終結
光莉は、何も言えなかった。
喉の奥が熱い。
怖かったはずなのに。
逃げたかったはずなのに。
今は、胸の奥が、違う意味でいっぱいだった。
蓮の手が、まだ自分を包んでいる。
強引じゃない。
でも、“絶対に離さない”という意思だけは、痛いほど伝わってきた。
圭介が、二人を見たまま、ゆっくり息を吐く。
「……意味分かんねえ」
笑うみたいに言う。
でも、その声には、もう最初みたいな余裕はなかった。
「お前らの昔話なんか、聞いてねぇよ」
蓮は、静かに言葉を続けた。
「俺、あの日、多分人生で初めて、
“誰かに助けてもらった”って思ったんです」
光莉の目が揺れる。
「怖かったはずなのに、
見ず知らずの俺を助けるために、光莉さんは逃げなかったから」
雨の中。
震えながら、それでも自分の前に立った女性。
大人なのに、全然強そうじゃなくて。
それでも、必死に止めようとしてくれた。
——忘れられるわけがなかった。
「だから、また会えた時、すぐ分かりました」
光莉の指先が、小さく震える。
「でも、あなたは全然覚えてなくて」
少しだけ、拗ねたみたいに笑う蓮。
こんな状況なのに、その顔があまりにも切なそうで。
光莉の涙が、また溢れた。
「……ごめんなさい」
「謝らないでください」
すぐに返ってくる。
「覚えてなくても、俺には会えたこと自体が勝手に嬉しかったので」
その空気に、圭介が耐えきれなくなったみたいに、舌打ちした。
「……気持ち悪っ」
低く吐き捨てる。
「何?運命でした、みたいな話?」
蓮の表情から、すっと温度が消える。
「あなたには、関係ありません」
圭介が笑う。
でも、その笑いは空っぽだった。
壊れかけみたいに、乾いていた。
蓮は、光莉の手をゆっくり離す。
「光莉さん、先に車へ戻っててください」
「……え」
光莉が顔を上げる。
蓮は静かに微笑んだ。
でも、その目だけは笑っていない。
「大丈夫ですから」
圭介が、面白そうに目を細める。
「何?かっこつけてんの?
俺とやる気?」
蓮は答えない。
ただ、真っ直ぐ圭介を見る。
その視線に、圭介の笑みが、少しずつ消えていった。
昔、路地裏で蹲っていた、細くて小さかった高校生。
殴られても、睨み返すことしかできなかった少年。
——でも、今は違う。
蓮は、静かにネクタイを外した。
それを見た瞬間、光莉の胸が大きく脈打つ。
「蓮さん……!」
止めなきゃと思うのに、足が動かない。
蓮は、シャツの袖を一度だけ折った。
「一つだけ言っておきます」
低い声。
「もう二度と、光莉さんに近づかないでください」
圭介が嘲笑う。
「断ったら?」
次の瞬間。
圭介が先に動いた。
拳が振り上がる。
——でも。
蓮は避けた。
最小限の動きで、圭介の腕を掴む。
「やめて!!」
光莉の叫びが響く。
そのまま、蓮の拳が振られる。
圭介は反射的に目を閉じた。
けれど。
殴ったのは、顔のすぐ横の壁だった。
鈍い音が響く。
「っ……!」
圭介の肩が跳ねる。
蓮は、静かに息を吐いた。
「昔は、殴られてばっかりでした」
感情を抑えた声。
「でも、あの日から、守れないのが嫌だった」
光莉の胸が、強く締めつけられる。
「だから鍛えました」
短い言葉。
でも、その重さが痛いほど伝わる。
圭介が、苛立ったように舌打ちする。
再び殴りかかってきた。
蓮は、真正面から拳を掴み受け止めた。
その瞬間、圭介の表情がまた歪む。
力で負けている。
それを、理解してしまった顔だった。
蓮は、圭介を真っ直ぐ見ながら言う。
「あなた、怖かったんですよね」
「……は?」
「光莉さんが、自分なしで幸せになるのが」
図星だった。
圭介の顔が、目に見えて歪む。
「だから閉じ込めた。でも、それは“好き”じゃない」
「知ったような口きくな!!」
叫ぶような声。
蓮は、一歩も引かない。
「俺は」
はっきりと告げる。
「この人が怖がること、もう二度としたくないんです」
圭介の呼吸が荒くなる。
視線の先。
少し離れた場所で、秘書に支えられながら、
不安そうにこちらを見る光莉。
でも、その目にはもう、昔みたいな情は残っていなかった。
あるのは、恐怖と。
——決別。
それを見た瞬間。
圭介の肩から、力が抜けた。
「……くそ」
掠れた声。
負けた。
完全に。
自分で捨てた光莉を失ったことを、ようやく理解した。
「……もういい。失せろ」
投げるみたいに言う。
その声には、怒りも執着も、疲れたように混ざっていた。
蓮は、しばらく圭介を見ていた。
本当に、もう追ってこないか。
光莉へ、危害を加えないか。
確認するみたいに。
「行きましょう」
そして、蓮は小さく言って、光莉の肩をそっと抱く。
光莉は、一瞬だけ圭介を見た。
昔、好きだった人。
幸せになりたかった人。
でも。もう戻れない。
戻っちゃいけない。
圭介は、その視線から逃げるように、顔を逸らした。
「……二度と来んな」
それだけだった。
蓮は、何も返さない。
ただ、光莉を連れて、車に戻った。
車に着いた瞬間。
冷たい夜風が、頬に触れる。
その瞬間。
やっと終わったと実感した光莉。
「……っ」
光莉の足から、力が抜ける。
倒れかけた身体を、蓮がすぐ抱き留めた。
「大丈夫です」
優しい声。
「もう終わりました、安心してください」
その言葉で。光莉は初めて、本当に助かったんだと思った。
涙が止まらない。
蓮のスーツを掴む手に、さらに力が入る。
蓮は、そんな光莉を見て、苦しそうに眉を寄せた。
「……怖かったですよね」
光莉は、何度も首を横に振る。
「ごめんなさい……
私のせいで……」
「違います」
少し強めに、蓮が遮った。
そして。光莉の頬に触れる。
壊れ物に触るみたいに、そっと。
「あなたは、ちゃんと逃げようとしました、
一人で頑張った」
その言葉に、光莉の瞳が揺れる。
誰にも頼れないと思ってた。
迷惑をかけるだけだと思ってた。
でも蓮はこんな私を離さなかった。
ただ、見つけられたことを、心から安堵している顔をしていた。
「……迎えに来るの、遅くなってすみません」
その一言で。
光莉は、とうとう声を上げて泣いた。
蓮は何も言わず、ただ静かに、光莉を抱きしめる。
まるで。
——失くしかけた宝物を、もう二度と離さないみたいに。




