第12話「外交官の娘」
ルイーゼは砦に3日間、滞在することになった。
次の会談まで、互いに条件を精査する——という名目だが、実質は互いの情報収集の時間だ。こちらがルイーゼを観察するように、ルイーゼもこちらを観察している。客間の位置から見える施設、出される食事の質、廊下をすれ違う兵の練度。外交官は、目に入るすべてを報告書に変える生き物である。
だからリーゼには「見せてよいものだけが見える動線」で客間を選ばせた。彼女は10分で3案を出してきた。怖い。
2日目の朝、中庭でルイーゼと鉢合わせた。
護衛を連れず、ひとりの散歩。朝露に濡れた草を踏みながら、砦の壁を見上げている。旅装ではなく、淡い緑のドレスに薄い上着の普段着姿だった。
「おはようございます、ベアトリーチェ様」
「おはようございます。——護衛はよろしいの?」
「砦の中で襲われる心配はないでしょう。それに、ひとりで歩きたい朝もありますわ」
微笑むルイーゼの声に、交渉の卓での鋭さはない。穏やかで少し眠そうな、二十歳の声。
「辺境の朝は冷えますわね。王都とは空気が違う」
「ええ。松の匂いがしますの。わたし、この匂いは嫌いではありません」
並んで中庭を歩く。我ながら奇妙な光景だ。断罪の場で対立した2人が、朝の散歩を共にしている。
「ルイーゼ様。ひとつうかがっても?」
「どうぞ」
「あなた、何カ国語をお話しになるの」
「5つですわ。クロイツブルク語、ヴァルハイム語、南方のラティア語、東方のスラヴェン語。それと古典語を少し」
「5カ国語……」
「父が外交官でしたから。子どもの頃から各国の言葉を耳にして育ちました。覚えるのは得意なほうです」
得意なほう、と控えめに言うが、5カ国語を実用水準で操るのは稀有な能力だ。通訳を介さず直接交渉できるだけで、外交の席では圧倒的に優位に立てる。通訳という「伝言の関所」を通るたび、情報は摩耗し、間合いは死ぬのだから。
「ベアトリーチェ様は」
「2カ国語ですわ。クロイツブルク語と古典語。語学の才は、ありませんの」
「けれど昨日の交渉で見せた分析は、語学より希少な才ですわ」
ルイーゼの目が、一瞬だけ断罪の場と同じ——大きく透明な瞳になった。いまそこに浮かんでいるのは涙ではなく、純粋な好奇心。
「あなたがイグナーツ将軍の名前を出したとき、わたし、驚きました。ヴァルハイムの軍部と外務省の対立を、辺境にいながら掴んでいらっしゃる」
「推測ですわ。確証はありませんでしたの。あなたの反応で、裏が取れただけ」
「……正直ですのね」
「正直というより、あなたに嘘をついても見抜かれそうですもの」
ルイーゼが小さく笑った。外交官の仮面が外れた、素の笑い方。口元を手で隠す仕草は、王都の令嬢の癖そのものだ。
中庭のベンチに、並んで腰を下ろした。石の座面は朝露で冷たく、スカート越しにひんやりと伝わってくる。
「ベアトリーチェ様。わたし、あなたに謝らなければならないことがあります」
「断罪の件かしら」
「——ええ」
声が低くなる。上着の裾を指先で摘まんでは離し、摘まんでは離す。
「あのとき、わたしはフリードリヒ殿下のご意向に従っただけでした。あなたが本当に嫌がらせをなさったのか、確かめもせずに。殿下が『ベアトリーチェを排除する』とお決めになっていたことは、知っていました。それでも——従いました」
「なぜ?」
「外交官の娘として、王室との関係を壊せなかったからです。父の仕事に障る。……言い訳ですわ」
朝の光が、栗色の髪に金の筋を入れる。うつむいた横顔には、罪悪感と、それを口にできたかすかな安堵が同居していた。
「ルイーゼ様。わたくし、あなたを恨んでおりませんわ」
「……本当に?」
「あの場で誰が何をしたか、正直に申せばほとんど覚えておりませんの。わたくしにとって断罪は終わった出来事。いまは辺境の問題のほうが、よほど重要ですわ」
嘘ではない。ただし、全部でもない。断罪の記憶が薄いのは、あれが「この身体の前の持ち主」の物語の結末で、わたくしの物語の始まりだったからだ。
それでも、ルイーゼは謝った。確かめずに従ったことを、誰に求められたわけでもなく。それだけで、この人の芯には誠実さがあると分かる。
「ベアトリーチェ様。——いえ。ベアトリーチェ、とお呼びしても?」
「構いませんわ」
「では、わたしのこともルイーゼと」
「ルイーゼ。早速ですけれど、お願いがありますの」
「何でしょう」
「ヴァルハイム語を教えてくださらない? 交渉を続けるなら、相手の言語を理解しておきたいの」
ルイーゼの目が輝いた。言語を武器に生きてきた人にとって、言語の価値を正しく値踏みする相手は珍しいのかもしれない。
「喜んで。——では発音から。ヴァルハイム語は子音が多くて、クロイツブルク語の話者には少し難しいのですけれど」
