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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第13話「二人の知恵」

第2回交渉の前夜、ルイーゼがわたくしの部屋を訪ねてきた。


「ベアトリーチェ。明日の交渉について、ひとつ提案があるのですけれど」


 部屋に通し、リーゼの淹れた茶と、領内で採れた干し果物を出す。ルイーゼは干し果物をひとつ口に入れ、目を丸くした。


「……おいしい。これは何の果実ですの?」


「山杏ですわ。辺境の山に自生しているのですって」


「こんな良い産物があるのに流通していないなんて、もったいないですわね」


 外交官の娘は、物産の価値を瞬時に見抜く。交易に通じているからこそ、この小さな干し果実が「商品になる」と分かるのだ。頭の帳面に、彼女の目の輝きごと書き留めておく。


「それで、提案というのは?」


 ルイーゼが茶碗を置き、声を低くした。


「明日、わたしがヴァルハイム側の譲歩案として出す内容を——事前にお伝えしたいのです」


「……それは、背任になりませんこと?」


「ならないように言い方を選びますわ。お伝えするのは『外務省が受け入れ可能な妥協の線』です。それを知った上で対案を作っていただければ、双方が呑める着地点を、明日の席で効率よく見つけられます」


 ——なるほど。


 裏切りではなく、事前調整だ。正式な卓の外で、両国の担当者が非公式に落としどころを探る。前世の外交でも頻繁に使われた、由緒正しい裏の回路である。


 ただし、と頭の冷たい部分が言う。この回路は、偽の情報を流し込む口にもなる。彼女の「妥協の線」が罠でないことを、明日の席で検算できる形にしておくこと。信頼と検証は、両立する。むしろ両立させてこその信頼だ。


 検算の方法は、すぐに組めた。彼女の語る「外務省の線」が本物なら、その線はヴァルハイムの台所事情——穀物の不足と一致するはずだ。戦争を始める余裕のない国の外務省は、交易を欲しがる。もし明日、彼女の側が交易条項に渋い顔をしたら、その瞬間に「外務省の線」は偽物だと分かる。


 明日の席に、その試験紙を1枚、忍ばせておくことにする。


「聞かせてくださいまし」


 ルイーゼの語った内容は、緻密だった。


 外務省の妥協線——軍事的通行権は放棄する。代わりに民間交易の通行権と、年に1回の合同国境査察を求める。さらに交易品の関税を低率に。


「合同査察は、イグナーツ将軍への言い訳ですわね」


「ええ。『軍は通れないが、査察の名目で国境の状況は確認できる』と報告できれば、将軍の面目が立ちます」


「ただし——」


 ルイーゼの声が、さらに低くなる。


「将軍が査察の名目で兵を送り込む可能性は、排除できません。そこは、ベアトリーチェの側で手を打ってくださいまし」


「査察の人数制限と、事前通告の義務。こちらの条件に入れますわ」


「それで行けると思います」


 顔を見合わせる。2人の間に、共犯めいた空気が漂った。蝋燭が1度だけ、相槌のように爆ぜる。


「念のため、うかがいますけれど。この『事前のお話』、あなたの上司はご存じ?」


「父には伝えてあります。『現地の判断に任せる』と。——外交官の家の『任せる』は、『成功したら手柄を分けなさい、失敗したら知らない』という意味ですわ」


「まあ。どこの組織も、上というものは同じですのね」


 ルイーゼがくすりと笑った。組織の悲哀は、国境を越えて通じる共通言語らしい。


「ルイーゼ。あなた、ヴァルハイム側の使節でありながら、こちらに有利な情報を渡している自覚はあって?」


「ありますわ。——けれど、わたしが守りたいのはヴァルハイムでも辺境伯領でもなく、『戦争が起きない状態』ですの。どちらかが一方的に勝つ合意は、長持ちしません。双方が納得する形だけが、結局はどちらの国も守ります」


 正しい。一方の取り分を削らなければ他方を増やせない地点——そこまで双方を運べたなら、その合意は壊れにくい。持続する平和とは、感動的な握手ではなく、壊す動機が双方にない状態のことだ。


「……あなたの考え方、わたくしと似ていますわね」


「そうかもしれません。わたしは言葉で、あなたは数字で。手段は違いますけれど、目指す場所は同じなのかも」


 その夜のうちに、リーゼを呼んで条件書を仕上げた。品目リストの段になると、リーゼの算盤が唸りを上げた。


「山杏の干し果物、木材、薬草、蜂蜜。輸出4品目の想定取引量と関税率の試算、3パターン作ります。低率・中率・段階率です」


「段階率?」


「初年度は無税に近く、取引量が育ってから率を上げる案です。商いは苗木と同じで、植えてすぐ実を採ると枯れます」


「……リーゼ。あなた本当に、侍女でしたの?」


「商家の娘でもありましたので」


 翌日の交渉は、初日とは明らかに空気が違った。


 卓に着いたルイーゼは、外交官の顔に戻っている。けれど昨夜を経たいま、その発言の裏にある設計図が透けて見えた。


「ヴァルハイム国は、軍事的通行権の要求を取り下げます」


 クラウスが目を丸くする。ディルクは微動だにしない。


「代わりに、民間交易の通行権と、年1回の合同国境査察を求めます」


 予定通りの提案。ここからが、こちらの番だ。


「ありがとう存じます、ルイーゼ様。——辺境伯領として、以下の条件を提示いたしますわ」


 書面を差し出す。昨夜リーゼと仕上げた条件書。


「1、民間交易の通行は認める。ただし通行者は事前に辺境伯府へ届け出を行い、許可証を携帯すること。2、合同査察は年1回、双方5名以内とし、日程は30日前までに書面で通告すること。3、交易品の関税は品目ごとに別途協議」


