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悪役令嬢は盤上の駒を動かさない——軍師が隣にいるので  作者: 夜凪 蒼


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第11話「交渉の席」

国境の煙から10日後。ヴァルハイム側から、書状が届いた。


「外交使節を送る、と」


 ディルクが読み上げる。羊皮紙にはヴァルハイム外務省の印章。重い赤の封蝋が紙の端で固まり、その匂いがまだ作戦室に漂っている。


「使節の名は——」


「書いていませんの?」


「書いてある。ルイーゼ・フォン・ヘッセンドルフ」


 その名前に、記憶が跳ねた。断罪の場にいた女性。フリードリヒ殿下の隣で、計算されたような角度の涙を流していた、栗色の髪の——


「ルイーゼ様……。外交官の娘でしたわね」


「クロイツブルク出身だが、母方がヴァルハイム系で、いまはヴァルハイム外務省に職を得ている。両国の橋渡し役としては適任だろう」


 適任ではある。けれど、個人的な因縁のある相手でもある。わたくしを告発した側の——いや、告発に使われた側の、と見るべきか。あの場で彼女がどこまで自覚的に動いていたのか、データはまだない。


「交渉には応じるべきですわ」


「当然だ。断る理由がない。——だが、条件は詰める」


 準備に、3日を費やした。


 まず前世の交渉理論を、この世界の地形に合わせて組み直す。要は「交渉が決裂したとき、双方は何をするか」の読み比べだ。こちらの決裂時の手は「峠の防衛を固めて時間を稼ぐ」。相手の手は「外交を打ち切って軍事行動に移る」。どちらも本音では選びたくない手——だからこそ、交渉に余地がある。


「敵を知るのが先ですわ。リーゼ、ヴァルハイム関連の資料を。それから——明日の夜、模擬交渉に付き合ってくださいまし。あなたが使節役」


 この模擬交渉が、思わぬ収穫だった。リーゼの演じる「ヴァルハイム使節」が、辛辣なのである。


「『その条件は、貴領の財政状況から見て強がりに聞こえますが』」


「……リーゼ。台本にない攻め方をしましたわね」


「敵は台本を読みません。それと、いまお嬢様は0.5秒、目が泳ぎました。財政の話を振られたときの癖です」


 0.5秒を計測する秘書がいるか。いるのだった、ここに。おかげで本番前に、自分の癖を3つ潰せた。


「敵を知るのと同じだけ、こちらの手の内の漏れ方を知るのが先ですわ」とは、模擬交渉後のわたくしの負け惜しみである。


 リーゼは交易記録、過去の外交書簡、国境紛争の年表を3日で1冊の報告書に編んだ。読み込むうちに、ひとつの数字が目に留まる。ヴァルハイムの穀物輸入量が、この3年で5割増えている。あの国は、食糧を自給できていない。


 頭の帳面の奥に、その数字をしまった。今日は使わない。けれどいつか、効く場所で使う数字だ。


 交渉前夜は、チェス盤の前でディルクと役割を詰めた。


「明日、あなたも同席なさるのでしょう?」


「する。クラウスの補佐として」


「では分担を。わたくしが交渉の主話者。あなたは軍事の論点だけ口を開く。クラウスは——」


「黙っていてもらう」


「……身も蓋もないですわね。けれど正しいですわ」


 クラウスは善人だが、外交には向かない。正直すぎるのだ。交渉の席は、見せる札と伏せる札を配分する場所である。なお当人にその旨を伝えたところ、「黙る練習をしておく」と腕を組んで宣言し、夕食の間ずっと黙って麦酒を飲んでいた。練習の成果は、明日分かる。


「ヴァルハイムが本当に欲しいものは何か。そこがまだ見えませんの」


「峠の通行権、という線が濃い。あの国にとってグルント峠は、南方への最短路だ」


「通行権……軍の通行も含めて?」


「含めてくるだろうな」


「呑めませんわね」


「当然だ」


 ナイトを跳ねさせると、ディルクがビショップで応じた。盤上の攻防と明日の攻防が、頭の中で二重写しになる。


「ひとつ、忘れるな」


 ディルクが盤から目を上げずに言った。


「交渉の席に着いた瞬間から、向こうは『何を話したか』ではなく『誰が話したか』も持ち帰る。あなたの顔と名前が、ヴァルハイムの記録に載る」


「ええ。それも織り込み済みですわ。——載るなら、『侮ってはいけない相手』の頁に載りたいものですわね」


 翌朝。


 砦の大広間に、簡素だが清潔な交渉の卓が設えられた。リーゼが一晩で整えた会場は、辺境にしては見事な体裁である。白い麻のクロス、水差しと杯、陶器の壺には砦の庭の野の花。「花は格式、水差しは『毒を盛らない』という意思表示です」とはリーゼの弁。秘書の領分を超えた知識だが、追及しないでおいた。