中庭のベンチで、即席のヴァルハイム語講座が始まった。
そして10分後、わたくしは初めて知った。自分の舌が、戦略分析ほどには優秀でないことを。
「『フシュトラハト』」
「フシュ……フシュトラハト」
「惜しいですわ。シュの前で息を止めないで。『フシュトラハト』」
「フシュッ——失礼。むせましたわ」
ルイーゼが肩を震わせて笑いを堪えている。いい。笑えばいい。語学の才の市場価値が上がるだけだ。なお発音記号を考案して書き取ろうとしたら「音は紙では覚えられませんわ」と没収された。教師としても有能である。
発音練習の合間に、ルイーゼがふと、わたくしの手元に目を落とした。
「ベアトリーチェ。その指——」
「あら。インクですわ。落ちませんの、これが」
右手の中指と人差し指に、インクの染みが居座っている。徹夜で書き物をする人間の勲章だ。王都の令嬢なら手袋で隠す類の。
「王都にいた頃のあなたは、手袋を外さない方だと思っていました」
「外さない令嬢でしたわよ、きっと。……いまは、ペンを握るのに邪魔ですの」
「羨ましい、と言ったら笑います?」
「笑いませんわ。どうして?」
「わたしの仕事は、署名のとき以外ペンを持たせてもらえません。書くのは書記の仕事、考えるのは本国の仕事、わたしの仕事は運ぶことと微笑むこと——そう思っている人が、本国には大勢いますの」
5カ国語を操る頭脳を、伝書鳩の扱いで使う。ヴァルハイム外務省の資源配分は、相当に間違っている。間違っていてくれて、こちらは助かるのだけれど。
「ルイーゼ。この交渉がうまくいったら、あなたの名前は両国の条約文の末尾に残りますわ。運んだ人ではなく、纏めた人として」
「……そういうことを言うから」
彼女は語尾を飲み込んで、咳払いをひとつした。
「続けますわよ。『フシュトラハト』」
「フシュトラハト」
「——いまの、できていましたわ」
ふと、砦の2階の窓からディルクがこちらを見下ろしているのに気づいた。眼鏡が朝日を反射して光る。表情は遠くて読めないが、腕を組んだ姿勢は「観察中」のそれだ。
「ルイーゼ。もうひとつ、聞いてもよくて?」
「どうぞ」
「あなたは今回の交渉を、成功させたいと思っていらっしゃる?」
ルイーゼは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「イグナーツ将軍が望んでいるのは、通行権を名目にした軍の足場づくりです。外務省——わたしの父を含む——が望んでいるのは、戦争の回避。わたしは外務省の使節として、ここにおります」
「つまり、戦争を避けたい」
「ええ。……けれど、将軍を止める力は外務省にありません。交渉が壊れれば、軍の言い分が通ります」
鷹派の軍部と、穏健派の外務省。どちらが主導権を握るかで国の進路が変わる——前世で何度も分析した構図だ。そして大抵の場合、時間は声の大きいほうに味方する。
「であれば、この交渉が成功することは、あなたの利益でもありますのね」
「……そうです」
「それなら」
手を差し出した。ルイーゼが一瞬きょとんとして、それから薄い手袋越しに、わたくしの手を握る。華奢な手の、指先がわずかに冷たい。
「利害が一致する相手とは手を組む。それがわたくしの流儀ですわ」
ルイーゼが——外交官の仮面ではなく、二十歳の女性として——笑った。
「あなたと組むのは心強いですわ、ベアトリーチェ」
「こちらこそ。語学の才がある味方ほど、頼もしいものはありませんもの」
風が中庭に吹き込んで、彼女の髪とわたくしの髪を同時に揺らした。松の匂いに、旅装に染みた馬の匂いが混ざる。
その日の夕方、作戦室でディルクに報告すると、彼は眼鏡の位置を直しながら言った。
「敵国の使節と手を組むのか」
「敵国の、穏健派の使節と、ですわ。彼女の後ろには外務省がいて、外務省の敵は軍部。わたくしたちの敵も、さしあたり軍部。敵の敵は——」
「味方とは限らない。教科書なら、そう続くところだ」
「ええ。ですから『味方かもしれない』の棚に置きますの。棚の中身は、時間をかけて検品しますわ」
「……検品の間、情報は抜かれるぞ」
「抜かれて困る情報は、最初から見せておりませんもの。リーゼの動線設計を信頼なさって」
ディルクは短く息を吐いた。反対の撤回、と解釈する。
昨日の敵は今日の交渉相手で、明日の協力者になり得る。永遠の敵も、永遠の味方もない。あるのは利害と——信頼の、芽だけ。
チェスなら、ルイーゼは盤を挟んだ向かい側の席に座る人だ。けれど今朝の中庭で感じたのは、それとは違う配置だった。同じ側から、同じ盤——「戦争」という詰み筋を抱えた盤面を、ふたりで覗き込んでいる感覚。
味方がひとり、増えたかもしれない。
けれど信頼はまだ「かもしれない」の段階だ。確信に変えるには、賭け金を載せた局面を、一度くぐる必要がある。