 ルイーゼが書面に目を通す。1項目ずつ、丁寧に。読む速度の変化で、どの条項を重く見ているかが分かる。


 2項——査察の人数制限——で、指がわずかに止まった。5名は少ない。けれど彼女は、反論しなかった。昨夜の「そこは手を打って」への、無言の返答である。


「3項の関税協議について、具体的な品目案はございますか」


「ございますわ」


 切り札を開く。リーゼの交易品リストを、卓いっぱいに広げた。


「当領から輸出できる産品——木材、薬草、山杏の干し果物、蜂蜜。ヴァルハイム側から輸入したい品目——塩、鉄、織物、ガラス。双方の産品を低関税で交換すれば、両国の辺境地域がともに潤いますわ。関税は段階率の案をご用意しています。商いは苗木ですもの、育つ前に実を毟っては枯れますわ」


 ルイーゼの目が輝いた。リストの中の——山杏の干し果物。昨夜、目を丸くしたあの果実が、交易品として卓に載っている。彼女はその商品価値を、舌で知っている。


 そして、この輝きが昨夜仕込んだ試験紙の結果だった。穀物に乏しい国の使節が、交易条項に渋い顔をしたら偽物。身を乗り出したら本物。——彼女の「外務省の線」は、本物だ。胸の中で、検算の頁を静かに閉じる。


「干し果物の想定取引量は、こちらの試算で年300樽。詳細はこの表に」


「……苗木の育て方まで書いてある表は、初めて見ましたわ」


 卓の下の検算と、卓の上の商談が、同時に進んでいく。外交とはつくづく、2枚の盤で同時に指すチェスである。


「……硬と軟の、二段構えですわね」


 小さな呟き。軍事的通行権の拒否という「硬」と、交易の利益という「軟」。拒否だけでは交渉は死ぬ。代わりの利益を差し出すから、妥結点が生まれる。


「ベアトリーチェ——失礼、ベアトリーチェ様。この条件、持ち帰って検討させていただきます」


「もちろんですわ」


 卓の上では形式的な書面が往復し、その下で、昨夜の裏の回路が確実に機能していた。


 交渉が終わり、ルイーゼたちが退室したあと。


「お嬢」


 クラウスが、いつになく真面目な顔で口を開いた。


「あの女、味方なのか」


「完全な味方ではありませんわ。けれど、利害の重なりがある。戦争を避けたいという一点で、わたくしたちと彼女の目的は一致していますの」


「信用していいのか」


「——信用は、もう少し先の話。いまは、利用し合える関係ですわ」


 自分で言って、胸が少しだけ痛んだ。「利用」という語は正確だけれど、公正ではない気がする。昨夜、干し果物に目を丸くした彼女は、道具の顔をしていなかった。


 ディルクが壁から背を離し、地図の前に立った。


「交易路が開けば、辺境の経済は立ち直る。同時にヴァルハイム側の情報も流れ込む。悪い取引ではない」


「あなたにしては楽観的ですわね」


「楽観ではない。リスクは査察だ。5名に絞ったのは正しいが、有能な偵察兵なら5名で十分な情報を持ち帰る」


「承知の上ですわ。査察にはこちらの随行員をつけて、経路もこちらで設計します。『見せてよいものだけが見える動線』——リーゼの得意分野ですわ。詳細は次の協議で」


 窓の外に、夕方の風が吹いている。ルイーゼの馬車は明日ヴァルハイムへ発ち、次の会談は1ヶ月後。


 ——硬と軟。拒否と提案。剣と言葉。


 2人分の知恵を合わせた策は、まだ形になりかけの段階だ。けれど、形になる予感がある。


 チェス盤に手を伸ばしかけて、やめた。今夜は駒を動かす気分ではない。盤の上の駒は取るか取られるかだけれど、今日の卓では、双方が取り分を持ち帰る手を打てた。チェスより難しくて、チェスより後味のいい勝負だった。


 代わりに、残った干し果物をひとつ口に入れる。甘酸っぱい山杏の味が舌に広がって、「おいしい」と目を丸くした顔が浮かんだ。


 ——この小さな果実が、二国の橋になるかもしれない。


 外交とは案外、そういうものから始まるのかもしれなかった。条約の文面は忘れられても、舌が覚えた味は国境を越えて残るのだから。


 ——ただし。


 別れ際のルイーゼの言葉が、甘い味の底に小さな棘として残っている。


「外務省は、この案で纏められます。問題は……イグナーツ将軍が、纏まることそのものを望んでいない場合ですわ」


 交渉が成功するほど、戦争の口実を失う男がいる。その男の机にこの合意案が届いたとき、何が起きるか。山杏の甘さの奥で、その問いだけが苦かった。

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