 ルイーゼ・フォン・ヘッセンドルフは、護衛2名と書記1名を伴って現れた。


 記憶の中より、少し大人びて見える。桃色のドレスではなく、深い青の旅装。栗色の髪はきっちり結われ、大きな瞳を満たしているのは涙ではなく、冷静な観察の色。


「ベアトリーチェ様。お久しゅうございます」


 流暢な挨拶に、震えはない。——断罪の場で泣いていた人とは、別人のようだ。あるいは、あの場のほうが演技だったのか。


「ルイーゼ様。辺境までようこそ」


「参りたくて参ったわけではございません。任務ですので」


 率直だった。困ったことに、好感が持ててしまう。交渉相手への好感は経費が高くつくのだけれど。


 席に着く。こちらはクラウス、ディルク、わたくしの3名。向こうはルイーゼと書記。護衛は広間の外に待機させた。


「では、本日の議題をお示しします」


 ルイーゼが書面を出す。ヴァルハイム語とクロイツブルク語の併記、形式は完璧。


「ヴァルハイム国は、グルント峠の共同管理を提案いたします。峠の通行権を両国に開放し、管理費用を折半する案です」


 ——来た。


 予想通りの通行権。ただし「共同管理」の枠をかぶせてきた。相互利益の装いを着せて、こちらが即座に拒否しづらくしてある。提案書の書き方ひとつで、相手側の交渉設計者の腕が分かる。良い腕だ。困ったことに。


「ルイーゼ様。その共同管理に、軍事的な通行は含まれますの」


「含まれます。平時の巡回程度を想定しておりますが」


「平時の巡回の、定義は」


「——1個小隊以下の規模での、定期巡回」


 1個小隊。およそ30名。峠の現守備兵力と同等の兵が、合法的かつ定期的に峠を通れるようになる。巡回の名のもとに地形を覚え、防備を数え、いつでも「定期」を「奇襲」に変えられる。


 ちらりとディルクを見た。表情は動いていない。けれど指が眼鏡のブリッジに触れている。分析中の合図だ。


「ご提案は拝聴しましたわ。こちらから2点、確認させてくださいまし」


「どうぞ」


「1点目。この提案は、イグナーツ将軍の発意ですの? それとも外務省の判断?」


 ルイーゼの目が、一瞬だけ揺れた。声は乱れない。


「外務省の正式な提案です」


「2点目。国境で上がった狼煙は、この提案と関係がございますか」


 今度は、ルイーゼが黙った。書記のペンが止まり、広間が静まり返る。


「……狼煙については、お答えする立場にございません」


 答えないこと自体が、答えだった。外務省の使節が狼煙を知らないはずがない。知っていて「答えない」を選ぶのは、狼煙が外務省の管轄外——軍の独自行動だと、暗に認めたのと同じだ。つまりヴァルハイムの内側で、外交と軍は同じ譜面を見ていない。この亀裂は、覚えておく価値がある。


「では、こちらの立場を申し上げますわ」


 背筋を伸ばし、卓越しにルイーゼの目を見る。


「峠の軍事的通行権は、いかなる形でもお認めできません。辺境伯領の安全保障に直結いたしますので。——ただし」


 一拍、間を置く。相手の注意を引きつけてから、本題を載せる。


「民間の交易を目的とした通行については、協議の余地がありますわ」


 ルイーゼの目が鋭くなった。全面拒否ではなく、条件付きの対案。これなら、交渉を続ける理由が双方に残る。


「……条件をお聞かせください」


「詳細は次の会談で。本日はお互いの立場の確認まで、といたしましょう」


 最初の席で全部を決めない。札は少しずつ開き、相手の反応を見てから次を考える。


 交渉が終わり、ルイーゼが客間へ下がったあと。


「お嬢。あの女、やるな」


 黙る練習の成果を完璧に発揮した(発言回数0回)クラウスが、腕を組んで唸った。


「ええ。侮れませんわ」


 ディルクが眼鏡を拭きながら、静かに言う。


「軍事と交易を分離して対案を出したのは正しい。だが、相手も分かっているぞ。交易路が開けば、民間人に紛れて情報収集ができる」


「ええ。それも想定の上ですわ。——情報の窓は、こちらからも向こうを覗ける窓ですもの」


 すべての手には裏がある。こちらの対案にも、相手が呑む案にも。その裏を読み合うのが外交という遊戯だ。遊戯と呼ぶには、賭け金が重すぎるけれど。


「それにしても、お嬢」


 クラウスが思い出したように言った。


「あの娘、晩飯はどうする。敵さんの使いでも、客は客だぞ」


「砦の食事を、そのままお出しして。猪肉と黒パンと、例の薄くない茶を」


「飾らんでいいのか」


「ええ。下手に王都風を取り繕うより、『辺境は質実で、隠し事のない土地』という印象のほうが、はるかに高く売れますの。——本当は隠し事だらけですけれど」


 クラウスが髭を揺らして笑った。外交とは、食卓の上でも続いているものである。


 窓の外、夕暮れの空を細い雲が流れていく。


 交渉は始まったばかり。盤面はまだ序盤。けれど、相手が手強いほど、一手の意味は深くなる。


 ルイーゼ・フォン・ヘッセンドルフ。断罪の場では泣いていた女が、交渉の席では一滴の涙も見せなかった。


 あの涙は、何だったのか。——それを確かめるのは、もう少し先になりそうだった。

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