きょうふのみずおけ
いやあ、本当に助かった。
ジルがいなければ誇張なくこんな短時間で片を付けられなかった。
蛇は兎角生命力に富んでいるのだ。
胴体を潰しても駄目。首を落とすか頭を潰すかしなければ止まらない。
その上あの大きさの魔蛇である。首を落としても首だけで動きそうだし、そもそも私に首をすぱんとやれるほどの膂力もなければ武器もない。しかも、上顎周辺にあるであろう毒腺を傷つけでもしたらあの一帯が大変なことになるという縛りもある。
そんな諸々の理由からひたすら頭を蹴り続けるという耐久レースに臨んだのだけど、結果は散々なものだった。大敗と言って良い。
蛇革を舐めてた。打撃が全然通らない。あのまま続けていたら言い訳できないような怪我をもらっていたはずだ。
まさにその瀬戸際、ジルが来てくれた事であいつの注意が逸れたのだから、まあ控えめに言って恩人だよね。
蛇との一戦を振り返りながら古森の中層まで駆け抜けた。休憩と偵察を兼ね、高い木の上に登ってそっと下界を眺める。
(あ、あれはガイさんかな。ジル、拳骨を貰ってる…。蛇の亡骸は是非とも有効活用してほしい。革は若手諸君のいい防具になるだろうから)
そうそう、更に言えばジルがちゃんと武装していたのも有り難かった。
偉いよ、ジル。常在戦場ってやつかな。
その獲物が太さと厚みのある大剣であったことも頭に突き刺すのにプラスに働いたし。
弓だとまた色々細工が必要だし、短剣だったり細身のやつだったらやっぱりもっと時間もかかっていたと思う。革のブーツよりは百倍マシだけど。
(泉の方は随分明るいな。拠点があるんだっけ。痛みで呻く声も聞こえるけれど、明るい声も聞こえる。死者が出なければいいのだけど)
それから半身も、ジルがいたからこそ良いところ見せるチャンスと張り切って力を貸してくれた。
金属製の大剣から発芽させるなんて無茶な奇跡を見せたのは奴だ。魔蛇の脳をミンチにするなんて凄惨な攻撃も奴の趣味である。
私だって剣に魔力を付与するくらいのことはできたしそうするつもりだったけど、結果としあれほど効率良く蛇を無効化できたかと問われればそうじゃない。
私がボコられそうになっても静観の一手だった癖に、本当に精霊らしいいい性格をしている。
(あ、フレドリック様発見。よかった!もう一人も生きてるね。)
しかしまあ、フレドリック様を守るんだと意気揚々と抜け出してきたというのに、私の身一つでは何も成し得なかったことにがっくりである。恥ずかしい。
蛇を最優先にし過ぎて今の今までフレドリック様の保護をすっかり忘れていたくらいである。
イレギュラーな存在である蛇さえどうにかすればと考えていたこともあるけど、もしこのうっかりのせいでフレドリック様に何かあれば、余程強引な手を使って介入することになっていたはず。
準備不足、考慮不足で先走った結果だ。母様に知られたら「めっ」とされるところである。
…そもそも蛇がもうちょい小さい個体なら、このままでもいけたと思うんだけどなぁ。
いや、真摯に反省はしておこう。少しばかり平和ボケしていたのは確かだ。
少し考えて、浅瀬側で彷徨っている興奮状態の群れについては蔦でぐるぐる巻にしたり、よく眠れる花粉を振りかけてもらうよう木々にお願いをしておく。
主原因の蛇は狩った。じきに森も落ち着きを取り戻すだろう。
それまで大人しくしていてほしい。
一通り確認すると、ぐっと背伸びをした。
くるりと後ろを向けば塀に囲まれたお城の影が見える。森はまだ暗く、日の出までには時間があるだろう。あれが、私の今の居場所だ。
…帰って、少し寝ようかな。
意識すると急に眠気がやってくる。これも甘やかされた結果の一つ。
ふあ、とあくびを噛み殺して立ち上がった。
反省多数、上出来とは言い難いがこれにて一件落着。あとはお城で皆が帰ってくるのを待つこととしよう。
行きと同じく城までの直線距離をかっ飛んでいく。
動き回った疲労はあったけれど、充分に回転数を稼いだせいか体のキレはいい。
行きよりもよほど高く城壁を乗り越え、とんとんと屋根を伝って窓の開いた自室へ向かった。
裸足で部屋へ滑り込み、そうっと衣装部屋へブーツを返しに行く。
ブーツのつま先や踵には傷や凹みが多数ついていた。泥は払ったが傷は消しようがなかった。まあ元々奥の方に置いてあったし、早々にバレはしないだろう。
(体がちょっと砂っぽい気がする。水浴びでもして来れば良かったかな)
くん、と肌の匂いを嗅ぐ。
外気に晒された肌や髪、寝衣の細かなひだに砂が入り込んでいてもおかしくない。様々なものに触れた手指も綺麗とは言い難い。寝台を汚さないと良いのだが。
こんなところも次回の改善点だと反省しながら寝台に向かったその時、体がぴたりと止まった。
「…え?」
思わず声が漏れた。
寝台の横、小さな机の上に桶が置かれていたのだ。肌触りの良さそうな布と、隣に畳まれているのは新しい寝衣?
見覚えがない。少なくとも、昨夜就寝する間際まではこの部屋になかったはずだ。
(…いやいや)
恐々小ぶりの桶を覗き込めば、桶はその中ほどまで水を湛えている。ふわっと顔にあたる空気が生温く、もしやと思って桶の側面に手を当てるとまだどこか温かい。
うひゃっとあげそうになった悲鳴を、どうにか口に手を当てて抑え込んだ。
(…誰かがこれを届けに来た。私の部屋に。この、空っぽのベッドの隣に!)
誰か、なんて言うまでもないだろう。
ぎぎぎ、とゆっくり後ろを振り返る。勿論誰もいないけれど、その壁の向こうは私付きのメイドの部屋でもある。
(気付かれた。どうやって?いや、でもその割に城は静かだ。じゃあ気付かれなかったのか?だったらどうしてこのタイミングで水桶と着替えが用意されてるの…?)
まさに、ちょうど汚れた身体を拭き清めるのに十分なセットだ。
(気付かれた。もしくは、気付かれていた。でも、黙認された。帰ってくることも想定されていた。怪我はないけれど手足を汚してはくるだろうと…それも予想して?)
ごくりと息を呑んだ。
優秀だと常々感じていたけれど、浮かれた主人に冷や水を浴びせるタイミングも秀逸だ。高揚した気分は月葉草を必要としないくらいに冷え込んでいる。
暫くの間混乱する頭を押さえて桶を見つめていたが、先延ばしにしていても埒があかないと意を決して手を伸ばし、布を濡らして体を拭いた。目が勝手にちょっと潤む。
(…どういう顔で、会えば良いのか)
お湯加減はやや温めで、想定よりも時間がかかりましたねと言われているような気にさえなるから不思議である。
寝衣も着替えて、しょんぼりと萎れた青菜のようになりながら寝台に潜り込んだ。
(眠れないよぅ…)
どくんどくんと鳴り響く鼓動を感じながら寝返りを打っていたはずだった。
なのに私の意識はいつの間にやら体の疲労とともに溶けて消え、そしていつもより大層遅めの明る朝、メイの声掛けで呼び戻されて飛び起きることとなる。
ひえっ。




