂わない。15年続いた仕舞い方なのだろう。儀式の手順が変わらない人は、信用できる。変えるときは、よほどのことがある人だから。
ディルクが立ち上がり、盤を抱えて扉へ向かう。その背中が廊下の闇に溶ける寸前、振り返った。
「——あなたの戦略眼は、この辺境には過分だ。いずれ、もっと大きな盤で戦うことになる」
扉が閉まった。
もっと大きな盤。その言葉を、頭の中で転がしてみる。王都。両国。あるいは、もっと。
前世のわたくしなら、喜んだはずだ。大きな盤は、大きな問題で、大きな問題は面白い。シンクタンクの自席で、扱える盤の小ささに何度も焦れた。けれどいまは、不思議と心が動かなかった。盤の大きさより、向かいに誰が座っているかのほうが、いまのわたくしには重要らしい。
——という所見を、頭の帳面のどこに分類すべきかは、保留にした。保留箱が最近、少し混んできている。
蝋燭の残り火が揺れて、消えた。暗闇の中、瞼の裏にチェス盤の残像が浮かぶ。
ステイルメイト。どちらも負けない局面。両国の間に、あれを作るのがわたくしの仕事だ。動けないのではなく、動かない。動かないことが、双方にとって最善である状態。
——けれど国境の向こうでは、誰かが次の一手を打とうとしている。盤の均衡を、退屈と呼ぶ種類の誰かが。




